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行政法

A. 行政事件訴訟法

1. 取消訴訟の原告適格

行政処分の取消訴訟は、それを求めるにつき「法律上の利益」を有する者に限り、提起できる(9条)。改正法(平17.4.1から)は、これを変更しなかったが、解釈を拡張するための解釈規定を置いた。
これまで具体的利益を欠くとして原告適格を否定してきた最高裁の判例は以下の通りであり、今後その見直しがなされることになる。

 

(イ)周辺住民

・伊達火力発電所のための埋立て免許に対する周辺漁民(昭60)
・パチンコ屋の営業許可に対する周辺住民(平10)(近隣診療所の訴えは認められている。)
・環6高速道路計画許可に対する大気汚染を受ける地域住民(不動産権利者は認められる。)(平11)
・墓地経営許可に対する周辺住民(平12)

 

(ロ)消費者

・主婦連ジュース表示事件(昭53)
・近鉄特急の料金改定に対する通勤定期の利用者(平元)

 

(ハ)文化的利益

・町名変更に対する住民(昭48)
・伊場遺跡の史跡指定解除に対する学術研究者(平元)

 

(ニ)その他

・在留資格を1年に限定した許可処分に対する外国人(平8)

 

2. その他の改正点(平17.4.1から)

(1)一定の要件のもとに行政機関に対する義務付け訴訟や行政処分に対する差止め訴訟が認められることになった。

 

(2)担当行政庁が国または公共団体に属する場合、被告は国または公共団体とされることになった。

 

(3)国や東京にある公法人を被告にするとき、裁判所は東京地裁だけでなく高松地裁でもよいこととなった。

 

(4)出訴期間は、「処分などがあることを知ったときから6ヶ月」に延長された。「正当な理由があるときは」その後ででもできる。

 

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B. 情報公開法

1. 不開示情報

「以下に掲げる不開示情報以外は、開示しなければならない。」(5条)

1号「個人に関する情報であって、特定の個人を識別できるもの」

・知事の交際費の相手方氏名

開示 会費、生花料、供花料、しきみ料
不開示 香典、せん別、祝い金、弔慰金、見舞い金

・知事の飲食費・懇談費の相手方氏名
公務員でも私人でも公務であり個人情報とは言えず、開示。しかし、6号の内密を要する行政事務情報として不開示にされる場合はある。
・公務員の氏名は、中央官庁の課長以上は、氏名が出されるが、それ以下のものは、職のみが出される。

 

2号 会社などや個人事業に関する情報で「公にすることにより、その権利、競争上の地位、その他正当な利益を害するおそれのあるもの」

開示 健康茶の残留農薬検査結果
医薬品の動物実験、臨床試験の結果、副作用情報
不開示 新薬製造承認申請の中の製造ノウハウ

 

5号 審議・検討・協議に関する情報

開示 ダムサイトの地質調査報告書
不開示 ダムサイト候補地地図
監査委員による事情聴取書

 

6号 行政事務の「適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるもの」

開示 公共工事の落札の予定価格の事後開示(事前開示の動きも広がっている。)

 

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C. 租税・社会保障

1. 森信茂樹「日本の税制何が問題か」(岩波書店 2010/9)

(所得税)

・OECDは、日本の税の所得再分配機能は、先進国で最も低いと指摘している。
・個人所得税の個人所得に対する負担率は、 日本はかなり低い。

日本 7.2%
米国 13.1%
英国 13.9%
ドイツ 12.1%
フランス 10.0%

・所得控除は、減税効果が高所得者に拡大する。これに対し、税額控除は、税率を引き上げることなく、累進税率を高める効果がある。税額控除のできない低所得者層には給付付き税額控除がなされている(英国、米国、オランダ等)。
・社会保険料は逆進的である。消費税よりも逆進性が高い。このことは、社会保険料負担の基礎年金部分を所得税・消費税で代替していけば、社会全体の逆進性は緩和されることになる。
・高齢化社会に突入している先進国共通の課題は、限られた貯蓄・資本を効率的に活用することである。基本的な考え方は、勤労所得は累進課税、金融・資本所得は比例税率にして、両者の損益通算を認めないということである。
金融所得の一体化を進める必要がある。
・公的年金受給者の夫婦世帯の納税最低限は216万円であるのに対し、現役世代の夫婦世帯の課税最低限は、157万円となっており、世代間不公平の一因となっている。
・「給付付き税額控除」(提言)

(イ)勤労税額控除
世帯収入100~350万円の勤労世帯に対して30万円の税額控除を行う。軽減額が税・社会保険料合計を超過するときは、超過分を給付する。

(ロ)児童税額控除
課税所得200万円(妻子二人の場合なら給与所得は600万円)以下で23歳未満の扶養親族を持つ納税者に扶養親族一人当たり5万円の税額控除を与え、税額控除しきれない納税者と非納税者には差額を給付する。

(ハ)消費税逆進性対策税額控除
対策の必要な家庭の所得を最大300万円として、その生活費100万円と想定する。消費税を10%とすると消費税負担額は10万円。平均世帯人数を2人として1人当たり5万円の税額控除をし、控除しきれない超過分を給付する。年収300万円を超えたところから10%ずつ逓減する。

 

(消費税)

・インボイスは、税務当局への提供を義務づけるような性格のものではない。
インボイスが導入されることにより、事業者の正確な申告へのプレッシャーは高まり大きな効果が期待されることは事実だが、所得税を含めたすべての問題を解決するといった神話は過剰な期待である。

 

2. 橘木俊詔「格差社会」(岩波新書 2009/9)

・相対的貧困率(その国の平均的所得の50%以下の所得しかない人の割合)
OECD2004レポートによると

(1)メキシコ 20.3%
(2)アメリカ 17.1%
(3)トルコ 15.9%
(4)アイルランド 15.4%
(5)日本 15.3%
OECD全体の平均 10.7%
(24)スウェーデン 5.3%

・母子家庭の相対的貧困率 2001年 53%

・所得税の最高税率

1986 70%
1989 50%
1999 37%

・法定の最低賃金額(1997)
購買力平価による時間あたり最低賃金額

フランス 3.97ポンド
アメリカ 3.67
日本 2.41

・フルタイマーの中位に対する割合

フランス 57%
アメリカ 38%
日本 31%

・最低賃金以下の賃金しか受け取っていない労働者の割合

フランス 12%
アメリカ 5%
日本 10%

・教育支出のGDPに対する割合
2003 OECDレポートによると(加盟19ケ国中)

スウェーデン 7.5%(2位)
フランス 6.0%
イギリス 5.0%
アメリカ 4.9%
ドイツ 4.2%
日本 4.1%(18位)

・税と社会保障による再分配効果
OECD 1999レポートによると

アメリカ 11.1%
ドイツ 14.4%
日本 7.5%

 

3. 本田良一「ルポ 生活保護」中公新書 2010/8

・母子家庭の貧困率は、 58.7%
2003のOECD加盟国30ヶ国の平均は、30.8%。
日本は最下位。
2位はアメリカ 47.5%
低いのはスウェーデン 7.9%
デンマーク 6.8%
日本の母子家庭で生活保護を受けているのは、2008年で13.3%に過ぎない。

 

・生活保護費は、「最低生活費」から年金等の収入を差し引いて支給される。
「最低生活費」の一例
釧路市の33才、29才、4才、5才の家族で
家賃の上限   3.7万円
児童養育費加算  2.6万円
を含めて月22.9万円

 

・2006年の生活保護基準は、

68才一人 84~111万円
母子35才と5才 140~181万円
35才、32才、10才と8才 204~265万円

国が4分の3、市が4分の1を負担している。

現金預金は、生活保護基準額の半月分までしか持てない。
自動車は、原則、持てない。
医療費の自己負担はない。(生活保護費の49%は医療扶助に使われている。)

 

・2010/3 受給者134万世帯のうち

高齢者世帯 43.8%
傷病者障害者世帯 33.6%
母子世帯 7.7%
その他 15%

 

・2008年で平均受給期間は、8年1月。

1年未満 11.2%
1~3年 18.4%
3~5年 16.1%
5~10年 28.1%
10年以上 26.2%

収入増加や傷病治癒により55.5%が保護廃止。その他は死亡または失踪。

 

・65才の単身者が受け取る生活保護費は、釧路で、住宅扶助の上限が2.9万円を含めて月10.1万円。
医療費の自己負担もないし、国民健康保険料を払う必要もない。
これに対し、国民年金の老齢基礎年金は、月6.6万円。国民年金は、それまでの貯蓄や資産があることを前提にしており、最低生活を保障するという狙いはない。
国民年金の納付率は、2008年で62.1%まで下がっている。

 

4. 伊藤光晴「政権交代の政治経済学-期待と現実」(岩波書店2010/9)

・減税は、高額所得者を益する。彼らは、減税があってもその分貯蓄に回すだけで、消費に回す量は少ないから、景気を浮揚させる効果はない。

・所得分布で上位10%の人というのは、年収約800万円以上の人である。

・道路もかなり充実した。ダムも空港もこれ以上要らない。景気浮揚のためには、公共投資を減らして、直接消費に回すのがよい。

・子ども手当や高校授業料無償化は、所得制限なしに一律に供与し、公平は、所得税の累進性を強化することによって図るのがよい。

・所得税の最高税率は、1986年では70%、1988年で60%、1999年には37%まで下げられている。累進度を元に戻す必要があるが、米国とは、所得分布が違うので、70%に戻したところで税収は、それほど上がらない。

・現状の財政赤字を付加価値税(インボイス付きの消費税)で補うとすれば西欧並みの税率20%になる。
付加価値税は、ベーシック・インカムと組み合わせることによって、逆累進的でなくなる。
ベーシック・インカムとは、すべての人に一定の金額(例えば年20万円)を保障する。
4人家族で年収400万円の場合、付加価値税80万円、ベーシック・インカム年80万円、従って税率0となる。
年収800万円の場合、全部消費したとして、税率10%となる。
年収200万円の場合、年40万円が国の持ち出しとなる。

・日本のガソリン価格は高いわけではない。ガソリン税の暫定税率を維持して、道路に投資するのでなく直接消費に回すのがよい。

 

5. 石黒一正「2020年、日本が破綻する日」(日経プレミアシリーズ 2010/8)

・政府の金融債務の残高対GDP比(2010 OECD)

アメリカ 92.4%
イギリス 83.1%
ドイツ 82%
フランス 92.5%
イタリア 127%
日本 197%

・2010年の国の収支

税金などの収入 48兆円
歳出 92.3兆円
国債などによる借入 44.3兆円
国の累積債務残高 973兆円

・2009年度における国の総予算(一般会計と特別会計) 207兆円
その38%は 国債の返済費
33%は 社会保障費

・2007年度の国のバランスシート

資産 695兆円
負債 978兆円
債務超過 283兆円

 

・提言

(1)社会保障(年金・医療・介護)の受益と負担の調整を図る(日銀のような政治的中立の)独立機関を設ける。

(2)受益水準やベース財源は政治が決定するが、社会保障予算をハード化する。

(3)社会保障の世代間不公平を解消するため、賦課方式から積立方式に転換する。転換の過渡期は公債で負担し、長期に償却する。

(4)現在の財政赤字と社会保障の世代間不公平を解消するには消費税率を20%増税し、25%にしなければならない計算となる。
日本ほど少子高齢化が進んでいないEU諸国の付加価値税は15~25%であり、日本の財政は先進国の中で最悪であることを考えると現実的な数字と受け止める必要がある。
消費税の逆進性は、例えば年収300万円以下の世帯に消費税収入の一部を交付することにより緩和できる。

 

6. 高橋洋一「借金1000兆円に騙されるな」(小学館新書 2012/4)

・いまや日本だけが、減債基金という名目で国債費を膨らませている。その額は、毎年10兆円。減債基金を積まなければ、国債はあと10兆円少なくて済む。余計に発行している10兆円は埋蔵金としてただ財務省に積んであるだけだ。(47頁)

・日本政府の資産650兆円のうち400兆円は金融資産である。土地建物など固定資産は200兆円もない。日本のGDPを500兆円、政府債務残高1000兆円、政府の保有する資産を650兆円とすると、ネットの負債は350兆円だから実際のところ、現在日本のネットの負債はGDP比70%にしかならない。グロスで見るとGDPの200%、イタリアでも130%しかない、というのは全くのミスリーディングである。(54頁)

・格付けは現にマーケットから相手にされなくなりつつある。クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)は、リーマンショック以降市場に厚みが出て、合理的と思われる価格がつくようになった。東京金融取引所には「J-CDS」と呼ばれるマーケットがある。(69頁)
2012/2の時点でイタリア国債が4%強、スペインが4%弱で推移しているが日本国債は1.2%程度だ。(92頁)

・円高の根本的理由は日銀がマネー量を増やしていないからなのだから、いくら介入しても円高の流れを止められない。介入の結果入手したドル資産は含み損を出すことになる。昨年以降の介入における含み損を考えれば、外為特金の含み損はすでに40兆円に膨らんでいると見られる。少なくとも変動相場制を採用している先進国でここまで大規模な為替介入資金を抱えている国はない。日本の外貨準備はGDP比2割程度にも達し、1~2%程度が普通の先進国の中では突出している。(146頁)

 

7. 志賀 櫻「タックス・ヘイブン」(岩波新書 2013)

・日本の所得税は累進課税を採用している。しかし、実際には、1億円の28.3%をピークjにして逆進的になる。100億円に至っては13.5%まで下る。租税回避と脱税の実際までを考慮すると、負担率の低下はもっと著しい。(2頁)

・スイス、ルクセンブルグ、ベルギー、オーストリアの最大の特色は秘密保護法制である。スイスの銀行秘密保護法は特に有名である。これら4ヶ国は、国際的圧力によって、2009年にその態度を改めることを公約させられた。この公約が実行されるかどうかは、まだこれからのことである。(27頁)

・シティとウォール・ストリートの権益はいまや、英国とアメリカの国益そのものである。英国の大蔵省などは、その点において露骨である。(42頁)
シティが金融で英国のGDPの20~30%を稼ぎ出し、英国の租税収入の10%を占めているためである。シティの権益に直結するタックス・ヘイブンを守ることは、英国の国益を守ることである。

・バブル前後の時期、日本の金融機関が外資系金融機関に食い物にされた様子は、例えばフランク・パートノイ「大破局」(徳間書店)に活写されている。(59頁)

・武富士事件-父親がまず息子を香港に住まわせ、1年だけであるが日本の相続法上の非居住者にしておき、そのうえで日本国外にある資産を贈与した。当時の相続法上では、日本の贈与税はかからなかった。しかも香港には相続税も贈与税もない。2011年最高裁は、息子が非居住者であることを認めて、1585億円の贈与税を還付させ、400億円ほどの還付加算金が支払われた。今では相続税法が改正され、この抜け穴はふさがれている。(66頁)

・国際貿易に占める多国籍企業の企業内取引の割合は、3分の2に上るといわれている。
日本からのケイマン諸島に対する直接投資の額が、アメリカ、オランダに次いで第3位であるということは、日本企業による国際的租税回避がはなはだ盛んであることの証左である。(89頁)

・旺文社ホールディング事件-オランダに100%子会社を設立し、巨額の含み益のある株式を出資した。別のオランダの子会社に第三者割当増資を行って、これにより日本の課税当局は、株式の含み益に課税する機会を失った。オランダではこのような含み益に課税できない。2006年に最高裁は、無償の資産譲渡であることを認めて、93億円と過少申告加算税13億円の課税を是認した。のちに法人税を改正してこの点を明確にした。(92頁)

・五菱会事件-スイスのチュ-リッヒの銀行に口座を開設してヤミ金融で稼いだ収益約50億円を隠匿していた。チュ-リッヒ州がその口座を差し押さえた。スイスの法制では差し押さえた口座の額のうち約半分は国庫に入ることになっている。日本に返された残りの半分は、法務省が本件限りの特別法を作って、2008年戻ってきた29億円を被害者に返還した。(132頁)

・筆者の最大の問題意識は、不必要な金融危機を幾度も招き寄せるマネーの暴走であり、そしてヘッジ・ファンドなどにマネーゲームの舞台を提供しているタックス・ヘイブン(先進国のオフショア・センターを含む)の害悪である。(149頁)

・投機マネーによって破壊されつつある金融システムを守るべき政府が動員できる資金は、ヘッジ・ファンドなどのマーケットが動かす資金の規模に比べれば微々たるものに過ぎない。
ヘッジ・ファンドなどが動員する投機マネーは、一国の経済を呑み込むことができるばかりか、世界経済を震撼させるだけの規模があるのである。
1990年代に入ってから、金融危機・通貨危機が頻繁に起きている。これらの危機の特色は、ファイナンス理論の急速な発展にともなうマネーゲームによって引き起こされたものが大半である。(158頁)

 

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D. 農業

1. 神門善久「さよならニッポン農業」NHK出版 2010

・2005年農地の 10分の1は、耕作放棄されており、その面積は、東京都の面積の 1.8倍に及ぶ。就業者に占める農林水産業の割合は 4%、GDPに占める割合は 1.5%。

・2008年のOECD推計によると、「農業生産や農業所得を支持している政策手段によって消費者または納税者から農業生産者に移転した金額」は、農業生産額との比で、

米国 6.85%
EU 30.53%
カナダ 13.05%
日本 47.81%(4.2兆円)

・1970年代で、兼業農家が 85%を占めるようになり、農地の転用益を得る目的で、農家が票田として政治家を支持し、その見返りに公共事業の呼び込みを求めるという構図ができあがった。

・2005年総農家戸数 285万戸、うち稲作農家 200万戸、稲作で主として生計をたてている農家 8万戸。

・2009/8の衆議院選挙で 1兆円の戸別所得補償を掲げた民主党に、農民票が一気に流れた。(ちなみにコメの生産額は年 1.8兆円 )

・WTOは、先進国が自国農家に補助金を支給する場合、農産物の増産をもたらさないように制度設計することを要求している。先進国の農産物輸出により途上国農業を圧迫するのを防ぐため。戸別所得補償はこれに反しよう。

・農地の固定資産税は、10アール当たり年数千円程度、相続税はほとんどない。土地譲渡所得税を強化する必要がある。

・農業をするに相応しい人を選ぶというよりも、土地ごとに詳細な利用規定を作成し、それを守る限り人を問わないという発想に転換すべきである。

 

2. 八田達夫「日本の農林水産業」日経出版 2010

・八田は、2007~2010年内閣府の規制改革会議の委員として農業タスクフォースの主査をつとめた。

・「主業農家」とは、所得の 50%以上が農業所得で、1年間に 60日以上自営農業に従事している 65歳未満の世帯員がいる農家。

・65歳未満の男子がいる専業農家は全農家の1割。
全農家の 6割が兼業所得の比率が高い兼業農家で、他に勤めをもっていて農業からの収入を期待するよりは、将来の農地の転用益を期待して農地を持ち続けている。
このことは、農家の 9割は、パートタイムで週末しか農業をやらないサラリーマンか、高齢の専業農家(そのかなりの割合は退職したサラリーマン)であることを示している。

・サラリーマン世帯の平均所得は 642万円、主業農家は 664万円、兼業農家は 792万円(2002年)。

・兼業農家の生産額シェアは、野菜  18%、牛乳  5%、コメ  62%。
サラリーマンが片手間に農業をしても生産できるのはコメだけである。

・農家 1戸当たりの農地面積(2007年)
EUの 9分の1
アメリカの 99分の1
オーストラリアの 1862分の1

・GDPに占める農業の割合は 1%
農林水の割合は 1.1%
政府予算に占める農水省予算は 4.7%
農協の職員(31万人)と組合員(500万人)の合計は日本の成人人口の 5.5%

・日本農業の総生産額 8.4兆円のうち コメ 1.9兆円、 野菜 2.1兆円、 畜産 2.6兆円。
オランダは、小麦、トウモロコシ等の穀物は大量に輸入し、野菜、畜産物など単位面積当たりの生産額が高いものを輸出して、純輸出額は世界第1位(アメリカ2位)。しかし、食料自給率は日本の半分ぐらい。日本の目指すべき一つのモデルである。

・コメの輸入関税は 778%。これは、米価を高くしたため減反しなければコメの生産が余ってしまうという状況を作り出した。

・民主党の戸別所得補償は、欧米で主流のディカップリングのための所得保障とは全く別の制度である。欧米のは、政策変更のため農業から撤退せざるを得なくなった農家のための過去の収益をベースにした所得補償である。民主党のそれは、生産費と市場価格との差を今後の収益をベースにして補償するもので、かえって高生産をうながし、兼業農家を減らすどころかこれを維持する結果となる。

・農地法は、株式会社の農地所有を禁じ、借入れも厳しく制限している。株式会社の参入の自由化を一刻も早く実現すべきである。

・民間による農地取引市場を育成すべきである。

・農地は固定資産税や相続税で優遇されている。生前の農地売却益にはその時点での軽減された相続税率による課税をすべきである。

・食料自給率については、金額ベースでは 70%と、諸外国と比べてもかなり高いが、カロリーベースでは 40%(2007年)しかない。
日本では比較的高価な野菜の自給率が 8割であるため、金額ベースでは高いが、カロリーベースでは低くなる。水産物や果実も同様である。
反対に輸入の多い小麦、食肉、植物油、トウモロコシ等はカロリーが高い。しかし、これらの輸入先はアメリカ、オーストラリア等で輸入に不安はない。
石油はほぼ全量輸入しているが、1年分の備蓄をしているのみである。コメも国内生産量と合わせて1年分を備蓄すれば、食糧安保という点では必要十分である。代替品や代わりの輸入先がある食料についてはもっと少なくてよい。

 

3. 浅川芳裕「日本は世界5位の農業大国-大嘘だらけの食料自給率」講談社新書2010

・国内の農業生産額は 8兆円、

1位 中国
2位 アメリカ
3位 インド
4位 ブラジル

2001年以降 8兆円を維持している。

・農産物の対GDP輸入率は、日本が特に多いわけではない。

日本 0.9%
ドイツ 2.6%
英国 2.4%
フランス 2.2%
米国 0.6%

・農家の過去 10年間の減少率   先進国では同じようなものである。

日本 22%
EU 21%
ドイツ 32%
オランダ 29%
フランス 23%
イタリア 21%

・すでに少数精鋭の農家が日本人の食を支えている。200万戸の販売農家(面積30アール以上、または年間の農産物販売金額が50万円以上の農家)のうち、売上 1000万円以上の農家はわずか 7%の 14万戸。しかし彼らがなんと全農業生産額 8兆円のうち 6割を産出しているのだ。
残りの 180万戸強、農業者全体の 9割は何をしているのか。そのうち売上(利益ではない)100万円以下の農家が120万戸も存在するが、彼らは国内生産額にわずか 5%しか貢献していない。過去5年間の成長率はマイナス 130%で大半が赤字である。赤字といっても、零細農家だからではない。彼らはほかの仕事で稼いだお金を農業に使っているだけなのだ。

・日本のような食品加工技術が発達した先進国では、原料を国際価格で輸入できれば、加工産業が競争力を持てる。そして農産加工品が世界に輸出されれば、輸出向け商品の原料となる国産農産物の需要や競争力も引き出される。

 

4. 本間正義「農業問題」ちくま新書 2014

・日本農業の弱点

(イ)減反政策 - 耕地の半分は水田である。農業産出額に占めるコメの割合は今や 割である。全水田面積の 割を減反している。(66頁)

