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イギリスの文学

A. 古代

1. ケルト人

前500年ころからケルト人が侵入し 鉄器をもたらした。ケルト人は、もともと中東欧に広く分布していた。前1世紀にはブリテン島は、ほぼ完全にケルトの世界となった。イギリスではブリテン人と呼ばれ、フランスではガリア人と呼ばれる。今日イギリスの地名に、ケルト語より古い言語の痕跡は残っていない。30ほどの部族国家に分裂していた。

 

2. ローマ帝国の属州

前1世紀にローマ人の侵入を受け、約350年間、ローマの属州ブリタニアとなった。「ハドリアヌスの壁」がローマの海外属州の最北端になっていた。スコットランドがローマの支配下に入ることはなかった。アイルランドにはその支配の手は伸びなかった。

 

3. アングロ・サクソン人の侵入

アングル人、サクソン人、ジュート人などが数次に渉って侵入してきた。西北ドイツ地方を原住地とするゲルマン民族で古代英語を話した。その身体的特長は、長頭、長身、金髪、碧眼であった。リテン人の英雄「アーサー王」伝説はこの頃生まれた。6世紀の末までにアングロ・サクソン人は、ウェールズ地方を除くイングランドの大部分を制圧した。ブリテン人は、西へ西へと圧迫され、一部は海を渡ってアイルランドやフランスのブルターニュ地方に住みつくようになった。6世紀後半から「7王国」が出現するに至った。
829年エグバート(在位802-839)のもとでアングロ・サクソン王国という統一国家が成立した。
その間、6世紀の末、キリスト教の布教が進み、カンタベリに最初の教会が建てられた。7~8世紀には南部にはカンタべりを中心に12の司教区が、北部はヨークを中心に4の司教区が置かれた。教会の制度的整備が王国の統一を側面から促進した。こうしてイングランドは、ローマのカトリック世界に組み入れられた。

 

4. ヴァイキングの襲来

ヨーロッパにおける第二次民族大移動によりスカンディナヴィアを拠点とする北方ゲルマン系ノルマン人の一派、デーン人が襲来した。9世紀後半にはイングランドの東北部はほぼ彼らの手におちた。
エグモンドの孫「アルフレッド大王」(在位871-899)は、デーン人の首長をキリスト教に改宗させるとともに、平和共存の道を選び、イングランドの北東部約半分を彼らの支配領域と認めた。

 

5. デンマーク王国による征服(1016-35)

1016年デンマークの王子カヌートがイングランドを征服した。カヌートは、デンマークばかりでなく、一時はノルウェー王を兼ね、スウェーデンの一部にも領土を広げていた。しかしカヌートの死により王国は崩壊した。

 

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B. 中世の歴史

1. ノルマン人による征服

ノルマン人とはヴァイキングの一派であり、そのうちのデンマーク系が中心となって9世紀ころからライン川の河口付近に住みつき、911年その首領ロロが西フランクの王シャルル一世の家臣となる契約をした。セーヌ川の下流地帯がノルマンディーと呼ばれるようになり、ロロの後継者たちはノルマンディー公と称した。

ロロから6代目のギョ-ムがイングランドを征服し、ウィリアム1世となった (在位1066-87)。

アングロ・サクソンの貴族は、少数の例外を除き一掃された。イングランドの5分の1を王領地として確保し、残りの半分を10人ほどの大貴族に与え、残りを約170人のノルマン人貴族に与えた。上級の聖職者も大陸系の人々にとってかわられた。支配階級がこれほど完全に交代したことは、その後もないことである。

もともとは北方のノルマン人であったが、彼らはすでに生活習慣、言語、法制などの点でフランス化していたので、以後フランス語を話す貴族がアングロ・サクソン語を話すイングランドの人々を支配することとなった。

ウィリアムは、イングランド王になったものの、依然としてノルマンディー公でありフランス王の臣下であって、「ノルマンの征服王」にとってその本拠はあくまでフランスのノルマンディーにあった。

 

2. アンジュ-伯国

1154年、フランスのアンジュ-伯アンリは、ヘンリー2世としてイングランド王に即位した(在位1154ー89)。彼は、イングランド王だけではなく、相続と結婚を通じてフランスの西半分を取得し、ときのフランス王(カペー朝)より広大な領土を有していた。イングランドは、アンジュ-伯の領土の一部に組み込まれた。

イギリス出身の当時の教皇がブリテン島とアイルランド島の両島をローマ教会の統一的支配化におくことを望み、ヘンリーにアイルランドを領有する教書を与えた。これがその後のアイルランドの民族的不幸と窮乏の始まりとなった。

 

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C. 近世

1. シェイクスピア(1564-1616)

(リチャード3世)

・「この俺は、できそこないの未熟児としてこの世に送り出された。となれば、心を決めたぞ。俺は、悪党となってこの世の空しい楽しみを憎んでやる。筋書きはもう出来ている。手始めに、2人の兄 王子エドワードとクレランス公をとことん憎みあうようにしむけるのだ。」

・「伯爵の末娘アンを妻に迎えておこう。あのアンの元の亭主とその父ヘンリー6世は、確かに俺が殺した。が、それがどうした。別の密かな企みがあり、そのためには、あのアンと結婚しておかなければならないのだ。」

・「悪事を働いておいて、まっさきに騒ぎたてる。これが俺のやり方だ。この手でなした恐ろしい罪を他人になすりつけるのだ。俺は聖人に見えるだろう、悪事を演じているそのときに。」

・「王子たちを殺し、次にその姉と結婚する。まるで綱渡りだ。だがここまで血の流れに足を浸した以上、罪が罪を呼ぶのに任せるしかない。涙もろい哀れみ心など目に宿ってはならぬ。」

・「馬をくれ、馬を。くれれば俺の王国をくれてやるぞ。」

 

(アントニーとクレオパトラ)

・アントニーの副官「今の彼ににらまれたら稲妻も身をすくめるだろう。自暴自棄とは恐さのあまり恐さを忘れることだ。そうなると鳩もダチョウに食ってかかる。わが将軍は、脳味噌が減った分だけ心臓が大きくなったらしい。勇気が理性をくいものにし始めると、己が戦う剣までも食い尽くしてしまう。俺もなんとか彼とはおさらばする道を考えねばなるまい。」

 

(ジュリアス・シーザー)

・ブルータス「やはり殺すよりほかないのか。個人としては何一つ彼を殺す理由はない。あるとすれば、ただ、国のためだけ。彼は、王冠を欲しがっている。それであの男の性格がどう変わるか、それが問題だ。」

・「野心家シーザーを知ったときに倒さざるを得なかったのだ。彼の愛には涙、幸運には祝福、勇気には尊敬、しかし野心には死を。ただそれだけだ。」

・アントニーの演説「ほら、ここをあのキャシアスの短剣が刺し貫いたのだ。恨みに燃えたキャシアスの刃が引き裂いた無残な傷口。あのブルータスが刺した一突きの傷。彼があの呪いの刃を引きぬいたとき、シーザーの鮮血が吹き出した。刃を構えたブルータスを見たとき、さすがのシーザーも力尽きた。外套で顔を包むと、そのままあのポンペイ像の台石に崩れ落ちてしまわれたのだ。」

 

(ロメオとジュリエット)

・ジュリエット「私の仇はあなたの名前だけ。モンタギュー以外の名前をもっておられてもあなたはあなた。ロメオ、ほかの名前のひとになってください。 みんながバラと呼んでいるあの花もほかの名で呼ばれてもその甘い香りに変わりはないはず。ロメオ、どうかその名前を捨ててください。その代わりに私のすべてをおとり下さいまし。」

・領主「キャピュレット、モンターギュ、両人とも見るがよい。恐ろしい罰が憎み合うお前たちの上に下されたのだ。天がわざとお前たちの愛しい子を相愛の中に陥れて殺したもうたのだ。いやわたしとても、両家の確執を黙認したばっかりに、2人まで血縁の者を失ってしまった。すべての者が罰せられたのだ。」

 

(ハムレット)

・「生きるのか、死ぬのか、それが問題だ。どちらの方が誇り高い方法か。 運命の酷い仕打ちにひたすら耐え忍ぶのか。それとも苦難の嵐にたちむかい、力まかせにねじふせるのか。死ぬ、そして眠る。・・・それだけのことだ。眠っただけで、胸の痛みも苦しみも、残らず消滅するものなら願ってもない結末だ。 死ぬ、そして眠る。・・・眠れば多分夢を見る。気にかかるのは、その夢だ。人間世界の悩みの渦をふりきっても、永遠の眠りの中でどんな悪夢にうなされるか。それを思うと、つい二の足を踏んでしまう。」

 

(オセロ)

・イアーゴー「 悪魔は人間を誑かすときはまず天使の姿で現れて、殊勝な御託を並べるのだ。この愚直な副官が昔の地位を取戻そうと、デズデモ-ナに泣きつく。女は女でこの男のためにムーアにうるさくせがむ。と、そこで、奥方が副官の復職を頼んでいるのは、己の邪欲のためですぞと、俺があいつの耳に毒を注ぎ込む、というわけだ。そうなると、女が男のためにとりなそうとすればするほど、ムーアに疑惑の目で見られることになる。ざっとこんな具合いに、あの女の美徳を泥だらけにし、その善良さをまんまと利用して、誰も彼もひっとらえて料理してやろうという魂胆さ。」

 

(リア王)

・コーディーリア「私は、親子の絆の命ずるままに父上を愛しています。それ以上でも以下でもありません。お父様、私はお父様に生んで、育てて、可愛がっていただきました。その御恩に報いるにふさわしい子としての義務を果たしたい、素直に従いもし、愛しもし、敬いもしたいと思っています。もし私が結婚し、愛を誓い合う夫を迎えるとしましても、私は愛情の半分しか、心使いにや責任の半分しかその方には捧げられません。お父様をただひたすら愛そうと思えば、姉上様たちがなさったのと同じような結婚は、とても私にはできないと思います。」