(ロ)農地政策 - 米国、豪州はもちろん、多くの欧州諸国でも、農業地帯と工業地帯や商業地帯は、自然にまたは計画的に区分され、それらのゾーニングは基本的に変わることはない。(74頁)
日本では、農地価格は、そこで生産される農産物からの還元価格ではなく、非農業用地としての需要を織り込む地価が形成されている。固定資産税は低く、相続税も特典が認められており、こうした優遇措置が農地の保有コストを引き下げ、むしろ農地の継続保有の誘因となっている。

(ハ)農協 - 日本の農家数は 253万戸であるのに、農協の正組合員は 467万人もいる。さらに准組合員は 517万人いる。職員数は 21万6000人にのぼる。
農協の行う事業は、販売事業で 4兆2000億円、購買事業で 3兆円。JA農協は巨大商社であり、大銀行であり、大保険会社である。

(ニ)食料自給率へのこだわり - 日本の食料自給率は、カロリーベースで 39%、生産額ベースで68%である。

・コメの内外価格差(10キログラム当たり)

カリフォルニア産キャルローズの日本における小売価格 1620円
同産あきたこまち 2075円
国内産あきたこまち 3000~3500円
同産コシヒカリ 3500~4000円

国内米は、米国産の2倍程度と見ることができる。(201頁)
黒竜江省産のコメの小売価格は1723円と推定されている。(202頁)

 

5-1. 山下一仁「日本の農業を破壊したのは誰か」講談社 2013

・農業集落の数は、1970年から 14万程度でほとんど変わっていない。農業集落のうち農家が70%以上を占める集落は、1970年の 9万から、2011年には6分の1の 1万5000と大きく減少した。農家集落の中で農家が70%以上を占める集落の割合は 10%に過ぎない。(19頁)
農村地帯にも産業化や経済成長の波が押し寄せ、農村の構成員には、役所、会社、工場などに勤めるサラリーマンが多くなった。農業を続ける世帯でも兼業農家が多くなった。特にコメは、機械化が進み、農作業に必要な時間が大幅に少なくなったため、平均的な規模の水田では週末の作業だけで十分となった。
GDPに占める農業の割合は、1%に低下している。北海道、東北、南九州の農業県といわれる地域においても、5%程度に過ぎない。(22頁)

・農地価格 - 2007年における 10アール当たりの農地価格は、アメリカ 6万3000円、フランス 5万5000円、イギリス 15万4000円、これに対し日本は、126万2000円。高い農地価格は、ゾーニングを適切に実施しない農政に責任がある。(30頁)

・規模の大きい主業農家は、農産物の販売でも肥料などの資材の購入の面でも、農協を多く利用する。しかし、農協の 1人1票主義のもとでは、数の上で多数を占める兼業農家の発言力が強く、兼業農家主体の農協運営がなされてしまう。(31頁)

・農家には農地を転用することにより莫大な利益が転がり込む。転用価格は、(2005年 )市街化調整区域内で 10アール 2315万円、農家の平均的規模である 1ヘクタール(1万平方メートル)で 2億3000万円の利益である。大都市周辺ではこの何倍にもなる。(34頁)

・コメ作の労働時間は、10アール当たり1951年の 201時間から2010年には 26時間へと減少した。コメ作の労働時間が減少したため、農家は兼業に出ることになった。今小農は、週末にしか田んぼに出ない。(50頁)
1965年ごろから農家所得は勤労者所得を上回るようになった。コメ作では 6割が兼業農家によって行われている。(58頁)
本当に農業で食べている農家(主業農家)は、34万戸、全農家の 14%に過ぎない。(69頁)

・農協の准組合員は、農業と無縁の存在である。2009年には准組合員の数が正会員を上回り、2011年では組合員数983万人中准組合員 517万人が、正組合員を 50万人も上回っている。(71頁)
衰退する農業への貸し出しが大きく減少する中で、准組合員に対する住宅ローン、車ローン、教育ローンの貸し出しによって発展してきた。
コメ農家平均で(2010年)、所得は 441万円、内訳は、農業所得 48万円、農外所得 189万円、年金など 204万円である。(76頁)
都市部の農協組合員の多くは、兼業農家でさえない准組合員である。その関心は、農業でなく、都市銀行が貸し出しをためらった住宅ローンや自動車ローンなどの小口ローンだった。
JAバンクの貯金残高はどんどん拡大し、2012年には 88兆円に達し、我が国第2を争うメガバンクである。ここからJAが貸し出している比率は 3割程度である。他の金額は海外での有価証券投資などに運用され、世間を騒がせた住専問題はこの金が住専に流れたものである。農業に融資されているのは、全貯金額の 1~2%程度である。(119頁)
JAの共済事業は、生命保険と損害保険の双方を行っている。その総資産は 51兆円で、日本生命の 55兆円と肩を並べる。そもそも農産物の不作などについては、農業災害補償法に基づく農業共済制度があるのでJAによる共済制度は不要だった。(116頁)

・農協の市場でのシェアは、農産物では、コメで 50%、野菜で 54%、牛肉で 63%、農業資材では、肥料 77%、農薬 60%、農業機械 55%である。(126頁)

・そもそも食料自給率ではなく、農地や担い手などの農業資源の確保を目標とすべきである。「食料自給力」と言ってよいかもしれない。しかし、悲しいことに、減反政策のように、高米価を維持するために、食料安全保障に不可欠な農地資源や農業者の意欲を減少させるような政策が取り続けられている。(142頁)

・農業生産額は 1984年の 11兆7000億円をピークに 2011年には 8.2兆円と、ピーク時の 3分の2の水準に低下した。農業純生産(所得)は 1990年の 6.1兆円から 2010年には 3.2兆円に半減した。アメリカの農業総生産額がこの 20年で倍増したことと対照的である。(156頁)
減少が激しいのはコメである。農業生産額に占める割合は、コメ 22%、畜産 31%、野菜 26%である。
65歳以上の高齢農業者の割合は 1960年の 1割から 6割に上昇。
農地面積は、1961年に 609万ヘクタ-ル、その後造成により 714万ヘクタールまで増えたのに、現在では 455万ヘクタールしかない。現在の水田面積は 247万ヘクタール、農地改革で小作人に開放された 194万ヘクタールを上回る 260万ヘクタールの農地が、半分は耕作放棄、半分は転用されて消滅した。(158頁)

・香港でのコメ評価(1キログラム当たり)は、

日本産コシヒカリ 380円
カリフォルニア・コシヒカリ 240円
日本産コシヒカリ 150円
ジャポニカ米中国産一般 100円

(231頁)

日本米と品質的に近いのは、中国産米とカリフォルニア米である。現在ではその価格差は 30%程度である。しかも日本産米の 1万3000円という価格は、減反政策で供給量を制限することによって実現された水準なので、減反を廃止すれば、価格は 8000円程度まで低下し、日中米価は逆転する。(237頁)

 

5-2. 同「農協解体」宝島社 2014

著者による農協改革の具体案(219~224頁)

 

(1)JAバンクと共済(保険)を農協から分離し、地域の協同組合として独立させる。
その組合員は、農業者に限る必要はない。

(2)残る農業協同組合は、組合員を一定の農業者に限定(例えば 2ヘクタール以上または販売額 200万円以上の農業者)した自主的な協同組合とする。
単協が自主的に連合会を形成するのはよいが、全農は、旧国鉄のように分割することも考えられる。
一人一票制を廃止し、利用に応じた投票制にする。

 

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E. 原発

1. 「福島原発 超巨大地震」(ニュートン2011/6)

・3/11 津波の最大値

大船渡 11.8メートル
釜石 9.3メートル
相馬 8.9メートル
石巻 7.7メートル
宮古 7.3メートル
仙台新港 7.2メートル

・3/11 地震マグニチュード 9.0
4/12までの余震

7.0以上の余震 5回
6.0以上の余震 68回
5.0以上の余震 408回

・燃料を格納するのは厚さ16センチの鋼鉄製の「圧力容器」、圧力容器を納める「格納器」、それらをおおうのは厚さ2メートルの鉄筋コンクリート製の「原子炉建屋」

・4/6の東電発表によると、1号機の炉心に納められている燃料集合体400体のうち約70%が損傷、548体の燃料集合体が納められている2号機と3号機はそれぞれ約30%、約20%の損傷率だと推定されている。

・最近の巨大地震

1952 カムチャッカ M9.0
1957 アリューシャン M9.1
1960 チリ M9.5
1964 アラスカ M9.2
2004/12 スマトラ島沖 M9.0
2010/2 チリ中部沖 M8.8
2011/3 東日本沖 M9.0

 

2-1. 古川和夫「原発安全革命」文春新書2011/5

ウラン固体燃料による軽水炉に代えて「トリウム溶融塩核エネルギー炉」を実用化すべきである。

(1)燃料として固体でなく液体の「フッ化物溶融塩」を使う。
これを利用した炉技術の基礎は、米国オークリッジ国立研究所で十分に整えられている。500度以上で充分化学的に安定かつ低粘性の常圧液体として使える。必要な核燃料物質であるウラン、トリウム、プルトニウムの溶解度も十分である。固体燃料よりはるかに扱い易く安全である。

(2)核燃料物質としてウランでなく「トリウム」を使う。
トリウム232のみからなる天然トリウムに中性子を吸収させて、核分裂性のウラン233を作り、火種として利用する。トリウムからプルトニウムなどの超ウラン元素はほとんどできない。それどころかプルトニウムを炉内で有効に燃焼消滅させることができる。
トリウム資源は豊富でしかも偏在してない。

(3)発電炉を小型化できる。
既存の軽水炉は小さなものでも60万キロワットなのに対し、これは10万~30万キロワットからできる。

(4)核燃料を「加速器溶融塩増殖炉」で増殖する。
核スポレーション反応により中性子を豊富に入手する。世界の20~50か所の地域センターに置き、各地の発電炉と組み合わせて使う。

・以上のシステムは、15~20年以内で実用化できる。今世紀中頃までに化石燃料を抑え、基幹エネルギー技術に育つ可能性がある。その後を太陽エネルギーに引き継がせる。
・ウラン動力炉は、当初原爆製造に重要なプルトニウム製造を志向していたため、トリウムは、軍用に適さなかった。原発産業は、1~2年でとりかえる固体燃料棒集合体の製造でもっぱら利益を得ていたので、液体燃料に露骨に反対した。
・以上のシステムでは同時にプルトニウムや使用済み核燃料を燃焼消滅させることができる。

 

2-2. リチャード・マーティン「トリウム原子炉の道」朝日新聞出版2013/10

・トリウム溶融塩炉は、ほかの原子炉から出た使用済み核燃料に含まれる寿命の長い超ウラン元素を燃料として使うことができる。このような物質や元素は、使用すると害が比較的少なく寿命の短い使用済み核燃料となるため、これまでの使用済み核燃料と異なり、地面に穴を掘って何千年も貯蔵する必要がなくなる。(20頁)

・トリウム原子炉と液体を燃料とする原子炉の歴史はまるごと、オークリッジ国立研究所の建物にある文書箱の中に入れっぱなしのまま朽ち果てつつあった。(38頁)

・フランスのアレヴァ社は、数台建設できるかどうか、目下研究を進めている。同国の国立素粒子物理学宇宙論研究所は、実際に開発するのに必要な資金と支援を得ている世界で唯一の施設である。(51頁)

・炉を新たに設計する観点からみると、液体は、水であれ、液体金属であれ、フッ化溶融塩であれ、素晴らしい特徴を持っている。高温になると素早く膨張するという特徴だ。液体燃料炉では、エネルギーが増大するにつれ液体燃料が膨張し、放っておいても自然に核分裂反応の速度をゆるめるため、暴走事故は起こらないといってよい。原子炉内で何か不具合が起こっても、温度が上昇するにつれ反応度が低下すれば、温度上昇は止まり、炉は運転停止の方へ向かう。(117頁)

・臨界事故が起こったら、原子炉の下部についている栓が溶融し、重力により炉から燃料が排出されて、地下にある遮蔽容器に流れていく。核分裂反応は収まり、流れ出た液体は熱を失う。メルトダウンが起きることはありえず、放射能が高すぎて取り除けないような固体燃料棒は存在しない。(119頁)

・トリウムは豊富にある。安全に採掘できる。核兵器の製造には適さない。トリウム炉によると燃料に閉じ込められている潜在エネルギーをはるかに多く消費し、核廃棄物の問題を大幅に減らすどころか、むしろ取り除いてくれる。(120頁)

・トリウムフッ化物溶融塩炉は、実質上、核燃料を残らず消費するため、廃棄物の大半は、核分裂物質でなく核分裂生成物であり、その半減期は何十年という単位であり、何千年というわけではない。トリウムフツ化物溶融塩炉自体が、使用済み核燃料のゴミ捨て場となる。(124頁)

・1959年、アメリカにはトリウムを主な燃料として用いる溶融塩炉を作るための設計があった。原子力業界はまだ幼年期だった。商業用としての原発施設は、1年前に運転し始めたばかりだった。トリウムを使う溶融塩炉が、軽水を使うウラン炉に勝る点がいくつも立証されていた。しかし、勝ったのはウランだった。その結果思いがけないことが次々と起こっており、その大部分は不幸な事例だ。ウランが勝ったことは、歴史上きわめて大きな技術的失敗だった。(184頁)

・中国は、2011年2月に上海で行われたある科学会議でトリウムフツ化物溶融塩炉の開発計画を始める予定であると公式に発表した。上海応用物理研究所には職員400人と4億ドルの予算があり、2015年までに溶融塩炉の原型炉2基を建設する計画である。(252頁)

・トリウムフツ化物溶融塩炉の利点には、量産できることがあげられる。小型でモジュラー式のものは、250メガワットの装置として建設でき、組み合わせてもっと大型の施設とすることもできる。(380頁)

 

3. 「原発と震災-この国に建てる場所はあるのか」岩波書店「科学」2011/6

・柏崎刈羽原発は、7機の原子炉を持ち、1ヶ所の原発規模としては世界最大である。
2007/7/16 午前10時13分ころ、上中越沖を震源とする M6.8の地震が起きた。死者11人、住宅全壊1118棟。
新潟県は、2004/10  M6.8の中越地震、1964/6  M7.5の新潟地震を経験している。
この地域は、古くからの油田地帯である。
1966/6  この地に原発を誘致する話が田中角栄と木川田東電社長の間に起きた。田中の関連する室町産業が同年9月には荒浜砂丘地のうち 52町歩を買い占めた。この土地は1981年全部東電に買収された。
中越沖地震で稼働中の 2、3、4、7号機が止まった。1、5、6号機は定検中であった。
敷地内の地盤は、隆起・陥没によって波立ち、液状化の跡、のり面の地割れが諸々にあり、1号機の地盤には 160センチの段差ができた。地盤沈下が原因で 2号機の変圧器は 2時間燃え続けた。
原発の被害個所は、調査が進むにつれ、2556ヶ所に及んだ。(山口幸夫 2007/11)(19頁)

・中越沖地震から 11日が過ぎた 7月27日、柏崎刈羽原発に入った。入ったといっても 5~7号機用の敷地に足を踏み入れただけで、原子炉建屋などに入ることは許されなかったが、それでも、アスファルト道路があちこちで波を打ち、タービン建屋や原子炉建屋の周辺の地面がところによっては 1メートル近く沈降し、大型の鋼製濾過水タンクの底部が、激しい上下動で座屈したのか、大きくひしゃげていた。(田中三彦 2007/11)(33頁)

・原発の寿命は、建設当時、ほぼ40年と想定されていた。
これを60年に延ばして使う方針が決まった。今まで 13基の原発について 60年まで運転してもOKのお墨付けが与えられた。
原子炉圧力容器の中性子照射脆化、応力腐食割れ、疲労、ケーブルの絶縁低下、配管減肉が問題になる。
アメリカでは、安全上不安の大きい原発や経済性の低い原発は閉鎖されてきた。日本では、老朽化原発の閉鎖が選択肢になっていないこと自体が異常である。(井野博満 2007/11)(73頁)

・高レベル放射性廃棄物は、政府のスケジュールでは、2025年頃までには処分地を選定し、約10年で処分場を建設し、その後約50年かけて 4万本のガラス固化体を埋設したのち、約10年で坑道をすべて埋め戻して閉鎖することが予定されている。
目安として 30年から50年程度は埋設せずに保管して放射性能が弱まるのを待ってから埋設を始めるのである。
処分地の公募に応募したところは現在のところない。(藤村 陽 2007/11)(82頁)

 

4-1. 堀江邦男「原発ジプシー」現代書館1979初版・2011増補改訂版

・黒人労働者は福島原発だけでなく、敦賀原発でも働いている。67年から69年にかけて約150人、77年に約60人。
「わしは少し前まで東芝の下請け会社で働いていた。そこでおもな仕事は炉心部で、制御棒の調整や点検。線量が高いんで、働いている時間は、1日に10分から15分、それでも100ミリレム近く浴びるんよ。」
「わしらでさえアラーム・メーターは50とかせいぜい80を持って入るんだけど、黒人たちは200を持って入るのよ。それで、1日に、だいたい700は浴びとったな。給料?べらぼうに高いことは覚えとる。なんでも、どれだけ線量浴びたらいくらという計算らしかった。やつらは、3日、4日働くと、すぐいなくなっちゃうのよ。すぐに新しいのが交代で来たけど。」(223頁)

・3日前に激しい寝汗をかいたころから、敦賀原発を辞めることを秘かに決心していた。昨年9月に美浜原発で働き始めて、福島原発、敦賀原発とすでに半年以上、もう肉体的にも精神的にも限界に近づいていることを薄うす自覚しはじめていた。骨折した患部もまだ時どき痛む、完治していないのだ。それに放射能。連日50ミリレム前後という高線量を浴びている。この状態があと1ヶ月も2ヶ月も続いたら・・・。それは不安というより、恐怖に近かった。(302頁)

 

4-2. 森江信「原発被爆日記」初版1979 講談社文庫1989

・ふつうの現場の半日作業が、原発では50人がかりの作業となる。従事する労働者は、作業員というよりも被爆要員なのだ。(123頁)

・個々の作業員の入社時からの経年的データをずっとみていくと、半年もするとカウント数がぐっと増えいくのがわかる。放射能に汚染されていく様子がグロテスクなくらいにはっきりとでている。(192頁)

・この3年間は私にとって大きな体験だった。大学に入学した時から数えれば、原子力に関わり始めてから9年。入社前から抱き続けてきた原子力への疑問は、この3年間で深まる一方だった。今から思えば「時代の先端技術だ」と思い上がった意識で進路を選んだ私の誤りを、はっきりとこの目で見届ける行為だったと思う。その思いが私としてあきもせずこの会社について語らせる。(214頁)

 

6-1. 児玉龍彦「除染せよ、一刻も早く」文藝春秋 2011/10

・最先端の遺伝子研究に従事している者からすると、放射能汚染への対応は、全く違うかたちで捉えられる必要がある。

・放出された放射性物質の「総量」は、熱量から概算すると広島型原爆の 29.6個分、放射線量から概算すると 20個分。

・放射性セシウム137(これは原爆以前には地球上に存在してなかった。)の半減期は約30年。1年たったときに原爆が放出した放射性物質は1000分の1になるのに対し、原発は10分の1にしかならない。

・「総量」を減らし、できるだけ身の回りの放射線レベルを下げるために除染を行っていくのが、今、取るべき最善のことである。

・緊急的除染としては、妊婦や子供が日常的に生活する保育園、幼稚園、学校、病院を中心に高線量のホットスポットを発見し、それを細かく丁寧に除染していくこと。

・通常の土壌汚染は 100年以上もつコンテナにいれ、盛り土で分かりやすくするのが一番と考えられる。

 

6-2. 同「放射能は取り除ける」幻冬舎新書 2013/7

・ヨウ素131は、1ヶ月で10分の1になる。セシウム137は、10分の1になるのに100年はかかる。もっとも早く消えるから安全と言うことではない。放射性物質の特徴は、消えるときに放射線を出すという点にある。消えるときにヒトの遺伝子を傷つけて、がん発生の準備をしてしまう。さらに困まったことに、がんは最初に遺伝子に傷がついてから何年もたって発症する。子供の場合は10年、大人の場合は30年ほどたつと、がんが増えてくる。
チェルノブイリでの教訓は、大気中に散った汚染物は、食物連鎖により一気に濃縮されるということである。降ってきた放射性ヨウ素は牧草にくっつき、それを牛が食べて牛乳に濃縮され、それを飲んだ子供の甲状腺に濃縮される。(16頁)

・チェルノブイリ時代の検査機の 400倍のスピードで検査できる検査機が開発され、2012年秋には、福島のコメは全袋検査が可能となった。1000万を超えるコメ袋が検査され、基準値超えが 71袋検出された。さらに 50~100ベクレル/キロのものが 2066袋検出され、市場には安全なものだけが出荷された。これは風評被害を防ぐのに最も有効な対策となった。(21頁)

・コンクリートにセシウムを含む雨がしみこむと、コンクリートを洗っても拭いてもなかなか落ちない。結局コンクリートを表面から削り、それに加えてアスファルト舗装を上からし直して遮蔽する必要がある。
田畑でも、セシウムが表面から 5センチ程度の、粘土を含む土にたまっている場合、その部分を剥ぎ取らないと、放射線量は下がらない。(24頁)

・現在、作付けや収穫の制限は、野菜  6種類、果物  11種類、穀類  6種類に上る。これらについても、結局は全品検査を基本にしていくことになる。(73頁)

・福島では、家の周りに畑や空き地、場合によっては屋敷林が広がっているところが多い。そうすると、家の周りの畑まで除染しないと効果が見えにくい。
こうして、プルームが通過したときに雨や雪が降ったところにセシウムが降下し、土、住宅、道路にしみこみ、森林、湖沼の底、海底でも、セシウムの蓄積が広範に起こった。
それが 30年から 60年、90年という、一人の生涯を超えたタイムスパンで、国土の汚染として残っていくのである。(75頁)

・当初は、雨と一緒に落ちてきた放射性物質が、レタスなどの葉ものやお茶の葉を汚染したのが中心だったが、次第にキノコのような、放射性セシウムを土壌中から集めやすいものに、問題が絞られてきた。
これらのコケやキノコを食べる新潟のイノシシでセシウム高値が報告されている。(125頁)

・放射性セシウムは、水に溶けるものと、粘土に結合したものがあり、粘土に結合したものは、表面 5センチ程度のところにあるので、汚染土として除去されるが、微粒子として川や水を流れたものは、湖沼の底や下水汚泥に集まっている。
草や樹皮などの植物や、可燃性建材についたものは、焼却により灰に濃縮できる。(244頁)
最も被爆線量の高い住民は、空間線量の高いところでなく、原発からかなり離れた地域で川魚をよく食べる住民であった。この住民に持ってきてもらったヤマメ、ニジマスなどがセシウムで汚染されていた。(247頁)

・福島原発事故で起きたことは、環境中にもの凄い量の放射性物質が放出されたことである。忘れてならないことは、環境中で放射性セシウムの濃縮が起こり、いわば自然のセシウム集積場ができてきているということである。
雨で降下したイオン型の放射性セシウムは、一部が土の中の粘土に捕まり、残りは流れていった。
この流れの中で、放射性セシウムのたまる場所ができていった。まずセシウムが降下した場所の 7割を占める森林である。セシウムがついた土砂の流出が続き、コケやキノコに集積し、それを食べるイノシシなどの汚染が続く。
次は湖沼の底である。いかにして撹拌を避けながら、底にたまったセシウムのついた土砂を除くかが問題となる。セシウムを含んだ土砂を焼却して濃縮し、保管する。(238頁)

 

8. 石井彰「エネルギー論争の盲点-天然ガスと分散化が日本を救う」NHK新書 2011/7

・天然ガスは、二酸化炭素排出量が石油より3割、石炭より5割少なく、汚染物質も圧倒的に少ない。(149頁)

・日本では一次エネルギー供給量に占める天然ガスのシェアは、15%と少ない。EUの平均で25%、英国・イタリアで40%、米国で25%、ロシアでは 5割以上。
EUでは、北海、北アフリカ、西シベリアからパイプラインで大量輸送してきた。
しかし、サハリンや東シベリアで巨大な資源量が発見され、そのほかオーストラリア、カナダ西岸、アラスカなどでも発見された。
シェールガス革命によりアメリカも輸出するようになる。
この10数年で日本は使いきれないほど豊富な天然ガスに取り囲まれるようになったのだ。しかし、日本人のほとんどは、この辺の事情に気がついてないか、気がつかないふりをしている。電力業界を最大のスポンサーとするマスコミは当然、ほとんど取り上げなかった。(153頁)

・現在でもサハリンの大きな天然ガス埋蔵量の大半は蓋をしたままで地下に眠っている。
サハリン-東京間のように 2000キロメートル程度の距離であれば、パイプラインによる天然ガスの輸送方式が世界の常識で、わざわざコストが高いLNGにして輸送するというのは普通ありえない。(157頁)

・最近になって、世界的なシェールガス革命による天然ガス可採資源量の爆発的拡大と価格低下傾向が明確になったことにより天然ガスシフトへの大きな転換点がやってきた。(160頁)
日本が輸入するLNGは、大半が石油価格準拠の値決めの方式を採用している長期購入契約となっており、まだこのシェールガス革命等により、価格水準の低下が顕著に反映されていない。いずれ低価格の波が日本を含む世界に波及してくるだろう。

・従来型の石炭火力発電所を、最新型の天然ガス・コンバインドサイクル発電所に切り替えると、発電効率は 5割上がって、二酸化炭素排出量は3分の2も減る。(177頁)

 

9. 原子力資料情報室「原発再稼働は危険だ」世界 平24/2

(1) マークⅠ型格納容器には構造的欠陥がある。
この型の格納容器では、ドライウェルとウェットウェルは 8本のベント管で接続されており、地震による配管破断のおそれが高い。
福島第一原発1~5号、東通、女川1~3、浜岡3、4、志賀1、敦賀1、島根1、2。
多少の改良を加えたマークⅡ型も同様の弱点がある。
福島第二原発の1~4、東海第2、柏崎刈羽1~5。

 

(2)老朽化原発
1970年代に圧力容器の寿命を 40年と想定した。
現在のところ 30年超のものは、福島第一と第二の 10基のほかに 15基、そのうち 40年超のものは 2基。

 

(3)浜岡、柏崎刈羽原発
いずれも巨大地震のおそれが高い。

 

(4)東北大地震による被害を受けた原発は他にもある。
福島第二原発 1~4号、女川原発 1~3号、東海第二原発、東通原発、六ヶ所村再処理工場

 

(5)若狭湾原発銀座
若狭地方には 13基の原発が林立している。この地域にはまた活断層が集中している。
若狭の原発のどれかで福島と同様の放射能放出事故が起きれば、京都、大阪は大打撃を受けるだろう。関西圏の水がめである琵琶湖の汚染も避けられない。

 

10. ア-ニ-・ガンダ-セン「福島第一原発-真相と展望」集英社新書2012/2

(1号機)
・水が圧力容器から流出しているだけでなく、格納容器から外へ漏れている。この状態が何年も続く。建屋地下の放射線量が高すぎて誰も近づけず、解決できない。
・冷却の問題は長期に及ぶ。3~4年が経ってようやく空気中で冷やせる水準まで核燃料の温度が下がるだろうが、それまでは水で冷やすほかなく、その間汚染水が漏れ続けるということである。
・1号機は地震そのものから構造的ダメージを受けた可能性が高い。

(2号機)
・見た目こそ一番ましだが、格納容器の破損が深刻である。東電によると 8センチの破損が入っている。格納容器の内部で爆発が起きたのであろう。脚の部分で爆発があったのではないかと考えている。格納容器と圧力抑制室を繋げるパイプで、マークⅠ型の弱点の一つである。
・格納容器が破損している 1、2号機からは何年にもわたって大気と地下水に放射能汚染が広がり続ける。
・やがてパイプを繋いで放射能物質をフィルターにかけながら排気筒から蒸気を逃すようになるであろう。深刻ではあるが残りの 2基よりはまだ扱いやすいといえる。

(3号機)
・格納容器のどこかに漏れがあるのは確実で、今なお蒸気が逃げている。何年にもわたって放出が続くだろう。やはり核燃料の大部分はメルトダウンし、さらにメルトスルーしている。
・3号機の特徴は、大規模な爆発と、使用済み核燃料プールの問題である。
状況から見て使用済み核燃料プールで不慮の臨界が起きたと考えるのが自然である。また、真ん中の方から蒸気が出続けているので格納容器の漏洩がある。つまり二つの出来事が生じたのである。

(4号機)
・専門家からみて一番の懸念材料は 4号機であり続けてきた。
4号機のプールには 10~15年分の使用済み核燃料が入っている。
4号機の建屋は、構造が弱体化し、傾いている。大きな地震に襲われた場合に倒壊する可能性が 4つの中では最も高い。
耐震性を高めるために打つ手はあまりない。東京の友人には 4号機が崩れれば即座に逃げるよう助言している。
建物全体が損傷を受けてぐらついている状況で、どうやって使用済み核燃料プールの燃料をキヤスクへ移すかという問題について、自分の専門分野とはいえ、どこから手をつけていいのか途方にくれるような状況である。

(廃炉)
・直径 10メートルもある格納容器の床から溶融した核燃料を剥がす方法は、誰も思いついてない。1本の燃料集合体には 172キロのウランが含まれているから、1~3号機の原子炉だけでも約257トンのウランを回収しなければならない。格納容器の蓋から底までの高さは 32メートルもある。その距離から遠隔操作のクレーンを用いて、溶融し金属と混じった燃料を探し出すのである。
・核燃料を取り出すためには、必要な技術を開発して作業に着手するまでに 10年、実行するのに 10年ほどかかるのではないか。
・ 福島第一原発では、核燃料を移動させるのに 20年、仕上げに 10年はかかるであろう。
・3号機を恐れる理由はもちろん十分にあるが、MOX燃料が入っていたことを特別視する意味はない。
・アメリカでこれまで稼働したことのある商業用原子炉は 125基だが、使用済み核燃料プールでの 3年間の冷却期間と 30年の中間貯蔵を経た最終処分場はまだ決まっていない。

 

11. 大前研一「原発再稼働 最後の条件」小学館 2012/7

・福島第一原発と第二原発で浸水範囲と被害状況に極端な差が出た原因は、津波の高さにあった。第一が 11.5~15.5メートルであったのに対し、第二は 6.5~7.0メートルにとどまった。想定される津波の高さを第一では 6.1メートル、第二では 5.2メートルとして津波対策をとっていた。
敷地の海抜は、第一の海側エリアが 4メートル、1~4号主要建屋エリアが 10メートル、5号機と 6号機の主要建屋エリアが 13メートルだった。
津波は第一では想定値を 5.1~9.1メートルもこえ、最も海抜の高い 5号機と 6号機の主要建屋エリアまですべて浸水した。
第二では想定値を 1.3~1.8メートル上回るにとどまり、直接の浸水被害がでたのは海抜4メートルの海側エリアだけだった。(52頁)

・非常用発電機については、たった一つ生き残った 6号機の非常用発電機は、海抜 13.2メートルに設置されていた空冷式の装置だった。たまたま高所におかれていたことと、空冷式だったことが幸いし、津波の被害をまぬがれた。この非常用発電機が設計通り自動起動して 5号機にも電気を融通し、5号機と 6号機は最終的に原子炉を冷温停止に移行することに成功した。
福島第二、女川、東海第二の各原発は、外部交流電源が残って機能したため、冷温停止に移行することができた。このように、外部交流電源、または非常用発電機のうち、一つでも残ったかどうかが、過酷事故と冷温停止の分岐点になったといえる。
交流電源喪失の際、直流電源と同様に頼りになるはずの電源車は、地震翌日の 12日朝に計24台が到着していたものの、接続先の電源盤の大半が津波で水没していたため、接続は難航を極めた。(83頁)

・1~4号機の非常用発電機は、主に海抜約2メートルの場所に置かれ、全部浸水した。2号機と 4号機では、2つある本体のうち 1つが海抜 10.2メ-トルの場所にあったものの、電源盤が浸水してしまい、機能を喪失した。第二原発の非常用発電機は海抜0メートルにあったが、建屋設置エリアが海抜 10.2メートルにあり、そこへの浸水そのものが少なかったことから一部が生き残った。(96頁)

・福島第一原発のタービン建屋やコントロール建屋では、非常用ディーゼル発電機や電源盤が地階や一階に設置されていたために、浸水して使用不能となった。(99頁)

・津波により、第一原発の「高圧電源盤」は 6号機の一部を残して全滅。「低圧動力電源盤」は 1号機と 3号機で全滅。電源盤の機能喪失により、せっかく電源車が来ても、 受電配電が不能となり、電源確保の道は断たれた。(102頁)

・非常用ディーゼル発電機は運転中に大量の熱を発する為、常に冷却・徐熱を行わなければならない。第一原発では、水冷式 10台、空冷式 3台が備えられていたが、津波により 1~6号機の全海水ポンプが停止し、海水冷却系を喪失した。(103頁)

・今回の事故で、政府にとっても東京電力にとっても、事実上想定外だったのは、「水素爆発」が起きたことだろう。(115頁)

・1990/8/30付で原子力安全委員会が決定した「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」によると「長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要がない。」としている。 事故の原因は、この政府の安全指針が間違っていたことにある。(116頁)

・何故 1号機だけ事故の進展が早かったのか。
地震発生から津波までの間、圧力容器内の水位や圧力の急激な低下は見られず、格納容器内の圧力上昇もわずかだった。また、格納容器内の放射線量は、全くといっていいほど、変化が見られない。このようにみると、炉心溶融を早めるような配管破断が起きていた可能性は極めて低いと考えられる。(151頁)
また 1号機が古かったから早く事象が進展したとも判断できない。(153頁)
津波襲来直後から原子炉の冷却機能は失われ、その 3時間後には燃料の損傷が始まったと推定されている。
問題は、復水器の弁が電源が失われた場合は、「閉」となる設計となっていたことである。頼みの綱の復水器が、全電源喪失によって使えなくなったことが 1号機の事象進展を著しく早めた主因と推定される。(155頁)
政府の事故調は 1号機の非常用復水器に関して東電のオペレイターが十分に理解していなかったと断じているが、復水器のフェイル・クローズにするという設計そのもの(GE社の責任)に問題があったと見るべきであろう。(161頁)

 

12. 渕上正朗ほか「福島原発で何が起こったか-政府事故調技術解説」2012/12 日刊工業新聞社

・政府事故調報告書では、地震発生から津波による全電源喪失までの 50数分間では、圧力容器、格納容器、復水器およびその周辺部について地震による「閉じ込め機能を損なうような損傷」の発生をほぼ否定している。(44頁)

・1号機のICは、全電源喪失と同時にフェールセーフ機能のため 4つあるバルブの全てが「閉」となって冷却機能がほぼ失われた。吉田所長はそれに思いが至らなかった。その結果、消防車による注水が始まる翌朝 4時まで全く注水が行われなかった。(52頁)関係機関の誰もがこれに気付かなかったのは驚くべきことである。(59頁)

・1号機のベントが遅れた理由。(74頁)
(イ)全電源喪失下でのベント作業のマニュアルはなく、訓練もされてなかった。
(ロ)直流電源が喪失した場合のためのバッテリーが備蓄されてなかった。
(ハ)バルブを動かすためのエア・コンプレッサーの備蓄がなかった。
(ニ)原子炉建屋に入る必要があったが、高線量のため入りにくくなっていた。

・3号機については、直流電源盤やバッテリーがタービン建屋の中地下階にあったため津波による喪失を免れ、圧力容器内の圧力や水位が監視できた。(77頁)
圧力容器も格納容器も損傷した。(92頁)

・2号機については、圧力容器も格納容器も損傷した。(105頁)
15日ごろから2号機から放射性物質の大きな漏洩があったことはほぼ確実である。(107頁)

・原子炉建屋の水素爆発は、世界の専門家のほとんど誰もが実際に起こるとは予想してなかったらしい。(108頁)
2号機で水素爆発がなかったのは、12日に隣の 1号機が爆発した際にブローアウト・パネルが脱落し、窓が開いた状態になって水素が充満することがなかったと考えられる。いわばケガの功名だった。

・事故の重要な原因は、(122頁)
(イ)1977/6 の安全設計審査指針以来、30分以上の電源喪失は考慮する必要がないとされてきた。これほど明確に裏目に出た安全指針は珍しい。
今回の事故で致命的だったのは、配電盤などの配電系が浸水というたった一つの原因で事実上全滅したことである。配電盤は、複数の配置やプラント間の融通などにより多重性は確保されていたが、多くは地下一階に集中的に配置されていた。
(ロ)津波の高さの予測の失敗。巨大地震の少ない日本海側の奥尻島でも北海道南西沖地震では高いところで 16メートルを超えた。 明治三陸津波でも 20メートル以上に達した場所も多かった。2004年のスマトラ島沖地震でも地形によっては 30メートルを超える津波が襲った。
福島第一原発では、想定値は 6.1メートルまで引き上げられていたが対策工事は未完成だった。

・比較的容易な安全策として次のものがあげられる。(132頁)
(イ)配電盤の設置場所を多様化する。
(ロ)計測・制御機能の維持のため直流電源の確保(バッテリーの備蓄)
(ハ)重要な部屋の水密化
(ニ)炉内水位計の改善
(ホ)移動式のエア・コンプレッサーの備蓄

 

13. 「国会事故調報告書」 2012/9 徳間書房

「要旨」より

・1号機では全ての常用および非常用配電盤、常用パワーセンターがタービン建屋一階に配置されていた。3号機では全ての常用および非常用配電盤、常用および非常用パワーセンター、非常用ディーゼル発電機が隣接するタービン建屋とコントロール建屋の地下一階に位置していた。通常の全交流電源喪失では仮定していない直流電源も失われた。(29頁 )

・東電は保安院への情報伝達だけでなく、官邸への対応も求められることとなった。これが、急進展する事象に対処する東電、特に福島第一原発の現場の混乱に拍車をかけたことは否めない。官邸政治家は、発電所外(オフサイト)における住民の防護対策に全力を尽くすべき官邸・政府の役割を認識せず、第一義的に事業者が責任を負う発電所内(オンサイト)の事故対応への拙速な介入を繰り返した。(35頁)

・広範囲に放出された放射性物質は、山林に長くとどまり、何十年たっても空間線量は自然には十分に低減しない。また、放射性物質は降雨などによって移動し、湖沼の底質などに比較的高線量の場所が形成されやすい。(40頁)

 

14. 船橋洋一「カウントダウン・メルトダウン」文藝春秋 2012/12

・3月12日午後7時過ぎ、武黒は、携帯電話で吉田所長に直接、電話を入れた。
「おまえ、海水注入は」
「やってますよ」
武黒はいきりたった。
「おまえ、うるせえ。官邸が、もうグジグジ言ってんだよ。」
吉田は、指揮命令系統がもうグチャグチャだ。これではダメだ。最後は自分の判断でやる以外ない、と割り切ることにした。
しかし、本店は慎重だった。
「首相の了解が得られていない以上、いったん中断も止むを得ない」
本店側は、そう繰り返した。
清水社長は言った。
「いまはまだダメなんです。政府の承認が出ていないんです。それまでは中断せざるをえないんです。」
社長直々の要請である。
一芝居打つしかないか、吉田はハラをくくった。
吉田は立ったまま、後ろから担当者の耳元にささやいた。
「本店から海水注入を中断するように言ってくるかもしれない。しかし、そのまま海水注入をつづけろ。絶対に注水を止めるな。わかったな。」(上169頁)
吉田は、5月末、国際原子力機関の視察団が来る前に、海水注入の真実を明かした。自ら、「カブキ・プレイ」を演じたことを暴露したのである。(175頁)

・13日朝、米海軍原子炉機関長官は、ヤツコ原子力規制委員会長官に空母ドナルド・レーガンで放射能が検出されたと報告した。空母は福島第一原発から 100マイル離れていた。
空母の甲板の線量は通常の 2~2.5倍高く、空中線量は通常の 30倍出ていた。
空母はブルームから 100キロ離れておくようとの指針が出された。
3号機建屋の爆発の後ヤツコは、炉心は溶け落ちている可能性があるが、閉じ込め機能は失敗していない。むしろヤツコが神経を尖がらしていたのは、原子炉よりも核燃料の使用済み燃料プールの空だきの可能性だった。
バラク大統領は、「もし、米国で起こったとしたら、どのくらいの退避区域が必要か。」と問うた(下71頁)のを踏まえ、ヤツコは退避区域を 50マイルと決めた。
原子力規制委員会は、17日未明、日本在住の米国民に対し、福島第一原発から半径 50マイルの退避区域を指示した。約 80キロ、仙台市の南部まで含まれる。
国務省は、米国政府職員とその家族に対し、自主的国外退避を勧告した。その往復費用は、政府が持つ。しかし、日本への再入国は政府が自主的退避勧告を取り消すまで認めない。(下63頁)

・北沢防衛大臣は、米空軍の無人偵察機グローバル・ホークに強烈な印象を受けた。
「高度 1万8000メートルからでも車のナンバープレートが読める高性能カメラと赤外線センサーを備えた同機は、なかなか把握できない原発建屋の詳細を撮影してくれた。」
「日本はロボット大国だと、信じているところがあった。しかし原発事故の現場で、日本製のロボットや機器はまったく機能してくれなかった。」
米政府のモニタリングの力は圧倒的だった。
「米国はパッと来て、パッとあれだけの線量マップをつくる。それだけの準備をしているからできる。」(下232頁)

・SPEEDIの専用端末は、文科省、保安院、原子力安全委員会に据えてある。
11日午後9時12分 1回目のSPEEDI評価結果を出し、官邸の危機管理センターの専用端末にその予測図を送った。12日午前1時12分に 2回目が送られた。危機管理センターに送られたのはこれだけに終わった。いずれも首相には伝わらなかった。
その後の 43回 167枚は、ERC内にとどまった。浪江町や飯館村に知らせなかった。(下256頁)

・カストー米国原子力規制委員会日本サイト支援部長が、日本に到着した後、本部に最初に指摘したのが要因不足の問題だった。福島第一では、200~300人で事故対応をしていると聞き、耳を疑った。
「4つの炉、6つの燃料プール、それを一人の所長が見ている。」
「東電は圧倒されている。人々はサイトを早い段階で去ってしまった。補充をもらってはいるが、一時 50人まで下がった。今は 100人程度と見ている。」(399頁)

・実際、15日の早朝、4号機建屋の爆発と2号機格納容器の損傷の際、従業員を退避させたが、その時、残ったのは70人だった。
FUKUSHIMA50は決して誇張ではない。
この数は、5つの原子炉と 6つの燃料プールを相手に格闘していた現場としてみれば、絶望的に不十分であり、いずれ全面撤退を迫られるか、全員玉砕に追いやられるかの規模でしかない。(426頁)
米政府は、この数字では東電の撤退は不可避だと深刻にとらえていた。
「このレベルの原発事故だと米国なら何千人で対処する。戦争計画のようなもので臨まなければならないところだ。」(428頁)

・4月に入って、誰も口に出さないが、微妙な変化が生まれた。
底は脱した、どん底から這い上がった、というだけではない。
「運がよかった」という感慨である。
「運が良かった」とは、
地震が起こったのが夜でなかったこと。
土日でなく平日の金曜日だったこと。
風向きが 11日から 14日まで太平洋の方に吹いたこと。もしこの間、風が内陸に向かって吹いていたら、放射能汚染ははるかに深刻だったろう。
14日の 3号機水素爆発の際、自衛隊に負傷者を出したが、奇跡的に死者が出なかったこと。
4号機の燃料プールに何かの弾み( 3号機の水素爆発?)で 4号機炉内の水が流れ込み、水量を維持できたこと。
4号機の爆発と同時に 2号機のサプレッション・チェンバーの圧力が急低下したこと。どこかに穴があいて、大量の放射性物質が放出した。そのことは不幸なことだったが、そのため格納容器そのものの爆発を防ぐことができた。もし 2号機が爆発していたら、誰も近づけなくなっていただろう。(436頁)

・カストーは、FUKUSHIMA50を言うなら、DAINI200を忘れてはならない、と語る。
「福島第一の吉田とともに福島第二の増田も讃えるべきだ。第二原発を訪問して、実際思っていたよりはるかに破壊されていたのだということを知った。9キロメートルのケーブルをわずか 2、3時間の間に 200人の人間とヘリコプターで敷設してしまった。あそこは信じられない荒業をやってのけた。」
カストーに言わせると、吉田も増田も称賛すべき指導力を発揮した。(453頁)

 

15. 特集「福島原発1000日ドキュメント」NEWTON 2014/4月号

(汚染水対策)

・建屋の地下に溜まっている汚染水を回収・浄化して、原子炉の冷却に利用する「循環注水冷却システム」が2011/6に稼働したことにより、建屋の地下に汚染水が増え続けるという状況は解消された。
それによると、処理した汚染水の約半分は、淡水となって原子炉の注水に再利用されるが、残りの半分はセシウム以外の放射性物質と塩分を多く含んだ「濃縮塩水」となる。それは、専用のタンクや地下貯水槽に貯蔵されてきたが、その貯蔵量が増え続けている。(68頁)
「循環注水冷却システム」により、1~3号機の原子炉には合計で 1日約400トンの水が注水されている。
それに加えて、1~4号機の建屋の地下には、山側から流れてくる地下水が 1日約400トンも流入しているという。
その結果、注水量と地下水の流入量の合計800トンの汚染水を処理して、1日400トンの「濃縮塩水」(汚染水)が生じ続けることになる。
・「海側遮水壁」は、18~27メートルの鉄製の管(鋼管)を 1~4号機の海側に打ち込み、横に連結させることにより、建屋の地下に溜まった汚染水が海に流れ込むのを防ぐ。
「陸側遮水壁」は、1~4号機の原子炉建屋とタービン建屋を取り囲むように、冷却材が通る管を地下 30メートルほどの深さにまで(1メートルほどの間隔で)埋め込み、その周囲の水を土ごと凍らせることで凍土壁にするという方法で作られる。「汚染源に水を近づけない」ための対策である。長さ約1.5キロは過去に例がないため効果を疑問視する向きもある。2014/4以降に工事が始まる予定である。(70頁)

 

(廃炉)

・1~6号機の廃炉の完了には 40年かかると見込まれている。
メルトダウンにより圧力容器が破損し、燃料デブリが格納容器まで流れ出たと推測されている。この燃料デブリの取り出しに 25年かかると見込まれている。(89頁)

 

(核燃料の最終処分)

・「使用済み核燃料」の再処理工程から生ずる「高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体 )」は、日本では 1本500キログラムのガラス固化体に換算して約2万5000本分の使用済み核燃料が生じている。
これらは少なくとも数万年の隔離が必要とされる。
フィンランド政府は、地下500メートルの岩盤にこれを処分することとしている。
1995年OECD原子力機関(NEA)は、「自国の放射性廃棄物は自国で処分する 」と提案し、各原発保有国が合意した。
出来たばかりのガラス固化体は、1時間あたり150シーベルトと放射線量が非常に高い。側にいると20秒で致死量に達する。(94~103頁)