・ エドマンド「なぜ、俺は慣習という力に屈服しなければならないのか。たった1年兄貴から遅れて生まれてきたというだけで。俺は、妾腹だ。だからといって、なぜ下司なのだ。俺の体は均整もとれているし、心だって高邁だ。姿だって親父そっくりでないか。俺たちの方が造るのに手がこんでいるのだ。激しい情熱がこめられているのだ。・・・・本妻腹のエドガーよ。俺はお前の領地をいただくことにした。親父にとって、妾腹のエドモンドだろうと、本妻腹のエドガーだろうと可愛いのは同じなんだ。」

 

(マクベス)

・マクべス「もしやるなら、やっただけで片づくなら、いっそ早くやることだ。もし暗殺が行くつくまで行き、非業の最後で王位が確保できるなら、この一撃ですべては終わる。ただ、この類のことは、この世で裁かれる。・・・わしには、所詮、もくろみの横腹をける拍車がない。」

・マクべス夫人「けだものでしたか、あの計画をたてて私にうちあけた方は。そこまでできるあなたは、男らしかった。時も所もそろわないあのとき、自力でやろうとしたあなたが、むこうでそろえてくれたいま、さしだされると尻込みする。私は子供を乳で育て、自分の乳をすう赤子のいとしさをがよくわかります。でも私に微笑みかけているその子の口から乳首をもぎとり、脳髄をたたき出してみせますよ、このたびのあなたほど固く決心したことなら。」

・同「ああ、起きたかしら、やらないうちに。やりかけてやりとげないのは、身の破滅よ。父上そっくりの寝顔でさえなければ、私がやったのに。」

 

2. デフォー(1660-1731)

ロビンソン・クルーソー「いつだか鶏の餌の袋をはたいたことを思い出した。それから小麦の芽が吹き出してきたのだ。それが分かると今までの驚異の念もどこえやらすっとんでいった。要するに当たり前のことだと分かると、同時に神の摂理に対する敬虔な感謝の念も薄らいでいったことを私は白状せざるをえない。」

 

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D. 近代

1-1. ジャン・モリス「ヘブンズ・コマンド(大英帝国の興隆)」2008 講談社

・1837年、ビクトリア女王の戴冠の時点で、最も壮大なのはインドだった。インドでは東インド会社が段階的に権力を獲得し、この時点でインド亜大陸の大半が英国の宗主権下に収められていた。5万人の英国人が9000万人を超すインド人を統治していた。これに続くのが西インド諸島、アメリカ本土側の英領ホンジュラス(現ベリーズ)、英領ギアナだった。
カナダにも植民地はあった。最も歴史の古いニューファンドランド、米国から逃れてきた英国派が多く住みついたノヴァスコチア、英国に征服されたケベックに残るフランス人居住地、オンタリオの英国人、スコットランド人居住地、西部の想像を絶する荒野に点在するハドソン湾会社の出先機関など。
オーストラリアには植民地が四つあり、うち二つは受刑者居住地から発していた。
本国に近いところではアイルランド。7世紀にわたって英国の統治下にあった。
喜望峰は英国のもので、シンガポールも同様。ペナン(マレーシア)とアラカン(ミャンマー)には貿易目的の居住地があり、セイロンはナポレオン戦争後の1815年ウィーン議定書により英国が獲得した。ヨーロッパには、ジブラルタル、イオニア諸島、マルタがあった。(上28頁)

 

・奴隷制そのものは1834年に廃止されていたが 帝国に残る最後の奴隷(大半はアフリカ出身の黒人だった。)が正式に解放されたのは1838年だった。(38頁)

 

・オランダ系、フラマン系、ドイツ系、フランスのユグノー系が混じったアフリカーナーが、オランダ東インド会社の支配のもとで農業を営むために、ケープにはじめて移民してきたのは17世紀のことである。
現地先住のホッテントット族を奴隷にし、カラハリ沙漠の先住民をほぼ絶滅させ、内陸部の勇壮な部族は武力で寄せつけなかった。ヨーロッパとのつながりをほとんど切ってしまい、独自の混血のオランダ語を話し、自分たちだけで充足していた。厳格なキリスト教カルヴァン派の神を崇拝していた。
ボーア人はケープ半島にも住んでいたが、典型的なアフリカーナーである辺境ボーア人は北東にある乾いた高地に住んでいた。(66頁)

 

・東インド会社の役員たちは当初、インドを統治するつもりはなく 金儲けをすることだけが目的で18世紀を通じてこの目的をきわめて巧みに達成していた。しかし、世代が下るにつれて商人としての冒険意識が軍事的征服の意識に変貌した。英国がプレゼンスを示す場も、港から内陸に移り、内陸部の王族やマハラジャより優位に立つことを目指し始めた。(98頁)
1813年に東インド会社のインド貿易独占が廃止され、イングランドの世論が初めて、英国のインド統治に直接影響を及ぼすようになった。会社は英国政府の紐付きになり、総督の任命権は君主に移り、英国議会がインド統治の最終的権限を持つことになった。(100頁)

 

・インドでは、過去半世紀にわたって英国は、北へ着実に勢力圏を拡げてきた。北西のロシアは軍事力が侮れないうえに相変わらず意図が読みにくく、英国に負けない速さでアジアに帝国を拡大していた。大英帝国が最も脆弱なのはインドの左上の隅で、ここがアジアの覇権を争う「グレートゲーム」の場となり、バルカン半島やエジプトの処遇をめぐる「東方問題」とともに、19世紀の大半を通じて争いの火種となる。トルコ、ペルシャ、エジプト、バルト諸国がインドに通ずる道の鍵と思われるときもあったが、古典的なグレートゲームの場はなんといっても山地の王国アフガニスタンであり、英国は他のどこよりも頻繁に、ここに危険な香りを嗅いでいた。アフガニスタンのすぐ北にロシア帝国があった。(126頁)

 

・東インド会社はもはや商業上の機能を失っていた。1833年に阿片だけを除いてインド貿易と中国貿易の独占を放棄させられ、今ではいわば国の外庁のような存在で、君主に代わってインド所領の行政を執り行い、そのついでに10%の保証配当を株主に支払っていた。この会社を運営している取締役会は公的機関である監督局に属し、自前の行政官、自前の海軍と陸軍、自前の士官学校、自前の行政大学を持っていた。(166頁)
1845年のカナダはほぼ無人に近かった。東部では、沿海州三州や五大湖の東岸周辺の、セントローレンス川流域の植民地が賑わっていたが、西部の広大な地域のほとんどでは、先住民部族やイヌイットの村が点在するだけだった。建前上はカナダ全土が英国領だった。フランスとの戦争が終結して以来、住民の大半はフランス人、アメリカの独立戦争を逃れてきた母国党員と、土地を失って移住してきたスコットランド高地人だった。東部の居住地は、個別の植民地五つにまとまっていた。それ以外の全土が、東の五大湖から西のバンクーバー島まで、南の米国との国境から北の北極圏まで、ハドソン湾会社の行動圏だった。ハドソン湾に流れ込む河川流域の土地はすべて、事実上この会社の所有地で、それ以外の場所でもこの会社が交易独占権を握っていた。(167頁)

 

・1846年の時点で帝国の海外領土には、主要な白人移住者地域が5つあった。カナダに住むヨーロッパ人は150万人ほどで、約半数がフランス語を話していた。カリブ海では、12ほどの島に約7万人のヨーロッパ人が住んでいた。オーストラリアでは、5つの流刑囚植民地のそれぞれが共同体に発展し、独自の議会を擁していた。ニュージーランドでは南北両島に誕生してまもない植民地がいくつかあった。そして、南アフリカでは推定2万の英国人が、その倍の人数のアフリカーナーとともに暮らしていた。(194頁)

 

・1847年のアイルランドは大飢饉のさなかであった。飢饉の元凶になった病害(胴枯れ病)はアイルランド中でじゃがいも畑を全滅させ、並はずれて頑健だったはずの住民をわずか数ヶ月で滅亡の寸前まで追い込んだ。
アイルランドの住民は元来、食べ物をもっぱらじゃがいもに頼り、1人当たり日に平均6.3キロという驚くべき大量のじゃがいもを摂取していた。1845年の部分的凶作が1846年には全土に広がり、1848年にも再び全土のじゃがいもが全滅した。(224頁)
畑全体が一夜のうちに枯れはてる。葉が黒変し、茎がぼろぼろになり、収穫近かったじゃがいも畑が数日で腐った葉や茎の塊になってしまう。
大飢饉の死者は100万にも上るとおもわれる。死因の大半は、栄養不良が引き起こす病気だった。1841年のアイルランドの人口は800万人と記録され、それが1851年になったころには死と移民で650万人に減った。
アイルランドは、ヘンリー2世がアイリッシュ海を越えて初めて軍隊を派遣し、肥沃な土地を柵で囲ってアングロノルマンの騎士たちを移住させて以来、700年にわたって英国の領土になっていた。その間、スコットランドやイングランドの出身者が農場を経営して代々住みつき、アングロアイリッシュのプロテスタント信者で構成される支配階級も出現したが、この島は完全に屈服することも、英国化されることもついになく、強烈に異質な場所であり続けた。アイルランドの農民は熱烈且つ素朴なカトリック信者で、いまだに古いゲール語を話し、ケルトの伝説に登場する聖人や王たち、英雄、詩人、宮廷の道化たちを民族の記憶として守っていた。(227頁)

 

・どこにでも出没する小砲艦は帝国の威信を示す格好の手段だったが、そのためには多くの小砲艦を世界のいたるところに配置しておく必要がある。1875年の時点で英国海軍は、北米大陸と西インド諸島の基地に16隻、南米に5隻、南アフリカに9隻、東インドに11隻、太平洋に10隻、オーストラリアに11隻、中国基地に20隻の小砲艦を配置していた。(下215頁)

 