 

16. 石川 迪夫「炉心溶融・水素爆発はどう起こったか」日本電気協会新聞部2014/3

・SCベントによる放射線量の放出は、ほとんど認められない。これはSCベントの除染効果が極めて優れているということで、重要な発見です。(226頁)今後は、SCベントの設計の改良が重要で、フィルターベントの敷設は不必要と思う。今になって考えると、事故発生直後ベント解放の許可をとるため汲々とした人達が気の毒になります。
・国際放射線防護委員会(ICRP)が日本政府に勧告してきた緊急時避難線量は、20~100ミリシーベルトで、この趣旨は、100ミリシーベルトまでは人体に影響響がないとICRPが放射線医学的に判断したということです。(238頁)これによると14日深夜までは住民避難の必要はなかったのです。
私がさらに嘆かわしく思うには、この 20ミリシーベルトの値が今では実質的に 1ミリシーベルトまで下がってきているということです。
私の個人的経験からいって、福島の放射線レベルは、発電所周辺の汚染の高い地域を除いて、人体に有害とは思えません。帰宅されたい人は、1日も早く帰宅されるのがよいと思います。(242頁)
・吉村昭著「津波」によると、1771年、沖縄県石垣島に85メートルもの高い津波があったと書かれています。現地の標高100メートルほどの高台に慰霊碑があり、当時の島民の約半数にあたる 1千名ほどが死亡したとあります。この津波を引き起こした八重山地震の大きさは、マグニチュード 7.4といいます。(260頁)
・非常用発電機の多くはタービン建屋の地下に配備されていました。また、発電所の主要機器に適切な電気を送る配電盤も、多くは一階又は地下にありました。水に弱い電気設備を、防水構造になっていないタービン建屋の地下に配備するとは非常識だ、水密構造に作られた原子炉建屋に設置すべきであった、などといった批判はもっともです。(271頁)
・2001/9/11の米国同時多発テロのあと米国原子力規制委員会(NRC)は、テロ対策の強化策として、国内の発電所に非常用電源の増強と分散配置を命じました。この命令は、後日、世界の原発保有国に極秘勧告として通告され、もちろん日本にも伝達されました。しかし日本政府は、我々民間の原子力関係者にはそれを伝えませんでした。これは悔やみきれない逸機でした。(274頁)
・福島第一原発の建設当時、信頼のおける非常用電源は水冷ディーゼル発電機しかなかった。今は、空冷ディーゼル発電機もあれば、ガスタービン発電機もあり、原発の要求に耐えうる製品が続々出てきている。建設から 40年、この技術進歩を取り入れないまま無為に過ぎた。(278頁)

 

17. 遠藤典子「原子力損害賠償制度の研究」2013/9 岩波書店

・アメリカ政府は1954年、原子力法を改正し、1つの原子力事故から生じる原子力事業者の責任を 5億6000万ドルで制限した。原子力事業者は、民間保険会社から得られる原子力損害賠償責任保険の最大限を付保することが義務付けられ、これを超過する損害は国家が補償するという内容である。当時の最大の保険付保額は 6000万ドルであり、従って国家補償額は5億ドルであった。これが、世界で初めての原子力損害賠償制度を定めたプライス・アンダーソン法である。原子力事業者の責任は有限で、なおかつ実質的な賠償金負担はゼロ、代わって政府が負うことになった。
各国の原子力平和利用が米国との国際協力によって推進され、その際米国が、原子力損害に関し製造者が賠償責任を負わないような制度を作ることを原子力資材輸出の条件として要求した。(23頁)
・1956年、日米原子力協定を締結、その細目協定の中で、日本が核物質である燃料を引き受けた後は、アメリカ政府の一切の責任を免責するという条項を要求した。(30頁)
・1961年に成立した原賠法は、原子力損害賠償は、原子力事業者のみが集中して責任を負い、かつ無限責任とされた。国はその支払いを「援助」するものとされた。この曖昧な仕組みは、世界に類のないものであった。(35頁)
・東電は、3/18に早くも金融機関におよそ 2兆円の緊急融資を要請した。3/25 全銀協会長であり東電のメインバンクでもある三井住友銀行の頭取奥正之は、経産省事務次官の松永和夫を訪ねた。その 6日後三井住友銀行 6000億円をはじめとして 8銀行合計 1兆9000億円の無担保融資が実行された。事務次官から、「融資に事実上の政府保証がついていると考えてもらっていい」と受け取れる言葉があったからだ。(143頁)
・9/12「原子力損害賠償支援機構」が設立された。
出資額は、東電 23億円、関電 12億円、四国電力 2億円など電力8社合計70億円、国が 70億円。
各原子力事業者は事業年度ごとに、支援機構の費用に充てるため「一般負担金」を納付する。負担金総額は各年度ごとに算出され、経産大臣の認可を受ける。
2012/3/30、一般負担金総額  815億円、負担率は、東電 34.81%、関電 19.34%、四国電力 4.0%などが認可された。
支援機構と政府の資金援助を求める原子力事業者(東電)は、共同で特別事業計画を政府に提出する。その主たる内容は、賠償見込み額とリストラ計画である。
政府は交付国債をもって資金援助する。2011年の補正予算によって交付国債の発行枠 5兆円が計上された。支援機構はこの中から必要に応じ東電に資金を交付する。東電は一般負担金とは別にこれを特別負担金として長期にわたって返済していく。初年度(平23年度)においては0であった。
このような仕組みをとったのは、国からの借り入れとすると東電は債務超過に陥り、法的整理に入らなければならないばかりでなく、銀行からの融資も受けられなくなるからである。
政策担当者たちは、この時点で、損害賠償費用(除染費用を含む)を 3~5兆円、廃炉費用を 5兆円、合計およそ10兆円と想定していた。(197頁)
・支援スキームの設計に関わった政策担当者の一人によると、事故発生の 3日後の  3/14に、所属の事務次官から損害賠償スキームの設計を命じられた、官邸から事務次官に指示があったのではなく、事務次官の判断であったと受け止めている。別の政策担当者によると、支援機構スキームは、担当者一人ひとりの非公式ネットワークによって収集された情報の集積であり、それが新しい情報と組み合わされてスキームの基礎となった。
内閣官房に関係省庁からメンバーが正式に招集され、担当部署である「内閣官房原子力発電所事故による経済被害対応室」が発足したのは 4/11である。その時点で、すでにスキームの原型は非公式のネットワークによって固まっていた、という。(249頁)
・2012/11の時点で、損害賠償と除染費用で 10兆円に達し、廃炉費用については曖昧な書き方ではあるが 5兆円に上る可能性があるとしている。これらについては新たな支援の仕組みが要望された。(303頁)

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F. 国防

(1) 日米安保条約

1 吉田茂「回想十年」 昭32 新潮社

・そうした状況の下に、私はとうとう自由党総裁を受諾せざるを得ないのではないかと思うようになった。そこで鳩山君を外務大臣官邸に呼んで、最後の話し合いをした。私は、そのとき、三つの条件を出した。金はないし、金作りもしないこと、閣僚の選定には君は口出しをしないこと、それから嫌になったらいつでも投げ出すことの三点であった。鳩山君はそれで結構という。そこでとうとう引き受けることとなった。鳩山君にしてみれば、暫く私に自由党を預けて置いて、やがて立ち帰る機会を待とうという気持ちであっただろうし、私にしても長くやろうという気はなかった。(第1巻138頁)

・西独首脳と私の会談では、一から十まで合点、同感ばかりのように思われるかもしれないが、少なくとも次の一点では、意見の相違というか、立場のちがいがあった。それは再軍備の問題であった。 西独では占領費として毎年90億マルクほど支出している。仮に50万の軍隊を持つとしても、それ以上の費用はかからない。ロンドン会議の結果がはっきり決まりさえすれば、西独は自国軍隊の再建をはじめるつもりだということであった。
(註)パリ協定は翌1956/5/5発効、それと同時に西独は独立国となり、同年7月徴兵法実施、1960年までに12個師団、50万の軍備を整える計画である。(203頁)

・枢密院において憲法改正の審議を急いでやらねばならない理由について質問があり、次のような趣旨を答えた。
「日本としては、なるべく早く主権を回復して、進駐軍に引き上げてもらいたい。そのためには、連合国に対し、再軍備の放棄、徹底的民主化の完成という安心感を与える必要がある。それらが憲法の上で確立されることが望ましい。」
   軍備放棄について、国内に騒乱が起こった場合、どう対処するか、という質問があったが、それには、「占領軍が引き揚げた先のことは予想がつかない。」と答えておいた。(第2巻35頁)

・9条2項について、野坂参三君が、「侵略戦争は不正の戦争だが、自国を守るための戦争は正しいものといってよいと思う。憲法草案においても、戦争を全面的に放棄する必要はない。侵略戦争の放棄に止むべきでないか」と質問したので、私は、「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくのごときことを認めることが有害であると思う。近年の戦争の多くが、国家防衛権の名において行われたことは顕著なる事実である。」というようなことを答えた。(42頁)

・私は再軍備に対して、正面から反対した。しかし、講和独立後の国土防衛を如何にするかは、依然として重大な問題であった。当時日米双方で種々検討し合った後、マッカーサー元帥の賢明にして理解ある示唆に従って処理された。そして日本に残存する旧陸海軍の遊休設備を活用して、米軍の再軍備に間接に協力することにしては如何ということに落ち着いた。
このようにして、再軍備論はこれを抑え得たが、皮肉にもその直後、日本の防衛問題に一歩を進める措置が、占領軍の命令によってとられることとなった。それは朝鮮戦争の勃発とともに、警察予備隊と称する治安警察部隊が、当時の普通警察の外に設けられたことである。(162頁)

・日本は講和によって政治的に独立すると同時に、国土の防衛は共同防衛によって確保するというその後の体制が生れた。それを外交文書として文字に現わしたのが、日米相互安全保障条約ではあるけれど、条約の内容たる共同防衛体制そのものは、条約を待って初めて誕生したものではない。それは全く敗戦、占領、独立および独立に対する脅威という四つの段階を経た歴史の所産であり、しかも当時の厳しい国際的緊張を背景とするものに外ならぬ。それは日本から特に頼みこんだという訳でもなく、そうかといって米国側から押し付けたという訳でもない。相互に共産勢力に備え、太平洋防衛の戦略的一環として、日本も参加する。そうした日米両国の利害の一致から生れたのである。戦力なき日本としては、それ以外に方法なかりし国防体制だったのである。 また米国にとっても最もよき太平洋防衛の方策であったと確信する。(179頁)

・私の平和条約受諾演説で、最初一応欣然受諾の旨を述べ、後で、ソ連全権の演説に触れ、千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張には承服できぬこと、特に、日本開国の当時択捉、国後の両島が日本領土であることについては、帝政ロシアも何ら異議をさしはさまなかったものであること、さらに1875年日露両国政府は平和外交交渉を通じて、当時日露両国民の混在地域であった南樺太をロシア領とし、同じく混在地域であったウルップ以北の千島諸島を日本領とすることに話合いをつけたものであること、最後に、北海道の一部たる色丹島および歯舞諸島は終戦当時ソ連軍に占領されたままであることなどを明白にしたのである。(第3巻62頁)

 

2. 梅林宏道「在日米軍」岩波新書2002

 

日米安保条約(1960年改定)

第5条「両国は、日本の施政下にある領域におけるいずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和と安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定と手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」

第6条「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際平和と安全の維持に寄与するため、米国は、その陸海空軍が日本国において施設と区域を使用することを許される。」

 

・米韓、米比、米・オーストラリア・ニュージーランド条約では、太平洋地域で米国が武力攻撃を受けた時は、締約国は米国を防御する義務がある、とされているのに対し、日米条約では、日本領土内で米国が攻撃された場合のみ、日本が米国を防御する義務があるとされている。
そのかわり米国は、「極東の国際の安全」のために日本内の基地を利用できるとされる。

・「極東」の範囲については、1960年の政府の統一見解以来、「大体においてフィリピン以北および日本とその周辺地域であり、韓国、台湾も含む。ただし、この極東の区域の安全を守るために対処する行動の範囲は、この区域に限定されない。」

・米軍の在日基地の総面積は、313平方キロメートル、これは東京都の総面積の約7分の1。沖縄が日本全体の75%、青森8%、神奈川6%、東京4%。

・「地位協定」第24条1「日本国において米国軍隊を維持することに伴うすべての経費は、日本国が負担すべきものを除くほか、米国が負担する。」

・日本国が負担すべきものとは、施設・区域そのものと、アクセスする権利の無償提供である。基地の地代や地主への補償費を日本が負担する以外は、すべての基地維持費用を米軍が負担する、と約束されている。
しかし、1970年に金丸信 防衛庁長官が口にした文言から命名された「思いやり予算」が増え続けている。基地従業員労務費(1486億円)、提供施設整備費(818億円)、光熱水料(264億円)、訓練移転費(4億円)などであり、2001年で2573億円であった。
基地周辺対策費や用地の賃借料などを含めると米国駐留経費の「受け入れ国支援」は、年6500億円に達する。これは米国駐留経費の70%をカバーし、米国内に置くよりも日本に駐留させるほうが安上がりである、とされる。経費負担ばかりでなく、現在の緊急展開計画に沖縄のインフラは、必要不可欠である、とされる。

・米国太平洋軍(ハワイ30万人)のうち東アジア・太平洋は10万人体制。
そのうち 在日米軍は、陸上4.7万人、その他に第七 艦隊の洋上1.2万人を含めることがある。在韓米軍は3.6万人。 

・海兵隊は、在日米軍中最大の戦闘部隊として沖縄を中心に配備されている。なかでもⅢ海兵遠征軍は、米海兵隊に三つしかない海兵遠征軍の一つである。すなわち、在日米軍は米軍の世界展開に欠くことのできない戦力供給源であるといえる。

・海軍についていえば、日本は第七 艦隊有数の戦闘部隊の母港となっている。世界で唯一の空母戦闘団と水陸両用即戦団の海外母港が日本にある。(横須賀と佐世保)米本土からみて地球の裏側となるインド洋、アラビア海地域への部隊展開は、第七艦隊無くして困難である。

 

3. 林 博史「米軍基地の歴史」吉川弘文館 2012

・海外の米軍基地のうち資産価値により順に重要なもの(米国国防省 2010 発表)

1 嘉手納 52億ドル
2 三沢 47億ドル
3 横須賀 47億ドル
4 横田 42億ドル
5 (ドイツの基地)  
6 (キューバの基地)  
9 (韓国の基地)  
10 瑞慶覧 27億ドル
13 岩国 20億ドル
18 牧港 18億ドル
20 厚木 17億ドル
グアム海軍基地 69億ドル
グアム空軍基地 62億ドル

・国別集計

1. 日本 452億ドル
2. ドイツ 358億ドル
3. グアム 199億ドル
4. 韓国 155億ドル
5. イタリア 80億ドル
6. イギリス 63億ドル
7. スペイン 24億ドル
8. トルコ 23億ドル

・基地面積と米軍人数

1. ドイツ 143,000エーカー 54,000人
2. 日本 127,000エーカー 35,000人
3. 韓国 26,000エーカー 24,000人
4. イタリア 6,000エーカー 9,000人
5. イギリス 7,000エーカー 9,000人
6. トルコ 4,000エーカー 1,400人

米軍は世界各地に展開しているが、日本ほど集中している国はない。日本の中でもその74%が沖縄に集中している。

・公務外のため駐留国に第一次裁判権があるにもかかわらず、駐留国が裁判権を放棄した割合(1958年)

世界全体 63%
NATO 57%
NATO外 79%
日本 97%
フランス 88%
イタリア 68%
イギリス 19%
カナダ 8%

 

4. 太田昌克「日米核密約の全貌」筑摩書房 2011

・冷戦中、頻繁に日本に寄港し、日本領海を通過していた核艦船は、紛れもなく日本を含む東アジア地域での「核の傘」を構成する要素だった。しかし一方で、日本の歴代保守政権は、「非核三原則」を国是とし、核艦船の寄港を断じて受け入れないとの政治姿勢を表向き貫き続けた。従って、空母をはじめ核装備した第七艦隊艦船が大手を振って「非核」を標榜する日本の領海内に入るには、政治的なからくりが必要だった。(108頁)

・1968年の米政府内の文書
「(日本の)港湾に入る米国の海軍艦船が核兵器を搭載してきたこと、あるいは(今後も)搭載することを明言ないし暗示した説明が(日本の)外相に対し(米側から)なされることはなかった。しかし実際、米海軍艦船は定期的にそうした行動をとってきた。」(127頁)

・東西間の抑止が崩れれば、沖縄の核が、三沢、横田、板付の米軍基地に空輸され、共産圏を核攻撃するはずになっていた。具体的な標的は、ウラジオストックであり、旅順だった。この作戦は、当時の米当局者が指摘するように、日本との満足な政策調整が行われないままに強行されることが想定されていた。(146頁)

・沖縄への核配備は、西ドイツ、アラスカ、韓国より早い1954ないし1955年頃にかけて開始され、中国を射程におさめる中距離ミサイルが配備されていた。ベトナム戦争ピーク時の67年には1200発以上の核兵器が集積、アジア最大の核補給基地だった。(146頁)

・1968/1の東郷北米局長メモ
「本件は、日米双方にとりそれぞれ政治的軍事的に動きのつかない問題であり、さればこそ米側も我方も深追いせず今日に至ったものである。差当り・・・現在の立場を続ける他なしと思はれる。」
このメモが歴代の首相と外相に閲覧の上又は単に説明されてきたことが記録されている。

・1969年の米側沖縄返還交渉スケジュールでは、・・・
一方の核問題では、「核抜き」の最終結論を首脳会談まで棚上げすることが早々と決められ、(基地の)自由使用と有事核貯蔵の二点で日本側の譲歩を最大限引き出すことに圧倒的比重が置かれていた。

・若泉とキッシンジャーが作成した「合意議事録」、首脳会談時に佐藤とニクソンの二人だけが大統領執務室脇の小部屋に入り、それぞれのイニシャルで署名した。
その内容は、(1)極めて重大な緊急事態が生じた際、米政府は日本側との事前協議を経て、核の沖縄への再持ち込みと沖縄を通過する権利を必要とするが、その場合に、米国は日本からの好意的回答を期待する。(2)核貯蔵基地である嘉手納、那覇、辺野古、ナイキ・ハーキュリーズをいつでも使用できる状態に維持しておき、極めて重大な緊急事態が生じた時には活用できるよう求める、 と表明するニクソンに対し、「かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすだろう」との佐藤の確約が明記されている。

 

5. 孫崎 享「日米同盟の正体」講談社現代新書 2009

・ソ連崩壊後、米国には二つの選択肢があった。国民レベルでは米国への脅威が軽減したとして重点を経済に移すことの方が自然であった。しかし、国防省などが中心となり、最強になった軍を維持することを選択した。そのためにはソ連に代わる脅威が必要である。そこでイラン、イラク、北朝鮮を脅威と認識し、これへの積極的関与を決定した。(89頁)

・イラン、イラク、北朝鮮がいかに悪の枢軸であれ、米国を破壊する力はない。緊張を高めても米国本土への危険はさほど高くない。むしろある程度緊張を高めておくことが、米国の国防体制の維持に必要である。かつ、イランの宗教政治、イラク、北朝鮮の独裁体制は好ましい体制ではない。ここから、力ずくで体制転換を迫ろうという考えが出てくる。ここが冷戦中と冷戦後の米国戦略の本質的な違いである。

・日米安保関係の取引は、米国は日本国内に基地を持つ、日本は米国側の陣営につく、日本に攻撃兵器を持たせないこととの引き換えに米国は日本を守る、という取引である。この取引の提唱者は米国である。米国は現在もこの取引は十分意義があると見ている。(123頁)
「米国は日本を守るが日本は米国を守らない。この非対称性を償うため、日本はできるだけ他の分野において米国に貢献しなければならない」などという負い目を感ずる必要はさらさらない。

・日本政府は米軍駐留経費の75%程度を負担してきたが、この率は同盟国中最も高い。ドイツは20数%である。(124頁)

・2005年、日米の外務大臣、防衛庁長官、国務大臣、国防長官は、「日米同盟:未来のための変革と再編」に署名した。これは日米安保条約にとってかわったものといってよい。
日米安保条約6条は、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和と安全の維持に寄与するため」という極東条項を持っている。
「日米同盟・・・」では、同盟関係は「世界における課題に効果的に対処するうえで重要な役割を果たしている」として、日米安全保障協力の対象が極東から世界に拡大された。(3頁)

・従来の日米安保条約では日本に基地を持つ米軍がどう扱われるかが最大の焦点だった。しかし「日米同盟・・・」では日本自体がどう動くか 自衛隊が海外でどう活動するかが最大の焦点である。(117頁)

・「日米同盟・・・}では、「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため、国際的な安全保障環境を改善する上での二国間協力は、同盟の重要な要素となった。」 としている。
「国際的な安全保障環境を改善する」とは、具体的な政策に置き換えると、イラン、イラク、北朝鮮などでの核兵器ほかの大量破壊兵器の拡散を防ぐための軍事力使用や、アフガニスタンにおけるタリバンのようなテロリストをかくまう政権を排除する、ことも入ることになる。(129頁)

 

6. 孫崎 享「不愉快な現実」講談社現代新書 2012

・2007年頃米国の対日輸出は対中輸出とほぼ同じになった。対日輸出は横ばいであるのに対し、対中輸出は急速に拡大している。
日本の対米輸出は横ばいであるのに対し、対中輸出は急速に拡大しており、2008年頃両者はほぼ同じとなった。
中国の輸出は、 日本を10とすると、米国は23、EUは 27、ASEANが 11。
GDPに対する輸出の比率は、 米国 8.8%、中国 26.6%、日本 14.0%、EU 11.0%。
中国が経済発展するには外国との協調が不可欠といえる。

(尖閣諸島 / 釣魚島)
中国の立場では中国の領土であり、その旨国内法化されている。鄧小平は、「論争を棚上げし、共同開発する。」 という方針を示した。米国はこの点については一貫して、どちらの立場にもつかないとしている。
2005年の「日米同盟 未来のための変革と再編」で「島嶼部への侵攻への対応」は日本の役割とされている。つまり、米軍の介入は安保条約上の義務ではないとされているのである。
周恩来、鄧小平が、尖閣諸島は中国としては中国領であると認識しつつも、日本との関係を発展させることが重要だという判断で譲歩したものである。中国が譲歩し成立した「棚上げ」合意を日本側から破棄することは、あまりにも愚かな政策である。

(北方領土)
日本は第二次世界大戦に敗れポツダム宣言を受諾した。同宣言には、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ。」1943年 ルーズベルト大統領はソ連に対日参戦を要請し、1945年ヤルタ会談で「千島列島がソ連に引き渡されること」の内容を含むヤルタ協定が結ばれた。
1951年 サンフランシスコ講和条約で「日本国は千島列島に対するすべての権利、請求権を放棄する」とした。この会議で吉田茂首相は、「千島南部の択捉、国後両島」が放棄の千島に含まれると発言している。 

(南沙諸島)
2002年に署名された中国とASEAN間の「南シナ海の行動宣言」は、「領有権紛争は武力紛争に訴えることなく、平和的手段で解決する」「現在(当事国に)占有されていない島や岩礁上への居住などの行為を控え、領有権争いを紛糾、拡大させる行動を自制する」と定めている。

 

7. 布施祐仁「日本の空と米軍の欠陥機」世界 2012/9

・米軍海兵隊が作成し 2012/6/13に公表された「MV22 オスプレイの普天間飛行場配備及び日本での運用に関する環境レビュー最終報告書」によると
「沖縄および日本本土上空の 6本の「航法訓練ルート」で年間 330回の訓練を実施する。」
訓練内容は、「地上 15~150メートルにおける低空飛行訓練と空中給油」である。

・平23/3/2  岡山県津山市の上空を米軍機が低空飛行し、その衝撃で農家の土蔵が倒壊した。
「一瞬地震だと思って家の外に飛び出すと、屋根瓦が落ちて、土蔵がメリメリと音を立てていっきに崩れたのです。」

・同年 9/29 島根県浜田市で小学校の上空を米軍機が低空飛行する事件があった。浜田市は、駐日米国大使や岩国基地司令官に低空飛行訓練の中止を申し入れたが、約4ヶ月後駐日米国大使館から届いた回答は、「米軍は低空飛行訓練により重要な能力を維持することができる。日米同盟の強化に役立ち感謝する。」という的外れのものだった。
同市旭町支所の屋上で計測すると、平成24/3/14には午後7時過ぎから同10時にかけて計23回の騒音があった。
その他に秋田県大館市、群馬県前橋市、高知県本山町などで低空飛行の事件があった。

 

8. 孫崎 亨「戦後史の正体」創元社 2012

・占領時代を象徴するのは、日本政府が負担した米軍駐留経費である。1946年から1951年の6年間で約5000億円、 国家予算の2割から3割を米軍の経費に充てていた。(63頁) 対日援助額(ガリオア・エロア資金)は、1946年から1951年までの累計で18億ドル、そのうち5億ドルを後に返済した。米軍駐留経費として支払った5000億円は当時の換算で少なく見積もって約50億ドルであった。(133頁)

・米国との間に問題を抱えていた日本の政治家(首相クラス)が、汚職関連の事件を摘発され、失脚したケースは次の通り。

芦田 均 逮捕
昭和電工事件
在日米軍について有事駐留を主張
田中 角栄 逮捕
ロッキード事件
米国に先がけて中国との国交回復
竹下 登 内閣総辞職
リクルート事件
自衛隊の軍事協力について米側と路線対立
橋本 竜太郎 派閥会長を辞任
日歯連事件
金融政策などで独自政策、中国に接近
小沢 一郎 強制起訴
西松建設事件
在日米軍は第七艦隊だけでよいと発言、中国に接近(84頁)

・マッカーサー元帥への覚書 1947/9/20
「天皇の顧問 寺崎英成氏が来訪され、天皇は米国が沖縄の軍事占領を継続するよう希望していると、言明した。天皇は、沖縄に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借 ― 25年ないし50年、あるいはそれ以上 ― の擬制に基づいてなされるべきだと考えている。」(87頁)

・ルーズベルト大統領は、1943年のテヘラン会談でソ連の対日参戦を求め、1945年のヤルタ会談で千島列島がソ連に引き渡されるというヤルタ協定を結んだ。こうした前提のもとに1956年の日ソ交渉で重光外相は択捉、国後の放棄はやむを得ないという判断をする。ところが国務長官になっていたダレスがもし日本が国後、択捉をソ連に渡したら沖縄をアメリカの領土とすると猛烈におどしてきた。(169頁)

・1960年の新安保では、「日本の領域における、いずれかに対する武力攻撃が、自国の平和および安全を危うくするものと認めた時は、共通の危険に対処するように行動する。」と規定し、米国の日本を守る義務を明記した。

・1969年、沖縄返還に当たって、ニクソン大統領と佐藤首相は、二つの密約を結んだ。一つは、重大な事態が発生した場合の核兵器持ち込みの密約であり、他は、繊維製品の対米輸出の自主規制の密約であった。佐藤首相は、後者の密約を守らなかった。後者は ニクソンの選挙対策上重要であり、ニクソン・キッシンジャーは激怒した。報復の第一段は、1971年の中国訪問を日本に事前報告しなかった。第二弾は、同年の金ドル交換の停止の決定であった。その結果、1971/12/18 1ドルが360円から308円になった。

・1970年代末から、ソ連はオホーツク海に原子力潜水艦を配備していた。このオホーツク海の海底に潜む潜水艦からミサイルを発射し、8000キロメートル離れた米国本土を核攻撃できる。P3Cという対潜哨戒機を日本に大量に買わせ、オホーツク海でソ連の潜水艦を見つける役割を日本にやらせようとした。日本政府はシーレーン防衛という名目のもと、P3Cの購入にふみきった。(289頁)
日本はその後対潜哨戒機P3Cを 100機以上購入する。この巨額の出費は日本の防衛には直接関係ない。ソ連が日本を攻撃するときは、ソ連の陸上に配備された大陸間弾道ミサイルによる。これには日本は無防備である。 一方P3Cが発見すべき潜水艦発射弾道ミサイルは日本向けではなく、米国向けである。(192頁)

 

9. マイケル・シャラー「日米関係とは何だったのか」草思社 2004

・鳩山は日ソの友好回復に熱心だったのに対し、重光外相はむしろ日米安保条約の改定に熱心であった。
1955/6 日ソ和平交渉はロンドンで開始された。
ダレスが恐れたのはソ連が千島列島のどれかを日本に返還すれば、アメリカはすぐに沖縄の返還請求に会うことであった。(204頁)
ソ連の首席代表マリクは、歯舞色丹を返還すると申し出て、日本の首席代表松本俊一を驚かせた。(205頁)
鳩山はそれに賛成したが重光は賛成しなかった。
1955/9  西ドイツ首相コンラート・アデナウアはモスクワを訪問し、領土問題の解決なしに独ソ間の外交関係を回復した。
1956/7  ロンドンでの再交渉に当たり、重光は立場を変えソ連の妥協案を飲もうとしたのに対し、ダレスは憤然として「ソ連が全4島を手に入れるのなら、アメリカは永久に沖縄に居座ることになるだろう。」と脅した。(214頁)

・岸信介に賭けているというマッカーサー大使、ダレス国務長官、アイゼンハワー大統領の発言には美辞麗句以上のものがあった。岸の訪米以後、岸やその弟の大蔵大臣佐藤栄作と米国高官とのあいだに、自民党の資金に関して話し合いが行われるようになる。
アイゼンハワーはCIAが日本で秘密行動を開始することを認めた。CIAは情報を自民党に依存し、自民党内に同盟者を作るため秘密の金を使った。1960年代の初期までに政党と政治家個人に対する毎年 200万ドルから 1000万ドルの資金提供が「定着して慣例」となった。
自民党と社会党の政治家に対する資金提供は、少なくとも 10年間続いた。(240頁)
1958年以来アイゼンハワーの承認のもとに行われていた自民党と民社党に対する毎年数百万ドルに及ぶ秘密援助資金について、1991年、ケネディ大統領は、直ちに止めるのではなく「継続し徐々に削減していく」という勧告を受け入れた。(290頁)

・岩国の小さな海兵隊航空基地には、北朝鮮、中国、ソ連の約20の目標攻撃の任務を帯びた少数の航空機が配備されていたが、海兵隊は数百ヤード沖に半永久的に停泊している1隻の戦車揚陸艦のはしけに核爆弾を保管していて、いざという場合には、このはしけが接岸して、核爆弾を水陸両用のトラクターで直接海兵隊の飛行場に運ぶことになっていた。
1966年の春にこのことを知ったライシャワー大使はラスク国務長官に、条約違反であると、厳重に抗議した。(345頁)

 

10. 前泊博盛編著「日米地位協定入門」創元社2013

・日米安保条約におけるアメリカ側の交渉担当者だったダレス(当時国務省顧問)のセリフを借りれば、日本の独立(占領終結)に際しアメリカ側が最大の目的としたのは、「われわれが望む数の兵力を(日本国内の)望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保すること」だった。
この交渉の中で日本国民に絶対に知られたくない基地や米軍についての具体的な取り決めは「秘密の了解」として合意することにされ、それが「日米地位協定」の前身である「日米行政協定」だった。(20頁)
もともと「行政協定」とは、アメリカ政府が上院の承認を得ずに他国の政府と結べる協定をさす一般名詞なのだ。条約と違って協定には議会の承認や国連への登録が必要ない。(60頁)
・イギリスと結んだ協定でも、フィリピンや韓国と結んだ協定でも、米軍が使用できる基地は具体的に付属文書の中に明記されている。日本の場合はそれが明記(限定)されておらず、米軍がどうしても必要だと主張すると日本側ではそれを拒否できないことになる。(26頁)
・日米地位協定9条2項「合衆国軍隊の構成員は、旅券および査証に関する日本国の法令の適用から除外される。合衆国軍隊の構成員および軍属ならびにその家族は、外国人の登録および管理に関する日本国の法令の適用から除外される。」
・講和条約はサンフランシスコのオペラハウスで調印されたが、安保条約は、その数時間後、米第六軍司令部下士官クラブで吉田首相一人によって調印された。日米行政協定は半年後に東京の外務省庁舎でひっそりと結ばれた。(43頁)
・嘉手納ラブコン(米軍管制空域)は、半径 90キロ、高度 6000メートルと半径55キロ、 高度 1500メートルの二つの空域が沖縄と久米島の上空をすべてをおおっている。これに対し、那覇の上空に半径 5キロ、高度 600メートルほどの小さな円筒があり、この空域だけが日本の民間航空機の離着陸時に自由に飛べる範囲である。(69頁図)
一都八県の上空が、スッポリと米軍の巨大な支配空域になっている。「横田ラブコン」この空域を管理しているのが東京都福生市にある米軍横田基地である。羽田空港から関西方面へ向かう飛行ルートは、4000~5500メートルの高さがある「横田ラブコン」を越えるために、一度房総半島方面に離陸して、急旋回と急上昇を行わなければならない。(71頁図 )
・航空法施行規則 174条は、航空機の最低安全高度は、人または家屋の密集している地域では、水平距離 600メートルの範囲内の最も高い障害物の上端から 300メートルの高度、人または家屋のない地域では、地上の人または物件から 150メートル以上の距離を保って飛行できる高度、としている。
日米地位協定の実施にともなう航空法の特例に関する法律(1952施行)は、米軍機については、航空法6章の規定は適用しない、としている。(122頁)

・国の環境基準では、住宅地域については、W値(うるささ指数)70、その他の地域では、75、と定められている。
W値100で、電車通過時の線路わき、90で騒々しい工場内、80で地下鉄の車内、70で電話のベル(1m)、60で普通の会話。

嘉手納基地での爆音被害状況(平23)

年間発生回数 32,803回
月平均発生回数 2,734回
1日平均発生回数 92回
1日平均累積時間 33分29秒
年間最高音 107.5dB
年平均W値 81.0(140頁)

・日米地位協定17条によると、米軍の構成員および軍属につき、
公務中の犯罪は、すべて米軍が裁判権をもつ、
公務中でない犯罪については、日本が裁判権をもつが、(犯人が基地内に逃げ込んだりして)犯人の身柄がアメリカ側にある時は、日本側が起訴するまで引き渡さなくてよい。
1953/10/28の日米合同委員会の非公開議事録での密約がある、
「日本の当局は通常、合衆国軍隊の構成員、軍属あるいは米軍の軍法下にある彼らの家族に対し、日本にとって著しく重要と考えられる事例以外は、裁判権を行使するつもりはない。」(146頁)
・日米安保条約10条後段「この条約が 10年間効力を存続した後は、いずれの締約国もこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われた後 1年で終了する。」(187頁)
・ドイツでは、地位協定を1993年に改定し、米軍基地周辺といえども国内では、米軍機に飛行禁止区域や低空飛行禁止を定めるドイツ航空法が適用されることとなった。
 イタリアでは、すべての米軍基地はイタリア軍の司令官のもとにおかれ、米軍は重要な行動のすべてを事前に通告し、作戦行動や演習、軍事物資や兵員の輸送、あらゆる事件・事故の発生をイタリア側に通告することとなっている。 米軍機による低空飛行は事実上禁止されており、地方自治体からの米軍への異議申し立て制度も確立され、伊当局は必ず受理しなければならないとされている。
 韓国では、基地内での環境汚染について各自治体が基地に入って調査できる「共同調査権」が確立されており、また、返還された米軍基地内で汚染が見つかれば、米軍が浄化義務を負う。(189頁)
 韓米地位協定では、「米兵は現行犯逮捕されない限り、起訴以降にしか身柄を拘束できない」、現行犯で逮捕した場合でも、「24時間以内に起訴できなければ釈放しなければならない」、と規定されていた。2012年、後者の規定を削除した。(192頁)
・フィリピンは、1986年のアキノ政変後の87年に新憲法を公布し、91年に上院が基地存続条約の批准を拒否、92年までに米軍基地を完全撤退させた。
新基地条約の承認には「上院議員の3分の2以上の同意」と「議会が要求する場合には国民投票」が必要とした。さらに新憲法は「非核政策を採用、追求する」と規定し、領土内での核兵器の貯蔵または設置を禁止した。(218頁)
基地撤退後も米比相互防衛条約は存続しており、いずれかの国が侵略を受けた場合は、互いに防衛し合うという条約である。その後訪問米軍地位協定が批准され、ふたたび米軍との合同演習などが繰り返されているが、憲法上の制約がある限り、米軍が再び基地を作るのは、フィリピンの政治的現実からみてほとんど不可能である。(225頁)
・南沙諸島のうち、現状の実効支配数は、ベトナムが20以上、フィリピンが9、中国が7以上、マレーシアが5以上、台湾は最大の太平島を支配。
このうち島と表記される13島に限ると、フィリピンは2番目に大きいパグアサ島など7つを現在も実効支配しており、島の数では一番多い。(228頁口絵16)

・「日米地位協定の考え方」は、昭48に作成され、昭58に加筆された、外務省内部の機密文書であり、裏マニュアルである。2004/1 琉球新報によりスクープされた。
協定2-1-A「合衆国は、日米安保条約6条の規定に基づき、日本国内の基地の使用を許される。」
「考え方」は、米軍は日本国内のどこでも基地を提供するよう求める権利があること、日本はそうした要求に全て応じる義務はないが、「合理的な理由」がなければ拒否できない、としている。

協定2-3「合衆国軍隊が使用する基地は、この協定の目的のため必要でなくなったときは、いつでも、日本国に返還しなければならない。」
沖縄でいうと、利用回数が減り、大昔に返還合意されながら、いまだに放置されている那覇軍港がある。

協定3-1「合衆国は、基地内において、それらの設定、運営、警備および管理に必要なすべての措置をとることができる。」
米軍基地は日本国内にあり本来は日本の国内法が適用されるはずだが、「考え方」は、「国内法の適用は米軍の管理権を侵害しない形で行うこととされている」として、事実上、米軍基地への国内法適用を免除するという「免法特権」を与えてしまっている。

協定4-1「合衆国は、この協定の終了の際またはその前に日本国に基地を返還するに当たって、当該基地をそれらが合衆国軍隊に提供された時の状態に回復し、またはその回復の代りに日本国に補償する義務を負わない。」

協定5-1「合衆国および合衆国以外の国の船舶および航空機で、合衆国によって、合衆国のためにまたは合衆国の管理の下で公の目的で運航されるものは、入港料または着陸料を課されないで日本国の港または飛行場に出入することができる。」
本来は「米軍」を対象としているはずの移動の権利も、「考え方」は、米政府の「公の目的」であれば「軍務に関係なく」「軍事的事項に限らず、広く日米両政府が協議・協力すること自体が安保条約の目的に包含される」と拡大解釈している。

協定10-1「日本国は、合衆国が同国軍隊の構成員および軍属ならびにその家族に対して発給した運転免許証または軍の運転許可証を、運転者試験または手数料を課さないで、有効なものとして承認する。」
家族がアメリカでとった免許証の日本での有効性まで認めることには「問題がある」と外務省も認めている。

協定16条は「米軍人などの日本法令の尊重義務」を規定している。「考え方」増補版は、「一般国際法上、外国軍隊には接受国の法令適用はない」ことを強調している。国内法免除の治外法権の特権を米軍に認める根拠として、「軍隊は国家機関であり、当然の帰結」と説明している。

協定17-3-Bは、公務外に基地の外で罪を犯した米兵らの身柄について、起訴まで日本側が拘束できないことについて、「考え方」は、「もっぱら米国との政治的妥協の産物であり、説得力のある説明は必ずしも容易ではない」 としている。

協定18-5-E-i(民事請求権)「合衆国のみが責任を有する場合には、裁定され、合意され、または裁判により決定された額は、その25%を日本国が、その75%を合衆国が分担する。」

協定26(国会承認)「考え方」は、日米行政協定が国会承認を受けなかったことは憲法違反とは考えていないが、それが国会でたびたび問題になったこともあり、地位協定では国会承認を得たと解説している。

協定27(改正)「考え方」は、「政府は地位協定の改正は考えていない」と、くり返し強調している。

 

11-1. 吉田敏浩ほか2名「砂川裁判と日米密約交渉」2014 創元社

・砂川事件に対する上告審の口頭弁論は、1959/9/18 に終了した。その後の11/5発 米国国務省宛の電報でマッカーサー駐日大使は次のように報告している。
田中耕太郎最高裁長官との非公式の会談で、砂川事件について短時間話し合った。長官は、来年の始めまでには判決を出せるようにしたいと言った。15人の裁判官の幾人かは「手続上」の観点から事件に接近しているが、他の裁判官は「法律上」の観点から、ほかの裁判官は「憲法上」の観点から問題を考えている、ということを長官は示唆した。長官は、下級審の判決が支持されると思っているという様子は見せなかった。それは覆されるだろうが、重要なのは15人のうちのできるだけ多くの裁判官が憲法問題に関わって裁定することだと考えているという印象だった。こうした憲法問題に下級審の伊達判事が判決を下すのはまったく誤っていたのだ、と彼は述べた。(116頁)

12/16 砂川事件最高裁判決
憲法9条2項が保持を禁止した戦力とは、わが国が主体となって指揮権・管理権を行使し得る戦力を意味する。
日米安保条約はわが国の存立の基礎にきわめて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものだ。だから、その内容が違憲か合憲かの法的判断は、その条約を締結した内閣と、それを承認した国会の高度の政治的、自由裁量的判断と表裏一体をなしている。それゆえ、違憲か合憲かの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない。だから、一見きわめて明白に違憲無効であると認められないかぎりは、裁判所の司法審査権の範囲外のものである。(129頁)

12/17 マッカーサー大使は国務省に次のように報告している。
最高裁大法廷が全員一致で判決を下したことは、多くが田中最高裁長官の手腕と政治的資質によるものであり、判決と法廷におけるその賢明な指導力は審理を引き延ばそうとした弁護団を抑え込むことに成功したばかりでなく、最後には15人の裁判官による全員一致の判決をもたらした。(117頁)

2010/7/29 福岡高裁那覇支部判決
「普天間飛行場に関わる被告(国)と米軍との法律関係は条約にもとづくものであるから、被告は、条約ないしこれに基づく国内法令に特別の定めがない限り、米軍の普天間飛行場の管理運営の権限を制約し、その活動を制限することはできないところ、関係条約および国内法令に特別の定めはない。原告らが米軍機の離着陸などの差し止めを請求するのは、被告に対してその支配の及ばない第三者の行為の差し止めを請求するものであるから、本件差し止め請求は、主張自体失当として棄却をまぬがれない。」(244頁)
1993/2/25「第一・二次横田基地基地騒音公害訴訟」と「第一次厚木基地騒音公害訴訟」の最高裁判決を踏襲している。(246頁)

1981/7/13 東京地裁八王子支部「第一・二次横田基地騒音公害訴訟」判決の一部要旨
「日米安保条約にもとづく米軍への基地提供には、日本の安全などを維持するという高度な政治目的がある。そのため、日本政府が米軍基地の管理・運営や米軍の軍事活動に対し制約や制限を加えるかどうかは、それが安保条約の目的遂行にどんな影響をもたらすかを考慮したうえで決定すべき問題である。つまり、政府の統治権の発動というべき性質の事柄である。したがって、それが正当か不当かを裁判所が判断するのは、問題の性質になじまないので不適切である。」(248頁)

1960/5/11 衆議院日米安保条約等特別委員会での高橋通敏条約局長答弁
「施設・区域(基地や演習場)は、治外法権的な、日本の領土外的な性質をもっているものではなくて、当然日本の法令が適用になる。ただ、米国が施設・区域を使用している間は、これを使用するに当たり、必要などういう措置を米国がとることができるかは協定に定め、その協定に従って、米側は措置をとることができる。しかし原則として、当然、日本の主権、統治下にあり、日本の法令が適用になる。」(297頁)

1973/7/11 衆議院内閣委員会での大河原良雄アメリカ局長の国会答弁
「一般国際法上は、外国の軍隊が駐留する場合に、地位協定あるいはそれに類する協定に明文の規定がある場合を除いては、接受国の国内法令の適用はない。したがって、地位協定の規定に明文がある場合には、その規定にもとづいて国内法が適用になるけれども、そうでない場合には接受国の国内法の適用はない。だが一方、一般国際法上も外国の軍隊は接受国の国内法令を尊重する義務を負っている。地位協定にもその尊重義務の規定がある。」(296頁)

・「秘 無期限  日米地位協定の考え方」外務省条約局・アメリカ局1973年
「一般国際法上、外国軍隊には接受国の法令の適用がない。これは、軍隊が国家機関であり、接受国の主権の下に服さないことの当然の帰結である。従って、わが国に駐留する米軍に対しては、施設・区域の内外を問わず、原則としてわが国の法令の適用はない。右で原則としてというのは、地位協定上、特定の事項に関する法令の適用が日米間で合意されている場合があることを指している」(307頁)

 

11-2. 小林 節「政治問題の法理」1988 日本評論社

(アメリカにおける「政治問題」の法理)

・ベトナム戦争を正当化することが不可能なまでに議会と大統領の対立が明白になってしまったために、遂に1973年に至って、連邦地裁がカンボジア爆撃の差止を命ずるまでになった。それに対して控訴裁判所は、必要な情報を収集して判断する能力がないという理由で、争点を「政治問題」として、原審判決を取り消し、却下した。間もなくベトナム戦争は終了し、この問題に関する最高裁の判断は、得られずに終った。47頁)
・現在でも、「政治問題」といわれる事項の範囲について、またそれを裁判から排除することの正当性について、アメリカの法律家の間で、意見の一致が見られない。アメリでは混乱といえるほどに、多くの判例や学説が対立した見解を示している。(109頁)

(フランスにおける「統治行為」の法理)

・フランスにおける統治行為論は、その長い歴史にもかかわらず、裁判所がいわば当然のこととして何の説明も要しないほどに明確な概念と根拠を以て、学説上確立されているわけではない。現に、フランスの公法学会にあって、統治行為論は、その反法治主義的な性格のゆえに、むしろ多数の学説により支持されていない。(161頁)
・多数の学説が反対し、また、肯定説が混乱しているにもかかわらず、判決の中で十分な根拠を示すこともなくコンセイユ・デタがいわゆる統治行為の判例を維持し続けた背景として、フランスの政治制度の中でコンセイユ・デタが伝統的に享有してきた自由な立場を身落とすことができない。すなわち、コンセイユ・デタが自由な法創造機能を行使してフランス行政法を発展させてきたということは、多くの論者が認めていることであるが、そのようなことをなし得たコンセイユ・デタが自らの管轄権に関しても比較的自由にその限界を画し得たであろうことは、想像するに難くない。(170頁)

 