・1875年に、いい話がディズレーリの耳に届いた。金使いの荒い太守が破産に瀕し、外債の利子だけでエジプトの歳入にほぼ匹敵する始末で、太守の手元にある資産といえば運河会社の株くらいしかない。太守は株を処分する気になっており、すでにフランスの2銀行グループが、一つは買い取りに興味を示し、もうひとつは株を抵当にした融資を提示している。ディズレーリは裕福な外相ダービー卿から聞き、ダービー卿は新聞社社主から聞き、社主はある晩餐会でフランス系ユダヤ人銀行家のオッペンハイマーから聞いたという。総領事から、レセップス自身が太守の持ち株取得に1億フランを提示したが、太守は英国政府に売りたがっている、という知らせが届くと、ディズレーリは即座に同意した。
「片付きました」と女王に報告した。「運河は陛下のものです。」

ディズレーリは購入資金をロスチャイルド一族のひとりである友人から調達した。

ロスチャイルド「いつまでに?」
「明日です。」
ロスチャイルド「担保は?」
「英国政府。」
ロスチャイルド「いいでしょう。」(223頁)

 

ディズレーリの株式取得は年とともに伝説と化し、運河それ自体の取得として国民的神話の仲間入りをする。そして、結局これが事実となる。運河会社の株式はそれだけで利回りのいい投資だが、英国は株式の五分の一を保有するところから出発して、やがて運河自体を完全な軍事管理下においてしまう。万国海洋スエズ運河会社が、フランスが圧倒的所有権を持ちながら、経営も全体としてフランス流のまま 大英帝国の庇護、支援下で活動するようになるのに時間はかからなかった。(226頁)

 

・南アフリカは、いまでは英国人植民地が二つ(ケープ植民地とナタール)と、独立ボーア人共和国が二つできていた。その一、オレンジ川を越えたオレンジ共和国は比較的穏健で、英国とは友好関係にあった。その二は、トランスバール共和国(別称、南アフリカ共和国)は、ボーア人が伝統的な生き方を頑固に守りぬくために、奥地に移動して建設した国で、英国に限らずおよそあらゆる人々と敵対的だった。この四つの白人居住地の周辺には、人口比20対1でヨーロッパ人を圧倒的に上回る黒人の諸部族が暮らしていた。(230頁)

 

・ズールー人は相変わらず、アフリカ人の中で最も警戒すべき民族のひとつだった。ズールー人は「鑓を血で洗う」まで一人前の男と認められず、ズールー軍の戦士は、敵をひとり殺すか傷つけるまで妻帯を禁じられていたから、男が戦いを好み、女が殺生を好むようになるのは当然だった。恐ろしげな羽飾りをつけ一糸乱れず速歩で進み、摩擦音と叫びを合わせた鬨の声を上げ、2万人にも及ぶことが多い年代別に組織された大部隊が、黒い大きな塊となって物陰から物陰へ、広大なズールーランドを渡っていく様子は、大英帝国が戦うべき相手とみなした劇的な敵の中でも最も壮観だった。(239頁)

 

・この壮大な機械の歯車に挟まった小さな砂粒のように腹立たしい存在があった。まだ大英帝国への抵抗を諦めないちっぽけな国、トランスバール共和国である。世界最大の金鉱脈を国内に抱えるいまとなっては、トランスバールが独立国であることが、これまでにも増して歴史に逆らう生意気なことに思えた。トランスバールは、東にポルトガル領土モザンピークと国境を接し、いまは鉄道がヨハネスブルグと、デラゴア湾のポルトガルの港を連結していて、英国領土を全く通らずに産物が送りだせるのは事実だった。しかし、北、南、西で英国領土に接し、英国資本が共和国の産業に出資し、英国の専門技術が金を抽出し、ビクトリア女王が曖昧なかたちではあっても宗主権を握っている以上、共和国が最終的に消滅するのは避けられないように見えた。時は19世紀最後の10年。アナクロニズムに浸る暇はなかった。(396頁)

 

1-2. 同「帝国の落日」2010 講談社

・1902年5月、ボーア人はついに降伏。この時点ではまだ 2万のコマンド隊が残っていたが、双方ともに疲れ果てた。英国兵は暑熱と疾病に苦しめられ、戦死者 2万2000の 3分の2がコレラと腸チフスの犠牲者であった。ボーア人のゲリラたちも戦争が終わったときは半ば飢え、家もなく、悲惨な収容所生活によって家族の多くを失っていた。戦闘期間を通じてボーア人の死者は 2万4000名にのぼったが、そのうち実に 2万名が婦女子だった。クリスマスには勝利を手中にしていると確信して船出した英国派遣軍は 8万5000名だったが、戦争終結時には 45万名に膨れ上がっていた。これは、海外に派遣された英国陸軍部隊の中で史上最大規模だった。(上97頁)
ボーア戦争は最初のプロパガンダ戦争だった。「暗黒の1週間」に英国軍が痛恨の 3連敗を経験した時は、全世界の半分が英国の不面目を笑い、喝采した。(119頁 )
1902年5月、英国の言うままの和平条約が締結された。和平条約は特に英国民から寛大すぎると評価された。確かに、国を荒廃させられたボーア人に十分な補償が行われ、四つのヨーロッパ系植民地が形成するアフリカ連合の枠内で最終的に、法律上、言語上の完全平等が実現されることになった。しかし、表面上寛大だったが、英国が真に望んだのは英国支配による安定した南アフリカを実現すること、ランドの金を永久に英国のものとすること、この地の黒人に対してある程度のフェアプレイを確保することだった。(123頁)

 

・1914年8月、国王・皇帝陛下が発したただひとつの布告によって、4億5000万の臣民すべてがひとつにまとめられ、 大英帝国はドイツとその同盟国に対して戦争状態に入った。帝国の反応には英国人自身さえ驚かされた。
オーストラリアの首相は、「われわれがなにをなすべきかは明白だ。われわれはブリトン人であることを忘れず、気を引き締めて試練に立ち向かわなければならない」と語った。ニュージーランドは10日のうちに 8000名からなる派遣軍を送りだした。カナダでは2ヶ月のうちに 3万1000名のカナダ人を動員し、訓練してヨーロッパに送りだした。南アフリカは兵士をヨーロッパに送っただけでなく、南西アフリカの植民地からドイツ人を追い出す役目を買って出た。(231頁)

 

・理論はどうあれ実際面では、したたかな大英帝国は講和条件につけこんで勢力を拡大すると同時に、自らの安全を保障した。戦勝国は米国の発想に基づいて委任統治制度を考案し、希望の星になった国際連盟が自由主義的列強に、旧ドイツ植民地の信託統治を委ねることにしたのであるが、蓋を開けてみると当の列強の大半は、大戦中に委任統治の対象となる地域を侵略していた。
委任統治は大英帝国にとって役に立つ概念だった。理論上は国際連盟が、該当地域に対する監督権を保持することになっていたが、英国は事実上 委ねられた地域を帝国の一部として支配し、その他の直轄植民地と同様に管理運営した。
こうして、帝国主義者の戦争目的の大半は達成された。およそ 260万平方キロの地域と、そこに住む 1300万の新臣民が大英帝国に追加された。
太平洋では、旧ドイツ植民地の大半がオーストラリアとニュージランドに統治を委託された。
アフリカでは、大英帝国が南西アフリカを統治下に収めて、すでに帝国の一部だった南アフリカを満足のいく完全体に仕上げただけでなく、タンガニーカ(現タンザニア領)をも手中にして、ケープとカイロをすべて帝国領の回廊で結ぶという夢をついに実現した。
中東では、イラク、トランスヨルダン、パレスチナが英国の委任統治領になり、ペルシャは事実上、英国の保護領だったから、英国の管理下にある地域のつながりでインドとエジプト、地中海が結ばれた。(306頁)

 

・講和条約にはグレートブリテンだけでなく、カナダ、オーストラリア、南アフリカ、ニュージーランドおよびインドも調印した。1920年に第一回国際連盟総会が開かれたときも、全自治領が代表を送り、大英帝国は 6票を有することになった。米国はすでに連盟から手を引いていたし、ドイツと革命後間もないソ連は参加が認められなかった。
しかし、これは帝国の団結宣言というよりは、自治領の独立宣言というべきであった。(311頁)

 

・大英帝国最盛期の英国海軍は、結託して敵対する可能性のある二国の海軍力に匹敵する力を持たなければならない、というのが政策の柱だった。
1922年にワシントンDCで、海軍力の新比率を決める国際条約が締結された。グレートブリテン、米国、日本の海軍力の比を五対五対三(フランスとイタリアは1.75)と定めた。同条約によれば、米国と日本の意見を尊重して今後、香港を基地として開発せず、同じく両国の主張により、やがて威海衛から完全撤退することになる。
この条約が締結された結果、英国は艦艇 657隻(総計158万排水トン)を廃船した。これには戦艦と巡洋戦艦 26隻が含まれていた。
英国の一般国民は反対しなかったし、自治領の代表でさえ、躊躇なく条約に調印した。結果的に見て、ワシントン条約はうまく機能した唯一の国際軍縮協定だった。列強は条約を守り、常軌を逸した海軍軍拡競争に 10年の休止期間が与えられた。(320頁)

 

・北アイルランドのアルスター義勇軍は世界大戦が勃発すると、ほとんど全員が志願し、事実上そっくりそのままアルスター師団としてフランス戦線に送られた。終戦後、アルスターは忠誠心への報償というべきか、頑固な不従順さへの報復というべきか、アイルランド独立の枠組みからはずされ、連合王国内の自治州となった。
アイルランド自体も大混乱に陥った。反乱と内戦、非難合戦と報復が渦巻く中から1922年に誕生したのが、アイルランド自由国である。国王の臣下として大英帝国内に留まり、北部のプロテスタント6州を失ってはいたが、少なくとも独自の政府と独自の議会をもつ自治国であった。(366頁)

 