11. 日米 ツー・プラス・ツー「新ガイドライン」2015/4/27

・日本の平和及び安全を確保するため、またアジア太平洋地域及びこれを越えた地域が安定し、平和で繁栄したものとなるよう・・・(Ⅰ)

・日本の行動及び活動は専守防衛、非核三原則等の日本の基本的な方針に従って行われる。(ⅡC)
指針はいずれの政府にも立法上、予算上、行政上またはその他の措置をとることを義務付けるのものではなく、また、指針はいずれの政府にも法的権利または義務を生じさせるものでもない。しかしながら、二国間協力のための実効的な体制の構築が指針の目標であることから、日米両政府がおのおのの判断に従い、このような努力の結果をおのおのの具体的な政策及び措置に適切な形で反映することが期待される。(ⅡD)

・自衛隊は、島嶼に対するものを含む陸上攻撃を阻止し、排除するための作戦を主体的に実施する。必要が生じた場合、自衛隊は島嶼を奪回するための作戦を実施する。このため、自衛隊は、着上陸侵攻を阻止し排除するための作戦、水陸両用作戦及び迅速な部隊展開を含む必要な行動をとる。
米軍は、自衛隊の作戦を支援し及び補完するための作戦を実施する。(ⅣC2bⅳ)

・自衛隊は、日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態に対処し、日本の存立を全うし、日本国民を守るため、武力の行使を伴う適切な作戦を実施する。(ⅣD)

 

12. 安全保障関連法(平27/9/19成立)

(1)存立危機事態
「我が国と密接な関係にある他国(米国)に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」に際して内閣総理大臣は自衛隊の出動を命じることができる。(自衛隊法76条1項2号)

(2)重要影響事態
「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国の平和と安全に重要な影響を与える事態」(重要影響事態)に際し、合衆国軍隊等に対する後方支援活動等を行う。(例えば韓国、台湾、南シナ海、ホルムズ海峡)

政府は、重要影響事態に際して、後方支援活動、船舶検査活動等を実施する。
後方支援活動は、現に戦闘行為が行われている現場では実施しない。(法84の4)

後方支援活動といえども、国際法に照らせば、「軍事活動に効果的に資する」として、合法的に攻撃対象とされる可能性はある。(1949/8/12ジュネーブ諸条約第一追加議定書52条2項)

(3)国際平和協力法(PKO法)

安保理決議に基づかない「国際連携平和安全活動」を追加

停戦成立後の停戦維持を目的にするものばかりでなく、「紛争による混乱に伴う切迫した暴力の脅威からの住民の保護」を目的とする活動の追加。

武器使用権限の大幅な拡大。

(4)国際平和支援法の制定

国連安保理の決議がなくとも「国際社会の平和と安全を脅かす事態であって、その脅威を除去するために国際社会が共同して対処する活動を行い、かつ、我が国が国際社会の一員としてこれに主体的かつ積極的に寄与する必要ある事態に際し、当該活動を行う諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等を行うことにより、国際社会の平和及び安全の確保に資する」ことを目的とする。

国連決議が「当該事態が平和に対する脅威又は平和の破壊であるとの認識を示すとともに、加盟国の取組を求める」場合を含むことになっている。つまり、9・11テロやイラクの大量破壊兵器に関する場合にも可能となろう。

自衛隊の活動地域は、従来、「非戦闘地域」に限られていたが、「現に戦闘行為が行われている現場」以外に拡大された。提供する物品・役務についても、除外されていた弾薬提供や発進準備中の航空機に対する給油が可能になる。

 

13 栗山尚一 「戦後日本外交  軌跡と課題」 2016 岩波現代全書

  ・ ブッシュ(父)政権は、91/9に、冷戦終結に伴う核戦略の見直しの一環として、平時における戦術核の軍艦への配備を中止するとの決定を発表した。この結果、安保条約締結後30年続いた事前協議と米国のNCND政策との矛盾は、有事の場合は別として、解消されることになった。しかし、日本が米国の「核の傘」が必要と考える限り、非核三原則と事前協議(イエスもノーもある制度)との整合性をどのように維持していくか、という問題は今後とも残る。(77頁)

  ・ 沖縄返還交渉が本格化するに当たり、米国政府は、返還後もメースB (中距離弾道ミサイル)を引き続き沖縄に配備すべきかを検討した結果、69/5の国家安全保障会議(NSC) において、交渉の最終段階での大統領の判断による撤去への同意を決定した。但し、その場合には、緊急時の貯蔵目的での再持ち込みと通過(トランジット)の権利の確保が条件とされた。佐藤総理も事務当局も、米国の腹を読めないままに11月の訪米を迎えた。(93頁)

    後になって振り返ってみると、ニクソン大統領にとっては、核兵器の再持ち込みについて佐藤総理の言質を取ることよりも、当時懸案となっていた日本の対米繊維輸出問題で、包括的自主規制への同総理の同意を取り付けることの方が優先度が高かった。旧式化して戦略的価値が乏しくなっていた沖縄の核ミサイルの撤去に大きな問題はなく、ニクソン・キッシンジャーのホワイトハウスは、「核抜き」を日本に対する重要な譲歩として利用すると同時に、中国に対する政策転換のシグナルという、一石二鳥の効果を狙ったのであろう。

    若泉・キッシンジャーが描いた秘密のシナリオは、佐藤総理が帰国後繊維業界を説得し、包括的自主規制を実施するというものであった。このシナリオは、業界の強い反対に遭って完結しなかった。キッシンジャーは、回想録の中で、過大な代償を日本に求める結果になった大統領選挙の公約を批判しているが、密使外交が返還交渉に残した暗い影の歴史を消すことはできない。(100頁)

  ・1972/7  田中内閣誕生当時外務省で条約課長だった筆者は、アジア局の橋本中国課長とともに日中国交正常化交渉に取り組むこととなった。「竹入メモ」の最大のポイントは、周恩来首相が共同声明において日米安保や69年の佐藤・ニクソン共同声明に触れる必要なし、と明言したことである。このことにより中国側が日米安保体制を容認する用意があることが分かった。

   次に筆者が重視したのは、「尖閣列島の問題にもふれる必要はありません」との同首相の発言であった。

   北京での日中首脳会談(第三回)の席上で、田中首相から「尖閣諸島についてどう思うか」との発言がなされたが、これに対し周恩来首相が「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今これを話すのはよくない」と応じたことは竹入メモに照らして予想された反応であった。

   筆者は、このような経緯を踏まえると、国交正常化に際し日中間において、尖閣諸島問題は、「棚上げ」するとの暗黙の了解が首脳レベルで成立した(中国側が「棚上げ」を主張し、日本側はあえてこれに反対しなかった)と理解している。(217頁)

   尖閣問題が再度浮上したのは、78/8の日中平和友好条約締結交渉のときである。その背景には同年4月に中国の武装した漁船集団が尖閣諸島の近海に押し寄せ、その中の10数隻が同諸島の領海内に侵入するという事件が発生したことがある。この問題で訪中した園田外務大臣と鄧小平副首相との間で議論がなされ、中国側の公表資料によれば、鄧小平副首相は、4月の漁船集団の事件は偶発的性格のものであるとしつつ、「このような問題については、後でおちついて討論し、双方受け入れられる方法をゆっくりと相談すればよい。今の世代が探し出せなければ、次の世代が探し出すだろう。」と発言したとされる。その後の10月、平和条約の批准書交換の機会に訪日した同副首相は、公開の場で全く同趣旨の見解を述べ、これに対して日本政府の反論がなかったことに照らせば、72年の国交正常化時の尖閣問題棚上げの暗黙の了解は、78年の平和条約締結に際して再確認されたと考えるべきであろう。(218頁)

 

14 吉田敏浩 「日米合同委員会の研究」 創元社 2016

  ・(ジラード事件)

    日米合同委員会で次の合意がなされていたことが、アメリカ政府解禁秘密文書で明らかになっている。

    傷害致死罪より重い罪では起訴しないこと、および日本側当事者は裁判所にできる限り刑を軽くするよう勧告することを条件に、アメリカ側は裁判権を行使しない。

    ジラードは1957/11/19、前橋地裁で懲役3年執行猶予4年を言い渡されたが、その直後に帰国。除隊となり、何のとがめもなく自由の身となった。(34頁)

  ・(裁判権不行使密約)

    日米地位協定により日本側が第一次裁判権を持つ「公務外の事件」であっても、「日本にとっていちじるしく重要な事件以外は裁判権を行使しない」という密約が日米合同委員会で合意されている。

    1953/10/28の日米合同委員会の裁判権分科委員会・刑事部会において、アメリカ政府解禁秘密文書によると、同部会代表だった津田實法務省刑事局総務課長は次の声明をなした。

    「私は、方針の問題として、日本の当局は通常、合衆国軍隊の構成員、軍属、あるいは米軍法下にあるそれらの家族に対し、日本にとっていちじるしく重要と考えられる事件以外については、第一次裁判権を行使つもりがない、と述べることができる。」(62頁)

    同年10/7付で法務省刑事局長から全国の検事長および検事正宛に次の「部外秘」の通達が出された。

    「前記の者の犯した犯罪にかかる事件につき起訴又は起訴猶予の処分をする場合には、原則として法務大臣の指揮を受けることとしたのであるが、さしあたり、日本側において諸般の事情を勘案し実質的に重要であると認める事件についてのみ右の第一次の裁判権を行使するのが適当である。」(84頁)

  1953/10/22、同じ刑事部会で日本側委員長の津田實とアメリカ側代表との間で次の刑事部会合意事項第9項(A)が成立している。

 「(米軍人・軍属による犯罪が)公務の執行中に行われたものであるか否かが疑問であるときには、被疑者の身柄を当該憲兵司令官に引き渡すものとする。合衆国の当局は、当該被疑者の公務執行の点に関しすみやかに決定を行い通知するものとする。」(93頁)

   ・(横田空域)

    外務省の機密文書「日米地位協定の考え方」によると、

    「米軍は、昭和34/6まで我が国における航空交通管制を一元的に実施し、また、米軍基地の飛行場及びその周辺における飛行場管制、進入管制は、現在も原則として米軍が実施している。このような管制業務を 米軍に行わせている我が国内法上の根拠が問題になるが、この点は、協定6条1項第一文及び第二文を受けた合同委員会の合意のみしかなく、航空法上積極的な根拠規定はない。」

    「米軍による管制は、厳密な航空法の解釈としては、航空法上の意味がないので、我国民は、これに従う法的義務はないものと考えられる。」(125頁)

    「米軍による右の管制業務は、航空法96条の管制権を航空法により委任されて行っているものではなく、合同委員化の合意の本文英語ではデレゲートという用語を使用しているが、これは「管制業務を協定6条の趣旨により事実上の問題として委任した」という程度の意味であって、例えば防衛庁長官が同法137条3項により運輸大臣から委任されて行う航空法上の管制とは異なる。」(128頁)

  ・(沖縄空域)

   「沖縄航空交通管制合意」(1972/5/15付)の改正に関する、民間航空分科委員会の日米合同委員会への覚書

   日本側代表 国土交通省航空局 室谷正裕弘管制保安部長

   「これらの覚書は両政府に属する公文書とみなされる。双方の合意がない限り公表されない。」

   「合衆国政府は那覇進入管制空域の施設またはそれを受け継ぐ日本政府の施設において、沖縄の米軍基地飛行場のための「アライバル・ファンクション」の責務を担う。」(156頁)

  ・(航空管制)

   「航空交通管制に関する合意 1975/5/8の第316回合同委員会で修正と承認を受けた民間航空分科委員会の勧告」

   第7条「日本国政府は、次の各号に掲げる航空機について、アメリカ政府の要請に応じ、航空交通管制の承認に関し、優先的取り扱いを与える。 

     A 防空任務に従事する航空機

     B あらかじめ計画され、その飛行計画について関係の航空交通管制機関と調整された戦術的演習に参加する航空機」(161頁)

  ・(民事裁判証拠)

   「合同委員会第7回本会議に提出された1952/6/21付裁判権分科委員会勧告、裁判権分科委員会民事部会、日米行政協定の規定の実施上問題となる事項に関する件」(裁判権分科委員会民事部会 日本側委員長 平賀健太 法務府民亊法務長官総務室主幹)(アメリカ政府秘密解禁文書による)

   「米軍の方針としては、正当な要請があったときは、公の情報を民事裁判の用に供することになっている。

    しかしながら当該情報が機密に属する場合、その情報を公開することが、合衆国政府に対する訴の提起を助け、若しくは法律上若しくは道徳上の義務に違反する場合、合衆国が当該訴訟の当事者である場合、又はその情報を公にすることが合衆国の利益を害すると認められる場合には、かかる情報を公表し、又は使用に供することができない。」(226頁)

    米軍人が公務中に他人に損害を与えた場合と、米軍の基地や装備の管理に法的な欠陥があって他人に損害が生じた場合は、日本政府が米軍に代わって損害賠償をする責任があると、民亊特別法で定めている。(232頁)

   「米軍の方針としては、軍隊の構成員及び軍属の証言が前記に掲げた種類の情報を公表するものでなく、またこれらの者が証人として出頭することが重要な軍事上の活動に支障を与えるものでない限り、これらの者が証人として民事訴訟に参加することを許すことになっている。」(240頁)

  ・(合同委員会の守秘)

   「日米合同委員会の公式議事録は日米両政府に属する公式文書としてみなされ日米双方の合意がない限り公表されない。合同委員会の会合や活動に関するプレスリリースも、日米双方の合意がない限り発表されない。」 (320頁)

 

(2) 沖 縄

1-1 守屋武昌「普天間交渉秘録」新潮社 2010

・東京の港区、渋谷区、新宿区、西部地域の上空7000メートルまでは、米軍の空域となっている。朝鮮戦争の際ハワイ、グアムの米軍基地から最短距離で朝鮮半島に至る航空路がそこにあり、東京、神奈川、山梨、長野、そして新潟のそれぞれ一部は、現在もコリドール(回廊)として米軍が使用しているからだ。西日本や北陸から羽田空港に向かう民間航空機が伊豆大島から高度を下げ、銚子から回り込むように羽田に着陸するのは、この空域を避けて飛ばねばならないからである。

・橋本総理とウォルター・モンデール駐日大使が筋道をつけ、池田行彦外務大臣と久間章夫防衛庁長官が承認したのが、1996/12のSACO最終報告である。
そこで宜野湾市にある普天間飛行場についてこう取り決めがされた。
「海上施設の建設を追求し、普天間飛行場のヘリコプター運用機能のほとんどを吸収する。この施設の長さは約1500メ-トル(滑走路は1300メートル)とする。今後5年ないし7年以内に、十分な代替施設が完成し運用可能になった後、普天間飛行場を返還する。」

・「海上施設の建設先は名護市沖とする」政府はこう決めていた。那覇市を中心とする南部地域にあった基地はほとんどが返還され、中部地域は既存の基地が多く人口密度も高い。建設の受け入れが可能なのは名護市などがある北部地域しかなかった。

・「辺野古沖で強制排除を執行すると流血の事態を招く恐れがある」海上保安庁はそう表向きの理由をいって、反対派の強制排除を拒否した。そしてボーリング調査は進まないまま2005年を迎えていた。

・「環境という言葉に国民は弱い。環境派を相手に戦っては駄目だ。」小泉総理はそう漏らした。
「それほど住民運動は怖いんだよ。執念深い。絶対に海に作るのは駄目だ。俺の考えははっきりしているから、君の考えで案を作ってくれ。事務方で交渉をまとめられないなら、俺がブッシュと話してまとめるから。」

・2005/10 日米の2プラス2で辺野古先L字案(防衛庁案)で合意した。
名護市の岸本市長、稲嶺沖縄県知事が反対を表明。
2006/4 これを修正したV字案で名護市長と合意したが、稲嶺知事は同意しなかった。
2006/12 久間大臣が「滑走路を100メートル海に寄せる。それからV字をハの字に変える。」と言い出した。

・2007/8 防衛事務次官を退任。

 

1-2. 同「日本防衛秘録」新潮社 2013

(尖閣諸島)
・魚釣島と北小島、南小島の三島ばかりが注目されているが、その30キロほど北北東にある久場島(87.4ヘクタール)と110キロほど北東にある大正島(5ヘクタール)も尖閣諸島に属している。二つの島は、1956年から米海軍の艦艇と戦闘機の実弾射撃場として使われ、沖縄復帰とともに在日米軍が使用する「施設および区域」として日本政府が米国政府に提供してきた。(18頁)

・1969年に国連アジア極東経済委員会が東シナ海で海底調査を行い、「台湾と日本との間にある浅海底は、世界的な産油地域になるであろうと期待される」との報告書を出していた。
中国が尖閣諸島沖合で天然ガスの生産を開始したのは1992年のことだ。その後 5施設が設置されている。
「油田を開発してもその後どうするのか。尖閣諸島から九州まで700キロのパイプラインを敷かなくてはならない。そのコストを考えれば、中東から買った方がはるかに安い」として通産省が撤退を決めていた。(22頁)

(隊員)
・ちなみに、航空自衛隊の戦闘機のパイロット育成のための教育期間は、高校卒業後、基礎教育2年、実技教育2年半、部隊教育1年と全部で5年半を要する。パイロット一人を育成するのに必要な経費は、F-4EJで 7億5千万円、F2で 7億円、F-15で 6億円かかる。(208頁)

 

(在日米軍)
・横田基地は、東京都と埼玉県の7市町に跨がって 715ヘクタールの土地を有し、3350メートルの滑走路を持つ。軍人 3600人、軍属 700人、家族 4500人がそこに暮らす。常駐機は、輸送機、連絡機で、戦闘機は配備されていない。
・横田空域は、1都8県の上空 2400~7000メートルに広がる。この中に日本の航空機は許可なく入ることはできない。
米軍によって横田空域が作られたのは朝鮮戦争の時だった。直線状に並ぶハワイの米空軍基地、厚木基地、横田基地から最も短時間で朝鮮半島に到着できるように米空軍専用の回廊を確保するためだった。 それがそのまま現在に至っている。(230頁)
・厚木基地は、米空母が横須賀に帰って来た時の空母艦載機の基地である。空母の出港間近には、そこで戦闘機による夜間離着陸訓練が行われる。神奈川県の三市に跨る 507ヘクタール。
艦載機の離着陸訓練は、2014年までに岩国基地に移駐されることになった。(244頁)
 

2. 矢部宏治「本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること沖縄・米軍基地 観光ガイド」書籍情報社 2011/6

・辺野古の巨大基地建設問題で、すっかり有名になったキャンプ・シュワブ。普天間基地の「移転」というのはまったくのまやかしで、米軍は1960年代からここに、嘉手納基地以南の基地機能をすべて集約した巨大基地を建設したいと考えていた。
だがこれまでのように、敗戦時の混乱のなかでむりやり押しつけられたのでなく、自分たちの決定で新しい基地の建設を受け入れてしまったら未来永劫、米軍が島から出ていかないことを沖縄の人たちはよく知っている。そのため、日本政府のさまざまな懐柔策に対しても、ぶれずに反対を続けている。(244頁)

・世界一危険で、近い将来絶対に閉鎖しなければならないボロボロの基地と辺野古につくる新品のピカピカの基地を「交換」しようという話なのです。(254頁)

 

3. 前泊博盛「沖縄と米軍基地」角川新書 2011/9

・普天間飛行場の県内移設はもはや困難というのが、研究者の間では一般的な見方になっている。それでも普天間問題の解決は「県内、辺野古移設が唯一、ベストの解決策」と信じているのは、沖縄の実情を知らない政治家や官僚、沖縄の世論に疎いワシントンの米国務省や国防総省、米軍の幹部だけかもしれない。(45頁)

・ばらばらに点在し60年余りも使ってきた古い基地を、沿岸の使い勝手のいい地域にすべて移転し、施設も装備も最新鋭のものに更新できる。しかもすべて日本政府の税金でただで作れるのだから、米軍にとってこんなにおいしい話はない。(198頁)

・在沖縄米海兵隊の一部をグアムに移転する合意をしたが、それに伴い必要となるグアム新基地建設費の6割を日本が負担する。(55頁)

・海兵隊員が在日米軍の(3.3万人)の約半数を占め、その海兵隊員の9割(1.3万人)が沖縄に集中している。

・米軍が本来負担すべき兵舎の建設や戦闘機の掩体施設、果ては学校、娯楽施設、教会までもが日本の税金で建設されている。(121頁)

 

4. NHK取材班「基地はなぜ沖縄に集中しているのか」NHK出版 2011/9

・沖縄に駐留する米軍兵士は2.4万人、その60%は海兵隊。232平方キロメートルの基地のうち海兵隊の基地は76%。

・1950年に始まった朝鮮戦争が膠着するにつれ第三海兵師団は、予備軍として日本に駐留した。当初は本土に駐留していた。

・戦後当初は、米軍基地は日本全土に置かれていた。その多くは旧日本軍の基地を接収したもので、90%は本土、10%が沖縄だった。

・1954年、海兵隊の沖縄移駐が決定された。その理由は、本土の反基地感情の昂まり、沖縄の地理的重要性、当時米軍の施政下にあった沖縄の方がコストが安い、ということだった。
米軍による「銃剣とブルドーザー」による土地の接収に対し沖縄住民は激しく抵抗した。
1957年 移駐が一気に進み、沖縄の基地面積は 1.8倍の 3万ヘクタールになり、沖縄本島の 20%を占めるようになった。
1960年の在日米軍基地の面積は 10年前の 4分の1になった。本土と沖縄の基地の割合は50%ずつとなった。
現在では 74%が沖縄に集中している。

・1957年の日米安保条約の改定にあたっては、沖縄を対象に含めることについて、社会党など野党は、「アメリカの戦争に巻き込まれるおそれがある」という理由で反対した。また沖縄にアメリカの核兵器を持ち込むことが事前協議の対象になるようでは 日本の安全保障の重大な懸念材料になる、という理由で、与党自民党の一部からの反対も出て、沖縄は条約の対象外とされた。

・1971年横田基地のF4戦闘爆撃機ファントムの部隊を嘉手納基地に移した。横田基地の騒音問題は大幅に減少した。2009年に市が住民にとったアンケートでは基地を肯定する人は8割以上、インターヴューでも「たまにうるさい時もあるが、基地の存在はそんなに気にならない。」という人がほとんどだ。

・1972年の沖縄の本土復帰の交渉では、沖縄の人々が求める「本土なみ」への基地の縮小は、ほとんど協議の対象にならなかった。問題となったのは、沖縄の米軍基地に配備されているとされる「核」であった。当時本格化していたベトナム戦争がその背景となっている。

 

5. チャルマーズ・ジョンソン「アメリカ帝国への報復」集英社 2000

・普天間高校の化学教師は、1996/10/14号のニューズウィークに語った。「一度、女子生徒に調査をし、登下校の途中にアメリカ兵から恐ろしい目にあわされた経験はあるか、尋ねました。生徒の 3分の1から 2分の1が、あると答えました。」(68頁)

・アメリカの軍人を当事者とする交通事故は、沖縄では毎年 1000件あまりにのぼる。(日本全体では 2000件近い。)アメリカ人ドライバーが一般に保険を(十分に)かけていないこともあって、地元の犠牲者が訴訟を起こす前に日本を離れてしまうことも、この種の事故の典型である。(69頁)

・ニューズウィークの前同号に宜野湾市の教師は語っている。「私の授業は 50分ですが、少なくとも 3回は飛行機の離着陸の信じられないような騒音に邪魔されます。私の声は生徒に聞こえなくなりますから、騒音がなくなるまで我慢して待たねばなりません。」(71頁)