・1920年代のアラブ世界では、具体的な政治形態こそさまざまながらエジプト、パレスチナ、トランスヨルダン、イラク、ペルシャ湾西岸のかなりの部分、アラビア半島南岸の大半、および海港アデンが大英帝国のものになっていた。(368頁)
講和会議最終評議会が中東の処遇について最終合意に達したとき、ハーシム家の代表はどこにもいなかった。
合意内容は次の通りであった。
アラビア半島については、フサイン王のヒジャーズ統治権を認めることを含めて、現状維持とする。
フランスは、十字軍時代から伝統的にフランスの活動圏だったシリアとレバノンを委任統治領とする。
シオニストは「民族の故郷」を手に入れる。
残りは英国のもので、パレスチナ(トランスヨルダンを含む)とイラクに委任統治政府を置く。大英帝国の領地がまたひとつ増えた。(384頁)

1920年代半ばになるころには、英国は中東において圧倒的力を誇り、理論的にはどうあれ事実上、アラブ世界を絶対的支配下に置いていた。インドへの道はこれまでにないほど安泰で、イラクとペルシャ湾岸の油井からアバダンの製油所まで、すべてが英国の手中に確保された。(397頁)
20~30年はうまくいった。20世紀半ばの数十年間、英国が列強の仲間でいられたのは、中東における地位が他のどの領域における宗主権よりも大きく物をいったからである。
中東における英国の地位を支えるイラクとトランスヨルダンは、「国家のようなもの」に過ぎなかった。国王は傀儡。外交活動は彼らの自尊心を傷つけないための飴。貿易、通商、産業は帝国のニーズに応える補助的なもので、軍隊は英国人によって訓練され、装備され、指揮官も英国人であることが多かった。族長や王族との同盟に依存し、まさしく中東の保守反動の盟友だった。進歩派が遅かれ早かれ英国の存在に反発するのは当然で、彼らの反感により一層くっきりと焦点を結ばせたのが、パレスチナ問題だった。(397頁)

 

・インドにおける塩の専売制は昔から、英国統治にとって重要な収入源だった。専売制はインドの人々すべての日常生活に影響すると同時に、塩の小売価格の半分は税金だった。
ガンディーが考えたのは、公衆の面前でわが手で浅瀬の海水から塩の塊を拾い上げることだった。1930/3/12、ガンディーは400キロ離れたインド洋まで塩の行進に出発した。ガンディーは24日間に及ぶ行進を意気揚々とした巡礼行に変えて見せた。出発するときの支持者 78名は、途中参加する人で数千名に膨れ上がった。
ガンディーは、専売法違反で逮捕され、収監された。(433頁)
1935年、「インド統治法」が成立した。ムスリムとヒンドウーをインド連邦として一体化するだけでなく、大英帝国が何百もある藩王国のそれぞれと条約を結ぶことによって、これらも連邦の中に取り込むのが目的だった。確かに手が込んでいたが、インドの自治に向かう真の一歩だったことも事実である。連邦政府は相変わらず基本的に英国のそれだったが、地方政府には自治権があり、選挙が実施され、地方政府が成立し、初めてインドにそれなりの民主主義が導入された。
1935年の時点で英国人のインド文官は500人前後しか残っておらず、本国で新人を募集するのは年々困難になっていた。(446頁)

 

・1934年現在、英国が保有する軍用機 1008機中、580機は本国で、175機は海軍と共に洋上にあり、96機がインド、60機がエジプト、51機がイラク、28機がシンガポール、12機がアデン、6機がマルタ島だった。シンガポールでは帝国の東南両面の防衛拠点として新しい海軍基地の建設が始まった。(下35頁)

 

・人種問題については、英国はときおり思い出したように文明人すべての権利平等を尊重する態度を示したが、オーストラリアとニュージランドはアジア人排斥に力を入れ、カナダは世紀の初めからアジア系移民を一切受け入れなかった。南アフリカは圧倒的多数の黒人に権利のかけらも与えない方針を貫いた。(59頁)

 

・1930年、本国政府と自治領政府首相の会議において現実に即した英国の新しい政治構想、コモンウェルス・オブ・ネイションズが正式に認められた。ウェストミンスター憲章である。その理念はアーサー・バルフォアがうちたてたものとされ、とかく詭弁に満ちている。憲章は英国本国と白人自治領からなる英連邦を、「王冠に対する共通の忠誠によって結ばれ、帝国内で相互に従属関係のない平等な地位にあって、内政外交の自主権を持つ国の自律的共同体」であるとした。
これよりのち、各自治領で王冠と帝国主義の権威を代表する副王(総督)は英国政府が派遣するのではなく自治領が選任して、国王とは接触があっても、ロンドンの英国政府とは縁もゆかりもないことになった。自治領の議会は英国政府と真っ向から対立する法案を通すことができる。枢密院司法委員会を頂点とする壮麗な法体系もいまや骨抜きである。自治領は望みとあらば意のままに英国の法体系から離脱することができる。(65頁)
はたせるかな、2年を待たずにアイルランド自由国は憲章を楯に王冠への忠誠を拒否し、それから4年足らずのち、カトリック・アイルランドは「主権を有する独立民主国家」を宣言し、ほどなく共和国となって英連邦から脱退した。(67頁)

 

・英国は20世紀初頭にナイルの治水に着手した。1920年代に入ると、約640キロにも及ぶ水路が開鑿され、新たに多くの堰が設けられたうえ、灌漑すべき広大な地域が開拓された。
なんといっても最大の仕事はアスワン・ダムの工事である。上流はワディ・ハルファまで続く大湖水で、この水源を管理する技術者は乾季にもダムの放水でエジプト全土を潤すことができる。下流には 8つの小規模なダムがあって灌漑用水に流れを振り分けるから、アスワン・ダムの管理者はエジプトの生殺与奪の権を握っている。
上流のスーダンはさほど川に頼っていなかったが、英国人を中心とするスーダンの水文学者たちはハルトウームの上手で青ナイルと白ナイルに挟まれたゲジラ平原を灌漑すればこの地域は生まれ変わると判断した。120万ヘクタールの土地を耕作可能にするセンナール・ダムの建造には3年を要した。
かくて探検家スピークが水源を発見してから1世紀足らず、ウルズリー卿がカイロにユニオンジャックを掲揚してから半世紀に満たぬのち、英国は白ナイルを完全に支配した。(88頁)

 

・1939年の大英帝国は、1914年よりはるかに拡散していた。そこへ国王が、ただ一枚の声明書ですべての臣民を代表して宣戦を布告した。この時点で国王は複数の領地の王を兼ねており、個別の自治領間に正式の同盟協定がないうえに、そもそも参戦する憲法上の義務もなかった。
事実、アイルランドは最後まで参戦せず、戦争期間を通じて、国王ジョージ六世の名のもとに信任状を与えられた大使をドイツに派遣していた。オーストラリアとニュージーランドは直ちに宣戦を布告し、訓練を受けた兵士のほぼすべてを地球の反対側に送りだした。南アフリカはどちらにつくべきかについて議会で激論を戦わせた挙句、ようやく態度を決めた。一方、カナダは、ドイツに対してはグレートブリテンに続いて、日本に対してはグレートブリテンに先だって宣戦布告したが、ブルガリアに対しては最後まで宣戦布告しなかった。
インドの4億の人々は、副王の言葉一つで参戦という運命が決まった。スコットランド出身の貴族である副王は、この件についてインド人に一言の相談もしていなかった。(213頁)

 

・1936年以降のエジプトは名目上の独立国で、大戦中、公式には中立国となっていたが、いまやカイロは全市を挙げて英国の軍事基地化していた。英国陸軍は相変わらず、市内のナイル河畔に建つ古く陰気な兵舎に腰を据え、英国軍中東コマンドは英国大使館からほど近く、何かと便利なガーデンシティに司令部をおいていた。開戦後の数年、近東各地での作戦はカイロからの指示に従って展開された。北アフリカ作戦、ギリシャ・クレタ島の戦い、英領ソマリーランドの奪回、エチオピア攻略、シリア侵攻、イラク再占領、南ペルシャ占領、ユーゴスラヴィアにおけるゲリラ戦 ・・すべてはガーデンシティから指揮された。
インドと東アフリカに向かう航空機はここを経由した。英国海軍地中海司令部は、車で数時間先のアレキサンドリアにあった。(220頁)

 

・労働党新政権のアトリー首相は、1946年の時点で一刻も早く無条件でインドに権限を委譲すべきものと考えていた。初代の女王・女帝の曾孫、ジョージ六世のまたいとこに当たるマウントバッテン卿を最後の副王に指名した。
卿はその場その場で迅速に決定が下せるように、全権付与を要求し、英国のインド統治は遅くとも1948年6月中に終了することとした。(291頁)
実際にインドの運命を決めるのは四人だった。副王自身と、ガンディー、ネルー、ムハンダド・アリー・ジンナーである。
直ちに自治領を二つつくり、時を移さず独立させる。いかなる暫定政府も置かず、権限を徐々に委譲することもしない。イスラム教徒とヒンドウー教徒がほぼ半々に住むパンジャブとベンガルは二等分する。(584あった)藩王国には二つの自治領のいずれかを選ばせる。インド陸軍、中央政府の金銭債務、鉄道網からニューデリー政府の在庫文具、総司令部の公用車まで、すべて分割する。
卿は、英国は 1947/8/15までに、完全かつ不可逆的にインドから撤退し、この日を以て宗主権を放棄する、と発表した。
インドに250年間暮らした英国人が自らに与えた撤退期間は、わずか73日だった。
ロンドンでは、「インド独立法案」が、何段階もの議会手続を猛スピードで通過して、わずか1週間で成立した。(301頁)
インドは無政府状態に陥った。1100万人の人々が故郷を捨て、宗教の違いに応じて引かれた新しい国境線の正しい側に身を置くべく、群れをなして右往左往した。インド人の社会的混乱による死者は約20万人に上った。(306頁)

 

・エルサレムの委任統治は 30年間でしかなかったが、その間に英国は持ち前のバランス感覚で、過去数世紀とは比較にならない黄金のエルサレムを実現した。城郭都市の洞穴のようなバザールや、ごみごみとして入り組んだ路地は中世の面影を残したまま、イスラム教徒はハラム・エシュ・シェリフの聖堂で祈り、黒い帽子のユダヤ人は歎きの壁の石の隙間に願い事を書いた紙を押しこんだ。カトリック教徒、ギリシャ正教徒、キリスト単性論者たちは堅苦しい祭服姿で鐘を叩き、香炉を携えて、聖墳墓教会の祠堂を経巡った。(341頁)
国連は、1947/11、パレスチナにアラブ・ユダヤ国家の創設を採択した。アラブはこれを拒否し、ユダヤは受諾したが、ここに至って英国はパレスチナにかかわる一切の責任を拒絶した。(344頁)

 

・反帝国主義陣営の急先鋒、エジプトのナセルに対してイーデンはすさまじいまでの憎悪を滾らせた。1952年にナセルの率いる自由将校団によるクーデターでファルーク国王が失脚し、エジプトは共和制に移行して、英国はスエズ運河基地を手放さざるを得なくなった。エジプトを先頭に、モスルからオマーンまで、アラブの意識はこぞって反英に傾いた。1956年ナセルは、国際スエズ運河会社を国有化し、今からはエジプト人の手でスエズ運河を維持し、通行料収益は国庫に入れると宣言した。
英国海軍は戦艦と上陸用舟艇をマルタに集結し、空軍のジェット爆撃機はキプロスに待機した。イスラエル軍が運河の東岸を占領し、英仏軍は西岸を指して下ったが、いくばくもなく英国軍の士気は衰えた。もはや帝国の名をかざしてふるまうことのできない厳しい現実を思い知らされた。古くからの友好国を含めて、世界中が敵に廻っている。侵攻軍は撤退した。イーデンは心身ともに疲れ果てて病に倒れ、マクミランに後を託して公の場から退いた。(361頁)

 

1. ブロンテ姉妹

父は、アイルランド人でヨークシャ-の片田舎の英国国教会の牧師をしていた。母は、1821年、1男5女を残して病死した。24年、長女と次女が病死した。

47年、シャーロットが「ジェイン・エア」、エミリーが「嵐が丘」、アンが「アグネス・グレイ」を発表した。

アンは29才で死に、エミリーは30才で、シャーロットは37才で死んだ。父は、40年間同地で牧師を勤め、84歳で死んだ。

エミリー・ブロンテ(1818-1848)「嵐が丘」

・キャサリン(エドガーと結婚することにして)「あの意地悪な兄がヒースクリフをあんなに格下げしなければ、エドガーとの結婚なんて考えもするもんですか。でも、今、ヒースクリフと結婚したら、私、落ちぶれることになるでしょ。だからあの子にはどんなに愛しているか打ち明けずにおくの。どうして愛しているかというと、ハンサムだからじゃなくてね、あの子が私以上に私だからよ。ヒースクリフと私の魂は同じもの。エドガーの魂とは炎と氷ほどかけ離れているの。」
・「ヒースクリフはこれからも今までと同じように大切な人。エドガーもあの子への反感をとっぱらって、せめて大目に見てくれなきゃね。私が心の底ではあの子をどう思っているかを知れば、きっと受け入れてくれる。ヒースクリフと結婚したら、ふたりして物乞いになるしかないのよ。でもエドガーと結婚すれば、ヒースクリフの後ろ盾になってあげられるし、兄さんの言うなりにさせずにすむ。」

 

2. ディケンズ

(大いなる遺産)

・ジョー「世の中ってのは言ってみりゃ、いろんなばらばらなものが、くっつきあってできているものさ。鍛冶屋になるのもいるし、細工師になるのもいる。今日俺に何か落ち度があったんなら、そいつぁー俺が悪い。お前と俺はロンドンでは一緒にしっくりいかねーんだ。もうこれからこんな格好をしてお前に会いたかあねえよ。鍛冶屋の仕事着を着て、槌を持ってりゃ、今日の半分もみっともねえところを見せないですんだ。お前が俺に会いたくなったとしての話しだが、仕事場にやってきて窓からのぞきこんで、鍛冶屋のジョーが昔のままの焼け焦げだらけの前掛けをして、昔のままの、鉄床に向って、昔のままの仕事をしているのをみてくれりゃ、今日の半分もみっともねえところを見せずにすんだんだ。じゃーお別れだ。ピップ、元気でな。」

・マグウィッツ「そうとも、ピップ、わしのしたことだったんだ。あのときわしは心に誓ったんだ。わしが1ギニ-でも金をもうけたら、その金はきっとお前にやるんだとな。その後でも、わしが投機で金持ちになったら、おまえもきっと金持ちにしてやるって心に誓ったんだ。わしが必死に働いたは、お前に楽な暮らしをさせようと思ってだ。 わしがこんなことをいうのは、おまえが助けてやった、追われるやくざ犬が、立派に一人立ちをして、一人の紳士を作りあげたことを知って貰いたかったからだ。その紳士とは、ピップ、お前なんだ。」

 

(ディヴィッド・コッパ-フィールド)

・ペゴディおじさん「おれは、遠く、広く、あれ(ちびのエミリー)を探しに行くからな。おれのいない間にあれが帰ってくるようなことがあったら、あるいはもしおれがあれを連れて帰るようなことになったら、おれは、あれを一緒に誰もあれを責めたりする人間のいねえところに行ってだ、そこで死ぬまで暮らすからな。もしおれに万一のことがあったら、いいか忘れないでおいてくれ、あれに残す最後の言葉はだ、おまえを思う気持ちに変わりはない、赦してやるから、だからな。」

 

3. トマス・ハーディー(1840-1928)

(テス)1891

・エンジェル(テスの告白を聞いて)「ぼくがずっと愛してきたのは、きみじゃない。きみの姿、形をした別の女さ。」

・テス (帰ってきたエンジェルに)「遅すぎるわ、遅すぎたのよ。あの人、父が亡くなってからは、私にも母にも、家族の全員にとても親切にしてくれたのよ。あの人のものに、また、私はなったのよ。」

・テス(エンジェルに追いついて)「私、とうとう殺ってしまったわ。あなたのためにも、私のためにも、そうしなければならなかったのだわ。
あの人を殺してきたんですもの、あなたに対する私の罪は赦してくれるわね。今は、愛してるよと言って。あなた、愛してるよと言って、あの人を殺してきたんだから。」

 

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E. 現代

1. アントニー・ビーヴァー「第二次世界大戦」2015 白水社

・1939/8/31 ノモンハン事件の戦闘は終了した。この戦いの期間中に「独ソ不可侵条約」がモスクワで結ばれ、さらに大規模な交戦が終わった頃には、ポーランド国境にドイツ軍が大挙して集結、ヨーロッパにおける大戦が始まった。日ソ双方の衝突はその後、9月半ばまで散発的に続いたものの、スターリンは、日本側の停戦要請を受け入れた。(上40頁)

ヒトラーと合意が成ったことで、スターリンはバルト三国とベッサラビアを確保した。ドイツが西方からポーランドに侵攻する際、同国の半分を貰うという密約については、言わずもがなだ。さらに、ヒトラーの次なる相手が仏英両国だと判明したので、スターリンは西方の資本主義国たちが血まみれの戦いを演じ、結果、ドイツが国力を衰退させることを期待した。(45頁)

ナチス・ドイツとソ連が結んだ合意文書によって、どちらが得をしたのか、については、ほとんど疑問の余地はない。イギリス海軍による海上封鎖の脅威にさらされていたドイツは、いまや戦争遂行に必要なあらゆるものを手に入れた。穀物、石油、そして鉄鋼生産に必要なマンガンは、すべてソ連が単独で提供できたし、その他の物資についても、スターリン政権がパイプ役を勤めてくれた。特にソ連経由で融通してもらったゴムは、なによりありがたかった。(78頁)

対独戦におけるポーランド軍の人的損耗は、戦死者 7万人 戦傷者 13万3000人、捕虜は 70万人に達したと推計されている。対するドイツ側の人的損耗は 4万4400人、うち戦死者は 1万1000人だった。規模の小さなポーランド空軍は文字通り消滅してしまったが、ポーランド侵攻作戦におけるドイツ空軍の被害も 560機と驚くほど大きかった。主な原因は空中戦ではなく、不時着と対空砲火によるものだった。一方、ソ連がポーランド侵攻に際して受けた損耗の程度は、赤軍の死者は 996人、戦傷者は 2002人に過ぎない。対するポーランド側は、死者だけで 5万人、負傷者に至ってはその実数すら分かっていない。犠牲者の数にこれほどの差が生じた原因は、処刑による死者が多かったと考えるしかない。ポーランド側の戦死者の中には、翌年の春に「カティンの森」で行われた将校虐殺なども含まれている公算が高い。(80頁)

愛国心の拠り所であるポーランドのカトリック教会は、聖職者に対する逮捕および国外追放という形で、徹底的に弾圧された。ポーランド文化を根絶やしにし、将来の指導者層が育たないように、各種の学校や大学は閉鎖された。最も初歩的な教育だけが、辛うじて許された。クラクフ大学の教授と教職員はドイツ本国の強制収用所に送られた。ポーランド人政治犯が送られたのは、後のアウシュビッツであった。(81頁)

 