・これまでのところ、最もはなはだしい環境破壊として記録されているのは、1995年12月とその翌月に 1520発もの「劣化ウラン」の砲弾を沖縄本島の西およそ 100キロメートルに位置する鳥島に撃ちこんだ演習である。(74頁)

・アメリカ人は、太平洋に浮かぶ最も美しい亜熱帯の土地を傷つけ、米軍基地がなければ可能だったはずの暮らしを沖縄の人々から奪ったのだ。アメリカ人は、米軍基地が地元の経済に役立っており、地元民が基地から利益を得ていると主張してきた。沖縄に関する限り、これは全く事実に反する。現在の沖縄の主要産業は観光である。これほど多くの基地が各地に設置され、税金も払わず、沖縄の将来に関心のないアメリカ人が 5万人もいることは、沖縄の魅力を高めて日本や台湾の観光客を増やすのに全く役立っていない。(75頁)

・1998年の国防省報告によると、日本は在日米軍 4万3000人の駐留費の 78%を負担しているのに対し、ドイツは在独米軍 4万9000人の駐留費の 27%しか負担していない。

・アメリカ政府は、サウジアラビアと台湾への売却を除けば、日本に最も多くの新型兵器を売却している。ジェネラル・ダイナミック社製F-16戦闘機の技術の使用を許可し、イージズ艦ミサイル防衛システムや超高性能の空中警戒管制機、パトリオット対空ミサイルなどを売却しているのだ。(86頁)

・沖縄はいまでも本質的にペンタゴンの軍事植民地であり、空軍と海兵隊はもちろんグリーンベレーや国防情報局にとっても、アメリカでは決してできないことを体験できる巨大な隠れ家なのだ。沖縄は、アメリカのパワ-をアジア全体に浸透させ、この重要な地域でアメリカの覇権を維持し強化していくという、アメリカの掲げる壮大な戦略に利用されている。この戦略をひねりだしたことによって最大の恩恵を受けているのはアメリカ軍である。(90頁)

 

6. ケント・E・カルダー「米軍再編の政治学」 2008日経新聞出版社

・戦争中や終戦直後に海外基地が確立すると、その基地の実際の機能がどう発展しているかに関わりなく、永続的に存在し続けることが多い。
アイスランドの米軍基地は、アイスランド国会がたびたび基地撤廃の決議を行い、対潜作戦という本来の任務が時代遅れになっているのにも関わらず、1941年から60年以上も存続している。
沖縄の海兵隊基地も、地元の強硬な反対を受け、戦略任務を効率的に実施できるような代替の候補地が多数あるにもかかわらず、1945年から居座り続け、その間ずっと日本政府からかなりの額の財政支援を受けている。
つまり、受入国の政府に激変がない限り、変えるべきだという技術的な理由があっても、基地のありようを変革するのは容易ではない。(66頁)

・米軍将兵 9000人が配置されたフィリッピンのクラーク航空基地は、1903年から米陸軍の航空部隊によって運営されてきた。閉鎖された米空軍基地としては最大の規模である。米軍将兵 6000人が配置されたスービック湾海軍基地は、閉鎖された米海軍基地としては4番目の規模である。米軍のフィリッピンからの撤退は、明らかに戦略ではなく政治的事情によるものであり、世界各地での長期に及ぶ縮小の傾向を強める効果があった。このように大国アメリカですら、いまや世界各国で活発になっている、基地縮小を唱えるポピュリストの政治圧力にふりまわされている。(77頁)

・国防総省の公式データによれば、日本におけるアメリカの軍事資産の価値は、2004年にドイツをしのぎ、米国外では最高になった。米軍海外施設のうち、日本の施設が占める割合は、米海兵隊では 99%、米海軍では 44%、米空軍では 33%にのぼる。(99頁)

・米軍基地はいまも沖縄全土のおおよそ 20%を占めており、多くは人口が最も密集した経済的に重要な都市部にある。
基地に土地を貸している沖縄県民の多くは、基地や軍隊への個人的感情がどうであれ、補償型政治のおかげで今後も貸し続けることになるだろう。沖縄には基地の存在から経済的利益を得ている特定のタイプの団体が 7つはある。それらが一丸となって、既存の基地体制を安定させようと、強力なコミューニティを形成し、島全体に見られる明らかな反軍国主義の伝統とはちぐはぐな際立った対照をなしている。
沖縄の基地は、いまも 8300人の住民を雇っている。基地労働者の給料はすべて日本政府が払っているが、5億ドルをゆうに超えている。(258頁)

・イラク戦争前、ドイツには最大規模の米軍が派遣されていた。しかし受入国支援の総額は、半分そこそこの兵士しか受け入れていない日本より低い。2002年の日本の米軍援助総額は、46億ドルを超えている。これは世界各国からアメリカが受けている受入国支援総額の60%以上に当たる。日本に配置された兵士ひとりあたりに対する援助額は、ドイツの 5倍近い。(286頁)

 

(3)領土問題

1. 保坂正康・東郷和彦「日本の領土問題」角川新書 2012/2

(イ)北方領土

・1945/8/9 ソ連軍は怒涛のごとく満州に攻め入った。これは日ソ中立条約違反であった。
7/12 外務大臣発駐ソ大使宛の極秘電報で「速やかなる戦争終結」を望む天皇の親書を持って近衛文麿特使を派遣する旨が打電された。この要請が裏切られた。
満州居留民を襲ったソ連軍によって日本の民間人 17万6000人が消えた。ポツダム宣言によって帰国を許されていた日本兵 60万人をソ連に抑留、そのうち 6万人はシベリアで死んだ。
1855年の日露通好条約によって国境を確認し、以後 90年にわたって日本の領有していた 4島を占拠した。

・1951年のサンフランシスコ平和条約では、日本は、「千島列島を放棄」した。
吉田茂全権は、「千島南部の2島、択捉、国後両島」と「北海道の一部を構成する色丹島および歯舞諸島」と述べ、前2島が千島列島に入り放棄の対象であることを認めていた。もっともソ連はこの条約に署名していない。

・1956年 日ソ共同宣言の交渉中にマリク全権は、「歯舞・色丹を日本に返してもいい」といった。(松本俊一「モスクワにおける虹」新版「日ソ国交回復秘録」朝日新聞出版2012)しかし、日本政府は「能う限り国後・択捉の返還」と「歯舞・色丹の無条件返還」を要求するよう訓令を発し、結局交渉は決裂した。
当時ダレス米国務長官は、「もし日本が国後・択捉をソ連に帰属せしめたら、沖縄をアメリカの領土とする」と恫喝した。

 

(ロ)竹島

・1905/1/25 の閣議決定、2/22 島根県告示によって竹島の併合はなされた。
韓国にとって1905年の竹島併合は、1910年の韓日併合の布石として捉えられている。竹島は日本領土であるという日本人の認識を述べると、多くの韓国人は、「韓国併合は正しかった」と同じことを言っているように聞こえるのだ。

・サンフランシスコ平和条約では、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」竹島については触れられていない。
米国は、竹島を在日米軍の使用する爆撃訓練区域に指定しており、日米間では竹島は日本の領土とする見解は一致している。

・1954年 韓国は、沿岸警備隊を竹島に派遣して、以後実効支配している。当時日本は、自衛隊より前の保安隊の時代であった。

 

(ハ)尖閣諸島

・中国と台湾が、尖閣諸島問題について日本にその領有を主張し始めたのは1971年。しかもその後20年間中国指導部は、これを日中間で緊急に解決すべき問題としてこなかった。

・日本政府が「無主の地」として尖閣諸島の領有を認めたのは 1895/1/14。この日の閣議は、魚釣島と久米島に標杭をたてることを決定した。台湾を併合した下関条約は 1895/4/17。しかし尖閣諸島の日本領土編入と台湾の併合はきりはなされて行われた。

・一時民間に 30年の無償貸付がされ、後、私有地として付与されたが、1940年以後再び無人島になった。

・敗戦後、台湾は中華民国の統治下に入ったが、尖閣諸島は米軍政下におかれ、沖縄の一部として推移した。

・1972年の日中国交回復交渉直前の 1968年に、国連アジア極東経済委員会レポートが尖閣諸島海域には石油の埋蔵量があると発表したことが、中国、台湾の立場を顕在化させたのである。

・1972年の国交回復交渉において、周恩来は、「尖閣諸島の問題に触れる必要はありません」「今回は話したくない」といい、1978年 鄧小平は、「このような問題については、今回は突き詰めるべきでない。次の世代、さらにその次の世代が方法を探すだろう」と述べた。

・1992年 中国は領海法で、「台湾及びその釣魚島を含む付属諸島は中華人民共和国に属する島嶼である。」と明文化した。

・2000年に発効した日中漁業協定では、「既存の漁業秩序を維持する。」とし、これは、管轄権の行使を旗国主義によるということである。「自国の機船に対して適切な指導監督を行い、並びに違反事件を処理する」ということになる。

・2002年 国が 3島を所有者から賃借した。それ以来、第三者の上陸を認めていない。

・2004/3/24 魚釣島に 7名の中国人活動家が上陸、沖縄県警に逮捕され、那覇に連行。26日に上海に強制送還された。

・島根県竹島問題研究会の下條正雄氏論文「尖閣諸島が日本領となったのが、日清戦争最中の1895/1/14。これは日露戦争中の1905/1「無主の地」であった竹島が日本領に編入されたのとその経緯が酷似している。竹島も尖閣諸島も、戦争下で日本領となり「無主の地」を日本が先占したという共通性から、日本による侵略といった歴史認識に結びつきやすいのである。」

 

2. 孫崎 亨「日本の国境問題」ちくま新書 2011

(尖閣諸島)

・19世紀以前には、漠としてであっても中国の管轄圏内に入っていた尖閣諸島に対して、これは無主の地を領有する先占にあたるとの論理がどこまで説得力があるか疑問である。(67頁)

・中国側は一貫して尖閣諸島(釣魚島)は台湾に属するとの立場をとっていた。(71頁 )

・1972年「両国の指導者は中日友好の大局を配慮することから出発して、釣魚島主権の帰属問題を一時棚上げにし子孫に残して解決させることに合意した。」(74頁)

・2000年の日中漁業協定は、尖閣諸島周辺の海域についてお互いが自国の漁船だけを取り締まることとした。2010/9 に日本が中国漁船に停船命令を出し、臨検の動きを見せたのは、これに反する行動であった。(84頁)

・米国は、「尖閣の主権は係争中であり、米国は最終的な主権の問題に立場をとらない。」(88頁)

 

(北方領土)

・1945年のポツダム宣言は、「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに我等の決定する諸小島に局限せらるべし。」とした。

・1946年連合軍最高司令部訓令は、日本に含まれる地域から「竹島、千島列島、歯舞、色丹を除く。」としている。

・1951年のサンフランシスコ平和条約は、「日本国は千島列島に対するすべての権利、請求権を放棄する。」としている。(109頁)

・1956年の日ソ和平条約交渉に参加したフルシチョフ第一書記は、「歯舞色丹の引き渡しという譲歩は、ソ連にとって極めて小さな意義しかないと感じていたのに対し、これらと引き換えに日本国民から勝ち取る友好関係は極めて大きいものと思った。」と述べていた。

・同交渉中、重光外相は、ダレス国務長官から、もし日本が国後択捉をソ連に帰属せしめたら、沖縄を米国の領土とすると恫喝された。(110頁)

 

(竹島)

・1946年の連合国最高司令部訓令では、竹島は日本領土から除かれていた。

・サンフランシスコ平和条約では、竹島は日本国が放棄する島の中に入っていない。

・1951年に国務省を代表してラスク国務次官補は、竹島は、朝鮮の一部と扱われたことは一度もなく、1905年以降日本国島根県の所管にあるとした。

・米国地名委員会は、竹島の所属国を2008年7月にこれまで韓国としていたのを「不明」に改めた。これをさらに韓国に戻した。町村官房長官は、米国の一機関の動きにいちいち反応する必要はないと、述べたが、これは外交放棄というべきである。

 

(日米安保条約)

・条約5条「各締約国は、日本国の施政の下にある地域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、同国の安全を危うくするものであると認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するよう行動する。」

・北方領土および竹島は、日本の「施政下」にない(実効支配下にない)。従って安保条約の対象外である。
尖閣諸島は日本の施政下にあるから安保条約の対象になる。ただし、米国は最終的主権の問題にはいずれにも組しない。
米国憲法では、戦争宣言は連邦議会の権限に含まれている。すなわち軍の最高司令官である大統領が戦争を遂行するには議会の同意を要する。
北大西洋条約では、締約国に対する武力攻撃が行われた時は直ちに兵力の使用を含めて必要な行動をとる条約上の義務を負っているのと大きな違いである。(156頁)
2005年の「日米同盟 未来のための変革と再編」では「島嶼部への侵攻への対応」は、日本独自で行うものと想定されている。

 

3. 東郷和彦「歴史認識を問い直す」角川ONEテーマ21 2013/4

(尖閣諸島)

・1972年の日中国交回復交渉のとき中国側は日中友好の回復を優先させて尖閣諸島の領有問題を棚上げにすることを提案し、日本側もこれに異をとなえなかった。(24頁)

・1992年に中国は、「領海法」によって尖閣諸島を自国の領土とする国内法を制定した。
中国の主張は、「尖閣諸島は、19世紀、清朝が弱体化したのに乗じて、日本帝国が侵略し、窃取した領土だ。」
「最初に手を出したのは日本である。日本政府が、尖閣における実効支配を強め、中国の立場を弱めるために尖閣を国有化した。それを実際にやったのは石原慎太郎元東京都知事と野田佳彦元総理の連携プレイによる。」(30頁)
2012年8月の時点では中国サイドは、「日本は、尖閣に立ち入らない、建造物を作るなど開発をしない、調査を行わない、この三つのNOを守ってくれ。この約束を日本が引き続き守ってくれたら、日本が国有化という措置をとっても、中国外交部は立場上反対声明を出さざるを得ないが、それに留まる。」といっていた。(30頁)

・外務省のホームページでは、1972年以来、「尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在していません。」としている。しかし、この言い方はやめるべきである。(42頁)

・アメリカは、主権についてはいずれの立場も支持せず、中立を守る。実効支配しているのは日本であるから、安保条約5条の適用対象である、との立場をとっている。
しかし、万一中国が様々な部隊を動員して尖閣諸島に入り、そこに武力衝突が発生したとき、まず自衛隊、海保、警察を始めとする日本の部隊が前線に立ち、自ら国を守る覚悟で行動しなければならない。これは条約の規定以前の同盟の本質である。

 

(竹島)

・竹島は、1965年以降30年間、日韓の外交問題の中心になったことがない。
それは、ロー・ダニエル「竹島密約」(草思社2008)によると、
日韓国交正常化交渉の最後のネックとなった竹島問題をギリギリ解決するため、朴正熙大統領と佐藤栄作首相は竹島密約を作った。直接署名したのは、丁一権国務総理と河野一郎国務大臣。
「竹島・独島問題は、解決せざるをもって、解決したものとみなす。したがって、条約では触れない。

(イ)両国とも自国の領土であると主張することを認め、同時にそれに反論することに異論はない。
(ロ)しかし、将来、漁業区域を設定する場合、双方とも竹島を自国領として線引きし、重なった部分は共同水域とする。
(ハ) 韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の新設、増設を行わない。」(62頁)

ダニエル氏によると、朴正熙から全斗煥、盧泰愚といった軍人出身者が大統領の座についていた時代は密約は引き継がれていったのだが、1993年、直接選挙によって、大統領に選ばれた金泳三になると、密約の存在は引き継がれなかった。密約関連文書も処分されたとのことである。

 

(北方領土)

・2001年 イルクーツクで「56年宣言に基づく歯舞・色丹の引き渡しはやりましょう。 それから、国後・択捉をどうするかという議論をやりましょう。」というところまでいったが、そこで交渉はストップした。(78頁)

・2012/3/1 プーチンは記者会見で、「勝ち負けいずれも目標にならない。受入れ可能な妥協でなくてはならない。「引き分け」のようなものだ。」と述べた。
現在ロシアが国境線を画定できないでいるのは、日本だけである。旧ソ連構成国、中国、ノルウェー全て画定した。
ロシアにとって、外交上の完敗を意味する四島一括返還はあり得ない。
日本としては、この際、二島プラスアルファで決着をつけるのだ。
国際司法裁判所の判例はつとに、実行支配重視に変わりつつある。2007年に開始されたクリル開発計画の進行を日本に止める力はない。(100頁)

 

4. 勝股 秀通「自衛隊、動く」ウェッジ社 2014

・防衛省は 4/9、領空侵犯の恐れのある軍用機などに航空自衛隊の戦闘機が緊急発進(スクランブル)した回数が2013年度は 810回(12年度は 567回)に上ったと発表。尖閣諸島などを巡る日中間の緊張を反映して、中国機に対する緊急発進が全体の約51%にあたる 415回(同 306回)に達した。(読売新聞2014/4/10朝刊)(14頁)

・中国は、ディーゼル機関で駆動する通常動力型の潜水艦は、キロ級 12隻と元級 4隻が就役しているほか、より静粛性を増した改良型の元級 3隻も追加配備される見込みだ。日本の海上自衛隊は通常型潜水艦を 16隻しか保有しておらず、2013/12に策定した中期防衛力整備計画で 22隻体制に拡充する方針とはいえ、すでに日中の通常型潜水艦勢力はほぼ互角となった。宋級潜水艦を加えれば、数の上では、中国海軍が海自を大きく上回っている。
このほか原子力潜水艦も、旧型の漢級と夏級の後継艦として、巡航ミサイルを搭載した攻撃型原潜の商級 2隻と、核爆弾搭載可能な潜水艦発射型弾道ミサイルを搭載できる戦略型原潜の晋級 3隻が就役しており、さらなる新造計画も見込まれている。(36、149頁)

・尖閣諸島は 5つの島と 3つの岩礁から構成されており、最大の魚釣島で 3.82平方キロメートル。石垣島の北方150~170キロメートルの海域に点在している。同諸島周囲の領海(12海里)面積は約2万平方キロメートル、領海の外側 200海里に広がる排他的経済水域まで計算すれば、その広さは約17万平方キロに達し、日本の国土面積の約4割にも匹敵する。
魚釣島は、東西約3.5キロメートル、南北約1キロメートルのサツマイモのような形をしており、第2次世界大戦前までは、カツオ節づくりやアホウドリの羽毛の採集、漁業などで生計を立てる人々が暮らしていた。戦後は米国の占領統治を経て、現在は無人島になっているが、300人規模の守備隊を配置するには十分の地積がある。
中国は現在、台湾を標的とする短距離弾道ミサイル(射程200~500キロ)を 1千基以上も中国東海岸に配備しているが、その一部を魚釣島に運びこまれたら、沖縄本島も完全に射程内に入ってしまう。「尖閣諸島が中国の手に落ちれば、沖縄本島にいる在日米軍は、全ての機能をハワイやグアムなどに引き下げてしまうだろう」と自衛隊幹部はその戦略的意義を強調する。(82頁)

・自衛隊幹部は「政府は、中国が上陸を強行すれば自衛隊が空爆する、と公言しておいたらどうか」と話す。海上自衛隊の幹部もこれに同意し、「離島奪回は犠牲が大き過ぎる。もし上陸されれば、海自の護衛艦が島の形が変わるまで艦砲射撃する」と言う。(99頁)

・現在、中国空軍の主力機は、航空自衛隊のF15と同じ第4世代機で、ロシアから輸入したスホーイ27戦闘機と、同機をベースに国産化した殲11戦闘機で、量産が進みあわせて 150機前後を保有していると推測される。さらに、航空自衛隊のF2戦闘機と同様に対地攻撃などに優れているのはスホーイ30MK戦闘機と、独自開発した殲10戦闘機で、空軍と海軍が運用しており、その数は約200機に達し、現代の主流である第4世代機で比較すれば、すでに数の上では中国空軍が航空自衛隊を凌駕している。(132頁)

・2012/9日本が尖閣諸島を国有化してから、中国は国家海洋局の「海監」や漁業局の「漁政」などの政府公船を次々と繰り出し、13年夏以降は両局などを統合した海洋行政・治安機関の海警局が「海警」と呼ばれる船舶を出動させている。海上保安庁によると、14年末までに、尖閣諸島周辺の接続水域まで接近した艦船は 1296隻に上り、そのうち領海内に侵入した艦船は 262隻に達している。これに対し、海上保安庁は全国の海上保安本部から外洋活動に適した1000トン以上の大型巡視船を総動員して対応に当たっているが、その活動には限界がある。(163頁)

・冷戦時代の1980年代、スウェーデンは領海内を潜航する国籍不明の潜水艦に対して、自衛権を発動し、爆雷攻撃という強制的な手段で浮上することを求めた。国籍不明の潜水艦は浮上することなく逃走したが、2度とスウェーデンの領海内に潜没して侵入することはなかった。(167頁)

 

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H. 公害

1. 石牟礼道子「苦海浄土」1969(河出書房新社2011)

・昭和29年から34年にかけて、水俣病の多発した部落の漁家に出生した子どもたちのうち、脳性小児麻痺様の子供たちの部落集中率の高さがいぶかられていたが、37年11月、水俣病審査会はこれら子どもたちのうちまず 17名を、39年3月末に 6名を、計23名が、胎児性水俣病であると発表した。子どもたちは、母親の胎内ですでに有機水銀に侵されて、この世に生を受けたのであった。
誕生日が来ても、2年目が来ても、子どもたちは歩くことはおろか、這うことも、しゃべることも、箸を握って食べることもできなかった。ときどき正体不明の痙攣やひきつけを起こすのである。(16頁)

・おとろしか。人間じゃなかごたる死に方したばい。九平と、さつきと、わたしと、誰が一番に死ぬじゃろかと思うとった。いちばん丈夫とおもうとったさつきがやられました。(病院の)上で、寝台の上にさつきがおります。ギリギリ舞うとですばい。寝台の上で。手と足で天ばつかんで。背中で舞いますと。九平も下のほうでそげんします。目もみえん、耳も聞こえん、ものもいいきらん、食べきらん。人間じゃなかごたる声で泣いて、はねくりかえります ああもう死んで、いま三人とも地獄におっとじゃろかいねえ、とおもいよりました。(28頁)

・網の目にベットリとついてくるドベ(泥土)は、青みがかった暗褐色で、鼻を刺す特有の、強い異臭を放った。臭いは百間の工場排水口に近づくほどひどく、それは海の底からもにおい、海面を覆っていた。
夜の海に出て、灯ばつけて、眼鏡でのぞきながら、鉾突きをやるです。すると、海底の魚どもが、おかしな泳ぎ方ばしよるですたい。魚どもが、海の底の砂や、岩角に突きあたってですね、わが体ば、ひっくり返し、ひっくり返ししよっとです。
そしてあんた、だれでん聞いてみなっせ。百間の排水口から、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊が座布団くらいの大きさになって、流れてくる。あんたもうクシャミのでて。
昼はみよらんだった。何日目ごしかに、そいつが流れてきよりましたナ。それがきまって夜漁りのときばっかり。(51頁)

・水俣湾百間港付近を漁場とする漁村部落に集中発生していた水俣病患者は、工場が八幡地区水俣川河口排水口を変更しだした33年を越えると、河口付近の八幡舟津から遠く北に延びる葦北郡津奈木村に発生しだした。
昭和28年末に公式第1号患者が出てからさえ、すでに6年を経、工場側は熊大説を否定、水俣病と工場排液は関係ないとして、漁民たちを、もちろん患者たちをも、無視しつづけていた。(55頁)