・1937/12/13、中国軍は南京からの撤退を試みたが、一気に包囲され、城外で身動きが取れなくなった。日本軍部隊は、すべての捕虜を殺せとの命令を受けて、南京城内に入った。「第16師団」のとある部隊だけで 1万5000人の中国人捕虜を、また僅か1個中隊で 1300人を処理した例もある。あるドイツ人外交官はベルリンに向けて、「機関銃による大量処刑に加えて、それ以外の殺害方法も用いられた。例えば、ガソリンをかけて火を付けるなど」と報告している。
中国人を見下していたのに、その中国人から上海で思わぬ苦戦を強いられた腹いせに、すさまじい大量殺戮と大量強姦が繰り広げられた。これを知って全世界が震撼した。ただその際の民間人の犠牲に関する推計には、非常な幅がある。一部の中国筋は 30万人としているが、より可能性の高いのは、20万人近くといったところだろう。日本の軍当局は一連の不適切な虚偽の末、我々が殺したのは便衣兵、すなわち民間人の服を着込んだ中国兵のみであり、しかもその死者数は 1000人前後だと主張した。(126頁)

 

・ムッソリーニは、6/5以降の早い時期に、イタリアは英仏と戦争状態に入ると、ドイツ国に対し明言していた。もちろん、英仏相手に大攻勢をかけるという能力がいまのイタリアにないことは、ムッソリーニも百も承知だった。それでも、地中海にあってイギリスが支配する戦略拠点のマルタ島に関し、一応の攻略計画を策定してみた。だがその後、イタリアは考えを改める。イギリスの敗北に乗じて、掻っ攫えばいいだけの話で、なにもいま慌てて攻めることもあるまい。ムッソリーニはその後こう言ったと伝えられている。「今回、余は宣戦布告はするが、戦争を敢えて行うつもりはない。」(220頁)

 

・5/27、ロンドンでは今日もまた、一日に三度も戦時内閣が招集されていた。なかでも午後に開かれた二度目の会合は、ナチ・ドイツがこの戦争に勝ちそうな状況の下で開かれ、下手をすると最も危うい局面だったかもしれない。このところ続いていたハリファックス外相とチャーチル首相の暗闘が、ついに正面対決へと至った。 ハリファックス卿は、ムッソリーニを仲介役に立て、ヒットラーが仏英両国にどのような条件を提供する気か、その具体的内容を知ろうと決意していた。チャーチルはそうした弱気な発想そのものに強い反論を加え、我々は戦いを継続すべきであると力説した。
戦時内閣のメンバーのうち、チャーチルは少なくとも労働党の二人の指導者、クレメント・アトリーとアーサー・グリーンウッドの応援と、自由党党首サー・アーチボルト・シンクレアの支持をとりつけていた。前首相のチェンバレンもチャーチルの状況判断を大筋で了承していた。(225頁)

 

・ゲーリング指揮下のパイロット達は、きわめて士気が高かった。何しろこの時点で、フランス駐留のドイツ空軍は、メッサーシュミット109戦闘機 656機、メッサーシュミット110双発戦闘機 168機、爆撃機 769機、そしてシュトゥーカ急降下爆撃機 316機を擁していたのだから。これに対し、イギリス戦闘機集団は、ハリケーン戦闘機、スピットファイアー戦闘機が合計504機あるだけだった。
イギリス戦闘機集団は、まさに国際部隊の観があった。バトル・オブ・ブリテンに臨んだおよそ 2940人の航空機搭乗員のうち、イギリス国籍の者は 2334人で、残りはポーランド人が 145人、ニュージーランド人が 126人、カナダ人が 98人、チェコスロヴァキア人が 88人、オーストラリア人が 33人、ベルギー人が 29人、南アフリカ人が 25人、フランス人が 13人、アメリカ人が 11人、アイルランド人が 10人その他であった。(268頁)
イギリス本土防衛のための航空戦、いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」は、ドイツ空軍がロンドンとイングランド中部の工業地帯を狙って集中的な夜間爆撃を行った10月末には、もはや先が見えていた。戦いの最盛期は8月と9月で、この時期の数字を見ると、イギリス空軍が 723機を失ったのに対し、ドイツ空軍は 2000余機を喪失している。
ヒトラーは、9/19、追って沙汰があるまで、イギリス上陸作戦は当面延期するという決断を下した。ドイツ空軍がイギリス戦闘機集団の殲滅にしくじったことはいまや明らかだった。
そのころベルリンでは、空襲作戦だけでイギリスを屈服させるのは無理なのではないかという冷めた空気が、ナチ上層部の間で広がりつつあった。今後の対イギリス攻略作戦は、もっぱら潜水艦を主体とし、イギリス諸島全体を「兵糧攻め」にする方向へと移っていく。
9/27、日本はベルリンにおいて「日独伊三国同盟」に関する条約に調印した。(283頁)

 

・1940/12/17、ローズベルトは、記者会見を開き有名な、しかし極めてシンプルなたとえ話を持ち出した。イギリスはいわば燃え盛る自宅を前にして、ホースの購入代金を貸してほしいと頼んでいる隣人みたいなものである、と。これは「武器貸与法」法案の議会提出を前に、ローズベルトが国民感情の誘導を狙って行った地均しだった。チャーチルは最大限の感謝を述べた。とはいえ、イギリス政府は内々では、武器貸与法の付帯条項にある極めて過酷な貸付条件の数々に衝撃を受けた。アメリカはすでに、イギリスが保有するすべての国有財産の監査を求めていた。イギリスが保有する外貨準備と金準備を使いきるまではいかなる補助も与えてはならぬ。南アフリカのケープタウンにアメリカ海軍の軍艦が派遣され、同地にイギリスが保有する最後の金塊も運び去った。合衆国内で活動する英国系企業、有名なところでは、ロイヤル・ダッチ・シェル、ユニリーバなど・・・の株式をアメリカ側にバーゲン価格で売却しなければならず、しかもそれらの株式はその後、市場で転売され、その差額分はすべてアメリカの国庫に入った。(268頁)

 

・チャーチルは、後年Uボートの脅威に触れ、大戦中 自分の心胆を寒からしめた唯一の問題は、Uボートによる海上封鎖だったと吐露している。1940/9 には、僅か1週間で、イギリス側の船舶を27隻も沈めた。
ドイツ海軍が実戦に投入できた外洋航行型Uボートは、1941/2 の時点でいまだ 22隻程度だった。ヒトラーにいくら訴えても、対ソ侵攻作戦の準備に比べ、低い優先順位しか与えられなかった。
デーニッツ提督は「群狼戦術」を案出した。船団を発見したら、10隻ほどのUボートで夜間に一斉に襲いかかるという戦法であった。相手方の1隻に火がつくと、炎の照り返しや逆光で船影が浮かび上がるため、他の輸送船の位置も容易に把握できた。最初に襲われた船団では 17隻が沈められ、その直後の船団では 4隻のUボートにより、49隻中 12隻が沈められた。(371頁)

 

・6/22 午前5時45分、クレムリンで会議が始まった。だが、スターリンは、ヒトラーが今回の攻撃を承知しているはずがない・・・の一点張りだった。ドイツのシュレンブルク大使を呼び出すよう命じられたモロトフ外相が実際に当人に会ってみると、大使はいった。「独ソ両国はいまや交戦状態にあります」と。以前からそう警告してきた大使からすれば、ソ連側が今更驚愕していることの方が驚きであった。
6/22 の未明、東ヨーロッパのバルト海から黒海まで、長く連なる帯状の地域のすぐ手前で、一刻の狂いもなく、後方に航空機のエンジン音が聞こえた。待機中のドイツ兵が夜空を見上げると、頭上をびっしり埋め尽くしたドイツ空軍の飛行機がいて、広大な東方の地平線を照らす夜明けの光に向かって、流れるように飛んで行った。
ソ連赤軍はほぼ完ぺきな不意射ちをくらった。およそ1800機の戦闘機、爆撃機が開戦初日に、それも大半は地上で、破壊されたといわれている。対するドイツ空軍がこの日失ったのはわずか 35機だった。(388頁)
ドイツ「北方軍集団」は、東プロイセンから打って出ると、バルト三国に次々と襲いかかり、さらにレニングラードを目指して前進を続けた。
ドイツ「中央軍集団」は、白ロシア内を猛然と進んだ。
ドイツ「南方軍集団」は、ウクライナへと兵を進めた。(391頁)

 

・9/7 ドイツ軍の自動車師団はレニングラードを包囲した。レニングラードに通じる陸路はいまや完全に断たれており、唯一残っているのは巨大なラドガ湖を横切るルートだけだった。
現代史上最も長期にわたり、かつ最も無慈悲な「レニングラード包囲戦」が開始された。
50万人の兵士に加え、250万人を超える市民(うち40万人は子供)がいた。だが、総統はレニングラード占領などもともとやる気はなかった。まずは砲爆撃で叩き、完全封鎖し、餓死と病死を誘う。征服後は、都市全体を根こそぎ破壊し、跡地はフィンランドに引き渡すというのがヒトラーの基本方針だった。(410頁)
ソ連北部の戦いにおける赤軍のダメージは恐るべきものだった。回復不能の人的損耗は 21万4078人を数えた。これは戦場に展開する将兵の実に3分の1ないし2分の1に相当する数字である。だが、この後にやってくる飢餓による大量死に比べれば、こんな数字は、ものの数ではなかった。しかも、レニングラードが、もし仮に降伏という決断をしても、それを受け入れる気がヒトラーにはそもそもなかった。ヒトラーが望んだこと、それはレニングラードの都市と住民の双方を、この世から抹殺することだった。(414頁)

 

・ローズベルトによる対ソ支援は物量の面で惜しみないものだった。「武器貸与法」をもとに、ソ連に対し援助を与えることは、手続に時間がかかり、ローズベルトをいらだたせたけれど、いったん始まってしまうと、その量も規模も途方もないものだった。極めて良質の鋼鉄、各種の対空火器、航空機、そして1942年から43年にかけての冬、ソ連を飢餓から救った膨大な食料。勝利に最も貢献したのは、アメリカからソ連の赤軍に提供された機動力だった。戦争の後半、赤軍があれだけの進軍を実現できたのは、アメリカ製のジープとトラックのおかげである。(450頁)

 

・1941/7/21、ドイツ空軍はモスクワに対し初の空爆を実施した。
一時は総兵力の半分を、北のレニングラード方面と南のキエフ方面に持って行かれたドイツ「中央軍集団」だったが、ヒトラーの翻意を受けて、対モスクワ作戦に集中できるようになった。
対ソ戦の年内決着を予想するものは、もはやほとんどいなかった。寒冷地対策が全くできていないため、迫りくるロシアの冬にみな戦々恐々だった。(464頁)
10/14、ドイツ軍は思わぬ反撃に遭遇する。多連装ロケット砲とシベリア兵からなる二個狙撃(歩兵)連隊を擁する新手の部隊が突然出現した。
東京にいるソ連側のスパイ、リヒャルト・ゾルゲから、日本は遂に南進を決め、太平洋でアメリカを叩く計画を立案中である、との情報を受けた。
スターリンはソ連極東部の脅威はこれにて低減したと判断、シベリア鉄道を用いてさらに多くの師団を西方へ移動させた。ノモンハンにおけるジューコフ将軍の勝利は、日本の大きな戦略転換にかくも重要な役割を果たしたのである。(474頁)
クレムリンから姿を見せたスターリンは、目前の光景にショックを受けた。すぐさま非常事態が宣言され、NKVDの数個狙撃(歩兵)連隊が投入され、道ゆく掠奪者と脱走兵は見つけ次第射殺した。そのあとスターリンは、自分はやはりモスクワに留まらねばならないと決意し、ラジオでその旨告知した。いまこそまさに国の運命を左右する重大局面であり、それゆえスターリンの決断は、絶大な効果を生んだ。文字通り空気が一変し、それまでの集団的パニックが、どんな犠牲を払っても、われらが首都モスクワを守るのだという集団的決意へと転じたのである。(477頁)
このころ日本軍が真珠湾を攻撃したというニュースが入ってきた。モスクワではそれどころでなかった。
真珠湾攻撃の時、唯一慰められる点(そして重要な点)は、アメリカ「太平洋艦隊」に所属する航空母艦はこの時、港内に一隻も存在しなかった。そして、これらの空母こそ、真珠湾を契機にその相貌を永遠に変えてしまった海上戦闘における、決定的反撃手段だったのである。(505頁)

 

・1941/12の第二週は、間違いなくこの戦争の転換点だった。香港と英領マラヤからの知らせを聞いてゾッとしたチャーチルも、どうやらこれでイギリスの敗戦は免れたようだと確信を持つことができた。真珠湾攻撃の第一報を聞いた後、自分は「ベッドに入り、神のご加護に感謝しつつ、眠りについた」とチャーチルは記している。ドイツ軍がモスクワの手前で撃退されたことは、ヒトラーが東部戦線において勝利する可能性が一段と低くなったことを意味していた。(中36頁)

 

・ローズベルト政権の「勝利計画」はすでに実施段階に入っており、総兵力 800万人超を目標に、アメリカ軍は兵力の大規模増強に着手していた。ドイツと日本をまとめて片付けるには、果たして各種の装備や航空機、戦車、弾薬、艦艇がどれほど必要なのか、その総量の算定は余裕をもって、かなり大目に見積もられた。以後、この総動員体制をこなせるように、アメリカ産業界の構造転換がはかられ、その関連予算は 1500億ポンドにまで膨れ上がる。軍需生産に特化した大盤振る舞いは、目まいを覚えるほど惜しみないものだった。(39頁)

 

・1942/7、連合軍は英仏海峡越えの北フランス侵攻作戦をとりあえず延期し、代わりに仏領北アフリカに対する強襲上陸作戦を実施することになった。合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長として米国海軍全体を統率するアーネスト・キング大将は、この機をとらえて太平洋戦域の増強へと動いた。一方アメリカ陸軍も30万人近い兵員を太平洋戦域に投入することを決めており、その大半は、南西太平洋一帯を版図とするダグラス・マッカサー将軍の在豪司令部に組み入れられる予定だった。当時のアメリカ国民は、マッカーサーを熱烈に支持していたが、キングはこの将軍を嫌悪していた。キングばかりではない。かつてマッカーサ将軍の子飼いの部下だったアイゼンハウアーもまた、将軍が過日フィリピンを見捨てた一件には、いささか含むところがあった。
同じくアメリカ軍の現地司令官のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官が、日々の仕事を淡々とこなす極めて実務派提督であるのに対し、マッカーサーはどこか華のある美丈夫で、自己演出の名人だった。(164頁)

 

・その経歴からフィリピンに個人的なこだわりを持つマッカーサーは、自ら唱えた「アイ・シャル・リターン」の公約を、わが名誉にかけて実現せねばと決意していた。将軍はまず、ニューギニア島全土に大攻勢をかけ、残存する日本軍を一掃し、それを終えた後、フィリピン諸島攻略に取り掛かるつもりだった。
一方、ロマンより現実重視の、アメリカ海軍は、これとは別の計画を推奨した。広大な太平洋に点在する日本軍の枝葉のような守備隊や占領軍部隊は、その補給を断つことで立ち腐れに追い込み、あとはひたすら日本本土にむけて、直線コース上の島々を順次攻略していくという案である。だが、断固反対を貫くマッカーサーを前に、ワシントン統合参謀本部はやむなく二軸方針という妥協策を提示した。マッカーサー案と海軍案を同時並行的に進めるといういうものだった。こんな度はずれた兵力分散をやって、しかも目的が達成できてしまうのは、艦艇と航空機をいくらでも生産できるアメリカ合衆国ぐらいであろう。(184頁)

 

・1942/1の「ヴァンゼー会議」でその骨子が固まった「最終的解決」の対象たるユダヤ人は実に 1100万人を超えており、なまなかな努力ではその目標達成は覚束なかった。トルコ、ポルトガル、アイルランドのような中立国はもとより、ドイツにいまだ敗れざる敵国イギリスまでもが彼らの構想に含まれていた。(503頁)
世界情勢はいまや行きつくところまでいっており、もはや後戻りができないところまで来ていた。かくして一気にアクセルが踏みこまれ、「銃弾よるショア(大量虐殺)」から 「ガスによるショア」へと至るのである。(504頁)
これほど多くの人間を、これほど少数の処刑人で殺すなんて事例は、人類史上かつてなかった。「トレブリンカ」の場合、管理スタッフは親衛隊員がおよそ 25人で、あとはウクライナ人の補助が100人程度いただけである。たったそれだけの人数で、1942/7 から1943/8 の間に、ユダヤ人およびジプシーを約80万人殺したのである。(516頁)
「トレブリンカ」は「アウシュヴィッツ・ビルケナウ」に比べ格段に高密度の殺戮サイクルを実現していた。ここで殺された人間の総数は 80万人に上り、しかもそれは13ヶ月間で得られた数字である。対する「アウシュビッツ・ビルケナウ」は 100万人の大台を突破したが、それは 33ヶ月をかけての数字であり、作業効率としては遠く及ばない。(521頁)

 

・1944/10/9 の夜、クレムリンのスターリンの執務室で、英ソ両国の首脳は、通訳だけを挟んだ差しの会議を行った。チャーチルはまず最初に、「最も厄介な一件、すなわちポーランド問題」から議論をしたいと口火を切った。チャーチルは、ポーランドの戦後の東部国境はすでに「決着を見た」と言って、「テヘラン会議」の際、「ポーランド亡命政府」にいっさい相談せず裏取引で決まった内容を改めて確認した。
次にバルカン半島をめぐる問題に移った。 チャーチルはペーパーを示した。

ルーマニア:ロシア 90%、その他 10%
ギリシャ:イギリス(アメリカと協同して) 90%、ロシア 10%
ユーゴスラビア:50%、 50%
ハンガリー:50%、50% 
ブルガリア:ロシア 75%、その他 25%

スターリンはそのペーパをしばらく凝視し、ブルガリアに対するソ連の取り分を 90%に引き上げた後、青鉛筆で左上の隅にチェックマークを入れた。そしてテーブルの向かい側にいるチャーチルに押し戻した。こんなものは焼却しておくべきかなとチャーチル。 「いや、君が保管しておいてくれ」とスターリンは淡々と答えた。チャーチルはそれを折りたたむと、ポケットにしまった。(下226頁 )

 

・スターリンが対日戦に踏み切る代価について、ローズベルトは了承した。極東地域でソ連側が所望したのは、サハリン島の南半分と、日露戦争の敗北で1905年に奪われた千島列島だった。モンゴルに対するソ連の支配権も、ローズベルトはあわせ認めた。ただ、この問題について蒋介石と話し合っていないため、合意の件は内密にするとの条件付きだった。これら一連の裏取引は、「大西洋憲章」の高潔な精神におよそそぐわないものだった。ポーランド問題におけるアメリカ側の譲歩についても、その点については同様だった。(362頁)

 

・スターリンには西方連合国に先んじてベルリンを確保すべきもう一つの理由があった。ベルリンはナチ・ドイツにおける原爆研究の一大拠点であり、特にベルリン郊外のダーレムにある「カイザー・ヴィルヘルム研究所」はその中心施設だった。ロシアにはウランが乏しくそれをベルリンで入手したいと考えていた。しかし、相当量のウランと大半の研究者はすでにドイツ南西部の森林地帯に疎開していた。(387頁)(了)

 