・くりくり、くりくり舞うかとおもうと、猫たちがこう、酒に酔うたごつして千鳥足で歩くとですよ。だんだん舞うのがきつうなる。後にやですね、ああた、鼻の先で、鼻の先ばっかりで逆立ちせんばかりして舞うとですよ。地(じだ)ば鼻でこすって。それで、どれもこれも、鼻の先は、ちょろりとぬけよったですよ。(61頁)

・34年12月下旬、不知火海沿岸 36漁協に対し、漁業補償一時金 3500万円、立ちあがり融資 6500万円を出すことを決定。ただし漁業補償金のうちから 1000万円は 11月2日の「乱入」で会社が受けた損害として差引返済させた。
水俣病患者互助会 59世帯には、死者に対する弔慰金 32万円、患者成人年間 10万円、未成年3万円を発病時にさかのぼって支払い、「過去の水俣工場の排水が水俣病に関係があったことがわかってもいっさい追加補償要求はしない」という契約をとりかわした。
大人のいのち 10万円
子どものいのち 3万円
死者のいのちは 30万円
と、わたくしはそれから念仏にかえてとなえつづける。(78頁)

・わたくしが昭和28年末に発生した水俣病事件に関心を持ち、水俣市立病院水俣病特別病棟を訪れた昭和34年5月までチッソは、このような人びとの病棟をまだ一度も(このあと40年4月まで)見舞っていなかった。(82頁)

・見るからに老い先短げな老夫婦と、誰の目にも、- あんわれもだいぶ水俣病の気のまじっとるばい、腰つきも、物のいい方も - という具合にみえて、お上からいただく生活保護のことでもいちだんと世間がせまいということで、診察を受けにゆくことを遠慮しているひとり息子と、この息子のもとを逃げ出した嫁女が生んだ 3人の孫 - 中の孫の杢太郎(9才)は排泄すら自由にならぬ胎児性水俣病である - の計6人が一家であった。
その嫁女の家でも、9人家族のうち 4人、水俣病が出やした。
この杢のやつこそ仏さんでござす。こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか、口もきけん、めしも自分で食やならん、便所もゆきゃならん。それでも目は見え、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆ろうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しかよな瞳ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまっでん見入っとる。これの気持ちがなあ、ひとくちも出しならん。何ば思いよるか、わしゃたまらん。(118頁)

・両親は急性劇症型、慢性刺激型で初期に死亡した。弟の病状を抱えて姉は嫁にもゆきそこねた。土方仕事を休んで弟と二人、(チッソ江頭)社長の来訪を待った。
「よう来てくれなはりましたな。待っとりましたばい、15年間!
今日はあやまりにきてくれなったげなですな。あやまるちゅうその口であんたたち、会社ばよそに持ってゆくちゅうたげな。今すぐたったいま、持っていってもらいましゅ。ようもようも、水俣の人間にこの上脅しを噛ませなはりました。あのよな恐ろしか人間殺す毒ば作り出す機械全部、水銀も全部、針金ひとすじ釘一本、水俣に残らんごと、地(じだ)ながら持っていってもらいまっしょ。東京あたりにでも大阪あたりにでも。」(190頁)

・昭和45年5月末 水俣病補償処理委員会(座長千種達夫)は、死者最高 400万円(実質は 300万前後)で、公式に認定されている患者たちの大半を、文字通り「処理」し去った。(599頁)

・発病の頃小学校への往き道をうち忘れ、いぶかしげにたたずんだままの少年が、そっくりそのまま居残っていた。もう二十八になっていた。
はじめてチッソに上ってきて、ふいにとり囲まれ、足ばらいやら、ゲンコツを「噛ませられた」とき、この、いつもは膝を抱いてうずくまっているばかりの、おだやかきわまる青年は、不思議そうなまなざしになり、幾日も考えていた。それから「ながくひっぱるような、舌のまつわるような声音」でゆっくりいったものである。
「たまがったなあ-もう。」たしかに衝撃を彼は受けた。(680頁)

・筆者の部落の目前の水俣川河口の海岸はチッソの称する「循環方式」とやらで、直接この海岸に投げ込まれ埋めこまれつづけたドブ、すなわち有機水銀その他の数々の劇毒物を含む泥状の残渣の埋立によって原形を止めぬ海岸線となり、今日、その乾き上がった残渣の上にはアパートなどが建てられている。熊本大学第二次研究班によってこの残渣のそこここを掘れば有機水銀その他が多量に検出証明されているのであり、チッソの称する「循環方式」の虚偽こそが、あとを絶たない患者の続出と今日の不知火海の死をもたらしているのである。(695頁)

・150名くらいの労働者が守衛室をとりかこみ、アメリカの写真家ユージン・スミス氏をはじめ報道陣を含めた全員に、「かかれ」という指揮者の声のもとに、なぐりかかった。いつも患者たちの身辺にいて、カメラを持ったスミス夫妻とそのカメラに対しては、とくに情容赦ないやり方で、スミス夫人は髪をひきずられ、その悲鳴をきいて夫君がかけよると、労働者たちは足払いをかけ、口に指をつっこんでひきまわし、沖縄戦の取材中に、銃弾を後首すじに受けている氏は、そのために昏倒してしばし意識を失なった。(705頁)

・事件発生以来 20年、この時点でさえ、公式認定患者 300名を越え、公式死者 50名、それまで実質の死者はゆうにその3倍はいた。水俣湾の対岸天草島にさえ、認定患者が見つけ出されはじめ、不知火海沿岸住民には万を越える患者が潜在するのは公然の事態となっているのである。(714頁)

・1973/3/20、熊本地裁において水俣病裁判の判決が出た。30世帯、178名の原告が訴訟を提起して 4年目、水俣病公式発見以来 17年目、熊本地裁は被告チッソの企業責任を明確に認めた。昭和7年以来の廃液無処理放出について過失あり、予見の対象を有機水銀の生成に限定する被告の過失論は、「人体実験」の論理にほかなく、被告は不法行為の加害者として賠償義務を誠実に履行することを要する、とあった。(723頁)
「判決は下りた。満額とれた・・・。殺されたふた親のいのちは 1800万円。
ああ、世間じゃ、高か銭もろうたよ、もうけたよと、いうに違いなか。ああもう、どのようにして死にましたいのちですか。何年かかっていのちの切れたか。ああ、いのちの切れてから何年たったか。18年ぞ、18年。なんちゅう歳月じゃったか、この歳月は。
私の体はもう、働こうち思うたちゃ、働きゃならんごつなっとります。弟も、かかったときゃまだひどかった。親子三人、わたしが看病して弟は生き残った。
わたしゃ、親が死んでいった姿を思えば、弟が、どげんして死んでいくか、見ろうごつなか。」(746頁)

 

2. 政野淳子「4大公害病」中公新書 2013

(1)水俣病

・年表(4頁)

1932 チッソ、アセトアルデヒド 生産開始
1958 チッソ、排水口を百間港から水俣川河口へ移設
熊大研究班が百間排水口から水銀を検出、「原因物質は水銀化合物」と発表
1959 チッソと患者が「見舞金契約」を結ぶ
(のちに判決で公序良俗に反し無効とされた。)
1965 新潟水俣病発生
1968 チッソが水俣工場でのアセトアルデヒド製造中止
「水俣病の原因はチッソおよび昭和電工の工場排水に含まれるメチル水銀である」
と政府統一見解を発表
1977 水俣湾のヘドロを除去し埋め立てる工事開始

 

・認定患者数 生存者 620人 累計 2275人(熊本県 1784人、鹿児島県 491人)
申請件数 2万3177(7頁)

・「全身にケイレンがあり、手足をばたつかせ、ベッドに取り押さえるのはまるで格闘でした。孫を腕で抱こうとし、歯をむき出して「ウッ、ウワァ」と叫んでいました。」
「狂死。昼夜の区別なく、約 1分間隔で顔をゆがめ、叫び、一方では全身が意思とは逆に激しく動き回っていました。最初に手足のしびれを感じてわずか 52日目のこと・・・。 のたうちまわりながら亡くなりました。」
「夫は部屋の板壁を突き破り、手足を血だらけにして死にました。9日後に娘が生まれましたが 2歳の時に亡くなりました。」 
「母ちゃんに会いたくて市立病院行ったら、父が3日間帰って来ん理由がわかったです。一番奥の戸口の狭い分厚い壁の病室に母は入れられていました。声にならない声でキーキー叫ぶ人、ベッドに括られている人、痙攣してピョンピョン跳ねる人を見た時、私の体は石のようにカチーンと固まってしまって・・・。母は言葉が出なくなり泣くだけで、うれしいのか悲しいのか、わからない様子で、ここで死ななければならないのかと思いましたが、まだ軽い方でした。多くの人は・・・たった一人で狂い死んでいきました。」(15頁)

・厚生省に汚染源として名指しされてから 2ヶ月が経った 1958年9月、チッソは工場の排水口を外部の者には知らせずに、水俣湾に注ぐ百間排水口から、湾の外に向かって流れ出る水俣川河口に変更した。河口左岸の「八幡プール」と呼ばれる場所に、アセトアルデヒド製造後の廃液を捨てると、カーバイド残渣が残り、排水が川へと染み出る仕組みである。結果的に、染み出た水に含まれている汚染物が、河の流れとともに不知火海全体へと拡がった。(20頁)

・原因物質の特定に至ったきっかけは、英国人医師D・ハンタ-とD・ラッセルが1940年に書いた論文だった。その論文には種子殺菌剤の工場で 16人の従業員が種子殺菌剤に使われていたメチル水銀化合物を呼吸器から吸った結果、4人が運動失調、言語障害、視野狭窄の三つの症状を呈したと記されている。その 4人の症状が水俣病と酷似していた。 そのことを指摘したのは熊大を訪れていた英国人医師マッカルパインである。同氏は 15人の水俣病患者を見て、有機水銀中毒に極めて類似しているという研究結果を 1958年9月に「ランセット」誌に発表する。
同時期に、水俣を訪れた米国国立衛生研究所の疫学部長レオナルド・カーランドは、水俣から魚介類や泥土等の試料を持ち帰って分析し、水銀を検出する。熊大研究班が水銀に的を絞った研究をはじめたのはそれからだった。(22頁)

・1973年 熊本地裁はチッソに対し患者への損害賠償を命じる判決を出した。賠償額は、死亡した患者に 1800万円、重症患者に 1700万円、比較的症状の軽い患者に 1600万円とされた。

・国は、1974年1月に汚染魚を水俣湾内に封じ込める仕切り網を設置し、魚介類の買い上げを行う決定をした。
1977年になり熊本県は、総水銀 25ppm以上を含むヘドロを処理する事業を始めた。水俣湾奥部の約 58万平方メートルを鋼矢板で仕切り、水銀を含む約 78万立方メートルのヘドロを浚渫して埋め立てで封じ込めるものである。1987年に浚渫は完了し、仕切り網を撤去し、安全宣言をして漁業が再開されたのは 97年だった。(61頁)

 

(2)新潟水俣病

・年表(63頁)

1936 (のちの)昭和電工の鹿瀬工場でアセトアルデヒドを生産開始
1956 熊本県の水俣病公式確認
1965 鹿瀬工場でのアセトアルデヒド製造を中止
県と新潟大学が水俣病発症を発表
1968 「水俣病の原因はチッソおよび昭和電工の工場排水に含まれるメチル水銀である」
と政府統一見解を発表
1971 第一次訴訟新潟地裁判決、確定

 

・認定患者数 生存人 86人 累計 702人 申請件数 2422(67頁)

・鹿瀬工場は阿賀野川河口(新潟市)から約60キロメートルの中流にあった。
鹿瀬工場は、すでに1946年その排水が川を赤濁させている。以後、白濁を含めて、年に数回、濁りがあると魚が獲れなくなり、流域の漁民がそれを「昭電の毒水」と呼ぶようになっていた。(68頁)

・新潟大学が患者の存在に気づいたのは、医学部が熊本の水俣病について講義をしていたときに、学生が、大学病院に病状の似た患者がいると発言した時だった。1965年4月から新設される神経内科に赴任予定だった椿忠雄東大医学部助教授が挨拶に訪れた際、椿はこの患者を診察、水銀中毒を疑い、毛髪の水銀測定を依頼し帰京したが、その結果が 390ppmという高濃度だった。
さらに同病院では、同年3月に入院同月死亡、3月に入院し6月に死亡、4月に入院し6月に死亡と、水俣病が疑われる死亡患者が続いた。(70頁)

・県衛生部の職員は、1966/5/17、鹿瀬工場の排水口に潜り込んで水苔を採集してメチル水銀を検出した。これが決定的証拠となった。(88頁)

・1971/9/29 新潟地裁は判決を下し、昭和電工の責任を認めたが、補償額は、要求額の約半分だった。
被害者と昭和電工は、1973/6に補償協定を結んだ。被害者は、訴訟を起こさなくとも、被害者一人につき慰謝料 1500万円と物価に応じて額がスライドする終身手当として年額 142万8100円および医療に要する費用とされた。

 

(3)イタイイタイ病

・年表(116頁)

1874 三井組(のちの三井金属鉱山)、神岡鉱山(のちの神岡鉱業所)経営開始
1955 富山新聞がはじめて「いたいいたい」病について報道
1967 日本公衆衛生協会が厚生省委託研究班を設置
「カドミウム・鉛・亜鉛は、自然界に由来する微量分以外は神岡鉱業所とその関連施設から由来」と報告
1971 イ病新潟地裁判決、原告勝訴
1972 同控訴審判決、勝訴

 

・イタイイタイ病が発生したのは、神通川の傾斜が緩んだ最初の 10キロメートル程度の扇状地である。その災禍をもたらしたのは、30キロメートルも上流の神通川支流・高原川沿いにある三井金属鉱業神岡鉱業所の鉛と亜鉛の鉱山とその精練工場だった。
カドミウムはそれ自体が貴重な金属である。ただし、神岡鉱山の場合は、それが目的ではなく、亜鉛と鉛を採掘した結果、含有していたものである。(118頁)

・認定患者数 4人 累計 196人 申請件数 254人(121頁)

・人体への被害に気づいたのは戦後復員した萩野登医師である。萩野は神通川やその用水路に囲まれた婦中町に曾祖父が創設した萩野病院を1946年に亡き父から継いだ。(122頁)

・被害者の証言「母は、昭和30年死亡。昭和20年ごろから手足がしびれ、大腿部、腰部に痛みが生じた。24年頃からは歩き方がアヒルのように身体を横に振った歩き方になり、27年頃には急に悪化、這うことしかできなくなってしまった。28年からは床についたまま、食事、用便等全て人の助けを借りていた。火葬時、骨は正常人の三分の一、それも麩のように軽い骨であった。」(124頁)

・1955年、医師会に出入りしていた富山新聞の記者が「婦中町熊野地区の奇病<いたいいたい病>にメス」という記事を書いた。萩野が、中年を過ぎた女性が全身何十カ所となく骨折し、痛い痛いと泣き叫びながら死んでいく患者が多数いる、と話したことに興味を示し、往診に同行して書いたものである。
「ふとんの重さでも胸や足の骨が折れてしまうので、こたつのやぐらの下の足わくをはずし、その上にふとんをかけてある。」(128頁)

・萩野が原因は神通川にある、と直感したのは、1957年に患者が発生した場所を地図の上に落とした時だ。患者がいたのは神通川をまん中に、東は 神通川に注ぐ支流・熊野川、西は、支流・井田川に挟まれた地域だけだったからだ。東側の用水と、西側の用水の、どちらも神通川の水を取り入れ、それを田んぼの灌漑や生活用水の両方に使っていた。当時は川の水をそのまま家に引き入れて飲み水や煮炊きに使っていたのだ。(131頁)

・婦中町地区協議会は農業被害の原因究明を農水害問題の専門家である吉岡金市同朋大学教授に依頼した。吉岡は、萩野の協力を得て、1961年に調査結果を発表した。調査地域が鉛、亜鉛、カドミウムで高濃度に汚染されていること、そして患者の毛髪、血液、臓器のなかに鉛、亜鉛、カドミウムがあることを確認し、イタイイタイ病の原因は重金属、特にカドミウムによる中毒症であると結論付けた。(132頁)

・吉岡の研究には、カドミウム検出分析を行った協力者がいる、小林純岡山大学教授だった。小林は1960年に3ヶ月、米国テネシー大学でカドミウムの分析技術と毒性を学んできた。そして、イタイイタイ病で死亡した患者の骨、腎臓 肝臓からカドミウムを検出した。(136頁)

・1968年、富山地裁に提訴した。鉱業法109条に依拠し、三井金属工業が鉱物の採掘のため排水などによって下流で健康被害が起きた事実があれば、故意過失にかかわらず賠償義務がある無過失責任であると主張した。請求額は、一律に生存患者に 400万円、死亡患者に 500万円とした。(148頁)

・提訴の2ヶ月後、厚生省は、次のような厚生省見解を発表した。「イタイイタイ病の本体は、カドミウムの慢性中毒によりまず腎臓障害を生じ、次いで骨軟化症をきたし、これに妊娠、授乳、内分泌の変調、老化および栄養としてのカルシウム等の不足などが誘因となってイタイイタイ病という疾患を形成したものである。」(149頁)

・1971年原告の全面勝訴の判決が出た。被告が控訴するに際し、原告側は請求額をそれぞれ 500万円と 1000万円に増額した。控訴審でも全面勝利だった。

 

(4)四日市公害

・年表(172頁)

1955 海軍燃料廠跡地が三菱油化を中心とする石油コンビナートに払い下げられた
1959 第一コンビナートが稼働開始
1960 東京築地市場で、「伊勢湾の魚は油臭いので厳重な検査が必要」と通告
1962 磯津漁民一揆
吉田克己教授が県医学会で亜硫酸ガスと発作との関係を発表
第二コンビナート稼働開始
1964 公害患者が肺気腫で死亡(公害犠牲者第1号)
1966 公害患者 2名が自殺
1967 全国初の大気汚染訴訟 四日市公害訴訟提起

・四日市公害を引き起こしたのは、伊勢湾西岸に集中的に立地された石油コンビナートの煙突である。石油精製、火力発電、石油化学工業に従事する工場から吐き出された煤煙で大気が汚染され、ぜんそくをはじめとする健康被害が広まった。
煤煙の正体は、気管支を冒す「亜硫酸ガス」とそれが大気中の水分に溶けて酸化した霧状の硫酸、いわゆる「硫酸ミスト」である。(173頁)

・認定患者 生存人数  421人 累計 2219人(175頁)

・四日市コンビナートが公害で全国に知られるようになったのは、海の汚染が先だった。
「紡績、ガラス、一般化学工業の排水はたしかに汚れている。しかし、着臭という点では異常はない。一方、石油精製業および関連石油化学工場の排水では、1週間でかなりの着臭がある。しかも魚体への付着でなく、体内に汚染成分が吸収移行したものだ。」
1965年5月に三重県水産課が公表した工場汚水による伊勢湾の「臭い」魚分布図をみると、四日市を中心に沿岸 4キロは 100%、そこからさらに 4キロ沖で 70%も臭い魚が分布している。幅 16キロほどしかない伊勢湾の大半が汚染されていたことになる。(183頁)

・吉田克己三重県立大学教授は、国民健康保険の請求カルテに目を付けた。四日市市が市内 11か所に据え付けた測定器でばいじんと亜硫酸ガスを測定する一方で、吉田は、約 3万人分の請求支払明細書(レセプト)を使って、どのような疾病が起きているかを調査した。
もっとも汚染の激しい磯津では、初期に気管支炎が多発し、その後 2~3年遅れて、ぜんそく性気管支炎、慢性気管支炎が増えたことなどが明らかになった。(187頁)

・1964年、四日市での公害犠牲者第1号と呼ばれる古川善郎が60才で亡くなった。古川は、石原産業を退職後の1962年頃からぜんそく発作を起こすようになり、64年ぜんそくの症状を悪化させ亡くなった。死後解剖で、末梢気管支領域の慢性炎症と肺気腫が確認された。
1966年には、「死ねば薬もいらず楽になる」と遺書を残して 76才の公害患者が自殺した。
1967年、今度は 60才だった公害患者が「今日も空気が悪そうだ」と言い自殺した。甘納豆屋を営み、空気が悪くなるたびに営業用のクルマで鈴鹿方面へ避難していた。(193頁)

・1967年、塩浜病院に入院していたぜんそく患者 9人が、四日市コンビナートを形成する 6社に対して、各 200万円の慰謝料と就労の損失分 1人最高 1645万円の賠償を求める訴訟を津地裁四日市支部に提起した。
四日市全域に広がっていた公害患者のなかでも、原告を塩浜病院に入院していた磯津住民に絞ったのは、鈴鹿山脈から吹き下ろす北西の風が、塩浜に立地した各社の煙突の上空を通過する際に、亜硫酸ガスと硫酸ミストを運び直撃する位置にあり、被害の立証が比較的しやすい疫学調査の結果がそろっていたからだ。9人のうち 4人が気管支ぜんそく、3人がぜんそく性気管支炎、1人が肺気腫、1人がぜんそく様発作を伴った慢性気管支炎を患って塩浜病院に入院していた。
被告は第一コンビナートに進出していた 18社のうち 6社に絞った。(197頁)

・1972年 判決は原告の全面勝訴であった。
判決から 4ヶ月後、磯津の住民と被告会社との間の交渉で、子ども(65人)は一人 200万円、通院中の大人(20人)は 350~650万円、入院中の大人(3人)は 650万円、死者(8人)は 450~1000万円の補償が行われることで妥結した。(209頁)
判決が出たのは昭和四日市石油が増産施設を動かそうとしていた矢先であった。この脱硫装置は、いままで 3分の1だった脱硫が 3分の2にできる装置だった。昭和四日市石油の石油精製の燃料のみならず、その製油所から燃料補給を受けたすべての工場の亜硫酸ガス濃度は劇的に減っていった。高煙突化とその後の総量規制により、裁判は成果を上げていった。(213頁)

 

3. 宮本憲一「戦後日本公害史論」岩波書店 2014

(沖縄の基地公害)

・基地の人口は、駐留軍人 2万2720人、軍属 1390人、家族 2万4380人。

・復帰後2006年までの米軍の事故は、公務上 4916件、公務外 2万1497件、毎年平均 800件。
航空機事故は2007年12月までに、墜落 42件、不時着 328件。
米軍構成員犯罪は、1972年から2007年までに  5514件、5417人
2001~08年に公務外の米軍構成員犯罪は、3829人、そのうち不起訴になった者が 3184人、実に 83%。凶悪犯罪ですら  29%が不起訴となっている。(584頁)

・航空機騒音被害は 10市町村、約 55万人(県人口の 41%)に及んでいる。嘉手納飛行場周辺では  65~90.5WECPNL。環境基準(70W)を上回る観測点は  15地点中  11地点。普天間飛行場周辺は 62~80.7Wで、9地点中 3地点が環境基準を上回っている。
1982年から3次にわたって「嘉手納爆音訴訟」を行ったが、日本政府に対する損害賠償は認められても、夜間飛行などの差し止めは認められなかった。2002年の普天間爆音訴訟についても同じ。(585頁)

・イタリア軍の基地を使用する在伊米軍にはイタリアの国内法が適用されている。ドイツは1993年の改定によって、米国の国家環境政策法に配慮しつつも、ドイツが許認可権を持つことでドイツ法の適用を確保できるようになった。これに比べ日米地位協定は異常な不平等協定といえる。(587頁)
在日米軍費の 70%、在日米軍1人当たり約 1500万円、沖縄県は年約 500億円(全国約 2000億円)の「思いやり予算」が出ている。

 

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