2. ベン・マッキンタイアー「キム・フィルビー」2015 中央公論新社

・父は、サウジアラビア初代国王イブン・サウ-ドの顧問として、この地域の石油政策で中心的役割を担った。イスラム教に改宗し、アラビア語を流暢に話したが趣味や嗜好は完全にイギリス人のままだった。(43頁)
キムは、ウェストミンスター校を経てケンブリッジ大学へ進んだ。父は、年中ほとんど不在で、アラブ世界を走り回ってはトラブルを起こしていた。(55頁)
1930年代にケンブリッジを襲った猛烈なイデオロギーの嵐は、聡明な怒れる青年たちを何人も引き込んでいた。ヨ-ロッパではファシズムが拡大を続け、これに対抗できるのは共産主義だけだと多くの人は考えた。キムがそのころ親しくなったのが、ガイ・バーゼスとドナルド・マクレインだった。
キムは、ケンブリッジ大学社会主義協会に入った。労働党のため選挙運動を行ったことはあるが、共産党に入党したことはない。
ケンブリッジを卒業する前、指導教官でマルクス経済学者のモーリス・ドブと会い、「共産主義の大義に生涯を捧げる」にはどうするのが一番よいかと尋ねた。ドブからコミンテルンのパリ駐在員に会えと指示され、その駐在員からさらにオーストリアの共産主義地下組織を紹介された。話は実に簡単に進んだ。極左にも独自の同窓生ネットワークがあったわけだ。(58頁)
1933年秋、ウィーンで紹介された夫婦に会った。二人の娘リッツィ-に一目で恋をした。娘はこの時23歳、黒髪のユダヤ人で、18歳で結婚し最近離婚したばかりだった。非常に熱心な革命家で、当時の人によると「ものすごくセクシーな娘」だった。ウィーンの地下組織で活動しており、ソ連の情報機関とも接触があった。1934/2/24 二人はウィーン市庁舎で結婚し、彼女は新たな夫と共に安全なイギリスへ逃れることができた。ウィーンから戻って数週間後、リッツィーから人生を変えることになると確約された「決定的に重要な人物」と待ち合わせた。30代後半、きつい東ヨーロッパなまりの英語を話し、「オットー」と名乗った。
オットーは、イギリスでソ連の情報機関のため人員をスカウトする責任者で、後にケンブリッジ・スパイ網と呼ばれるスパイ集団を作り上げた中心人物であった。その任務は、やがて権力や影響力をふるえる地位に上るかも知れない若者が集まる最高学府で(大学での研究を隠れ蓑にして)過激な学生をスカウトすることだ。オットーが探し求めていたのは、長期にわたって正体を隠し続け、怪しまれることなく、イギリスの支配階層に紛れ込むことのできる思想的に堅固なスパイだった。ソ連の情報機関は長期戦を想定しており、今播いた種は何年も後に収穫できればよい、と考えていた。二度目に会った時、オットーは、共産主義の大義のため秘密工作員として活動する気はないかと尋ねた。フィルビーは少しも躊躇しなかった。「エリート部隊への入隊を提示されて、ためらう者などいない 」とフィルビーは書いている。(62頁)

 

・中央記録保管所は、MI6の記録や参考資料を集めた保管施設で、ここの記録原簿には、現在活動中であるイギリスの秘密工作員全員と、1909年のMI6創設以来イギリスのためスパイ活動を行ってきた全工作員の個人ファイルが綴じられている。本名と暗号名、別名、性格、実績、報酬等が記録されていて、いわば世界中に散らばるMI6のスパイの現状を示す出納簿であった。
フィルビーは保管所長にソ連の原簿を見せてほしいと頼んだ。
しばらくしてフィルビーはモスクワに報告書を送った。そこにはソ連内のイギリス側スパイは「一人もいない」と記されている。その報告によると、MI6のモスクワ支局長は、ソ連内では大物スパイを一人もスカウトしておらず、いるのは小物の情報提供者数名だけで、その大半はポーランド人であった。しかもソ連は「工作員を送るべき国のリストでは10番目」としていた。
これはソ連の自尊心を大いに傷つけ、フィルビーに対する疑惑を呼んだ。だが現実に、イギリスの情報機関はもっぱらナチの脅威に集中しており、しかもソ連が1941年に同盟国になったことで、外務省からソ連領内での隠密行動には厳しい制限が課されていた。(87頁)
イギリスとソ連は、ヒトラーが1941年の夏にソ連を攻撃して以来、同盟関係にあった。確かにハイレベルな情報がロンドンとモスクワ間をすでに行き来していたが、両国とも相手を深い疑念の目で見続けていたため、内容には制限があった。フィルビーが渡していた情報は、欺瞞作戦や、工作員と将校の身元、秘密情報部そのものの詳細な組織構成図などMI6の上司たちがスターリンに知らせようとは夢にも思わなかったものばかりだ。(108頁)

 

・フェアメーレン夫妻は、ヒトラーを暗殺して英米と講和を結び、次いで東からの赤の脅威を撃退し、それによってキリスト教に基づく民主的で反共的な新生ドイツ国家を建設しようと夢見ていた。1943/12/27 イスタンプールにいたエリオットを訪れ亡命を希望した。フェアメーレンがアプヴェーアで働いた期間は数ヶ月にすぎなかったが、彼が教えることのできた情報は、ドイツ情報機関の組織構造、中東での活動、将校や工作員の身元など、貴重なものばかりであった。婦人はドイツ国内のカトリック系地下抵抗運動についての詳細を提供した。エリオットは、夫妻をロンドンまで送ることに成功した。
AP通信は次のように報道した。「24歳の大使館員とその妻が、ナチスの残虐さに嫌悪感を覚えたためドイツから亡命したと発表した。彼は、非常に価値のある情報を持っているとのことである。」
フェアメーレンの父と母と兄弟たちは、全員が逮捕されて強制収容所に送られた。(124頁)
フェアメーレン夫妻の伝えた情報には、「ドイツにおけるカトリック系の地下運動に参加している知人全員と、彼らが戦後の民主的・キリスト教的ドイツで果たすべき役割」の詳細な説明が含まれていた。ソ連軍が東から進撃する構えを見せていたため、MI6はこのリストをモスクワには渡さなかった。しかし、フィルビーは渡した。
戦後、連合軍はこのリストにあった人々を探し回った。しかし、一人も見つけ出すことはできなかった。(129頁)

 

・1944/3、フィルビーは、共産主義スパイとの戦いを始める時期が来たので、「共産主義者やソ連の諜報活動に関与する人々について我々の知るところとなったあらゆる事例を専門的に処理する」組織として、新たにセクションⅨを設置することを提案し、結局自分がその責任者に就任した。(133頁)

 

・フィルビーらケンブリッジ・スパイの面々は戦争中一貫して忠誠を守り、驚くほど熱心に活動していた。フィルビーは、原爆開発計画である「マンハッタン計画」のほか、Dデイの計画、イギリスの対ポーランド政策、イタリアにおけるOSSの作戦(情報源はアングルトン)、イスタンプールにおけるMI6の活動(情報源はエリオット)など多数の報告を送り、そのすべてが全くの真実ばかりであった。(134頁)

 

・1945/9/4、イスタンプールのイギリス副領事をヴォルコフというソ連領事館職員が訪れ、自分は、実はトルコにおけるソ連情報部の副責任者で、その前はモスクワ本部のイギリス担当部で数年働いたという。夫妻は西側への亡命を希望した。彼が提供した情報は、イギリスとトルコにあるソ連側の工作員の完全なリスト、ソ連によるイギリスの通信傍受に関する情報であった。トルコにいるソ連側工作員 324名の名前とイギリスにいる工作員 250名の名前を教えようと提案した。夫婦が西側に逃れたらソ連に残した書類と引き換えに 5万ポンド(現在の2億8000万円相当)と、政治亡命を求めた。
イギリスの重職にあるソ連側スパイのうち、7人はイギリスの情報機関か外務省にいると明かした。「例えば私は、こうした工作員の一人が、ロンドンでイギリス防諜組織の一セクションでリ-ダ-の役割を担っていることを知っている」と言った。
情報はトルコ大使館からロンドンのMI6のトップへ、そこから対ソ防諜の責任者たるフィルビーに渡された。
ロンドンでソ連側スパイといえば自分しかいない。外務省のスパイとは今は外務省情報部で働いているガイ・バージェスとワシントンのイギリス大使館で一等書記官をしているドナルド・マクレインだろう。この亡命者一人だけで、ケンブリッジ・スパイ網を全滅させ、ソ連情報部の内幕を暴露し、フィルビー本人を破滅させるのに充分であった。フィルビーは自らイスタンプールへ行って夫婦をイギリスへ脱出させることを引き受けた。フィルビーがぐずぐずと時間稼ぎをしてからイスタンプールに着き、副領事がソ連領事館のヴォルコフに電話したときは、夫婦はすでに殺された後だった。ヴォルコフは、生きていた記録を何も残していない。彼の家族も、妻の家族もスターリンの国家が生んだ闇から全く浮かび上がってこない。(148頁)

 

・1949年、フィルビーはMI6 ワシントン支局長に任命された。
アメリカに出発する前に、冷戦で最も厳重に守られていた秘密を教えられた。1940年から1948年の間に、アメリカの暗号解読者たちは、ソ連情報部の電報約3000件を傍受していたが、1946年になって初めてアメリカの暗号解読班がアメリカとモスクワ間の通信文を解読し始めた。それによって明らかになった事実は衝撃的だった。戦争中に 200人以上のアメリカ人がソ連側の工作員となり、財務省、国務省、マンハッタン計画、それにOSSもスパイしていたのである。中でも注目すべきは、「ホメロス」という暗号名のソ連側工作員がいて、1945年にワシントンのイギリス大使館内部から秘密を漏らしていたという証拠を発見したことである。フィルビーはもっと確かなことを知っていた。ケンブリッジ時代の友人でスパイ仲間の ドナルド・マクレインが、1944年から1948年の間、ワシントンの大使館で一等書記官を務めていた。このマクレインがホメロスだったのである。(176頁)

 

・アルバニア作戦は、フィルビーがいなくても失敗していただろうが、これほどの大失敗にはならなかっただろうし、これほどの犠牲者も出なかっただろう。
ロンドンにいたNKVDの監督官で、フィルビーの通信文をモスクワに転送していた ユーリ・モジンも、こう言っている。「彼は我々に、関係者の人数、上陸の日時、携行する武器および正確な行動計画について、重要な情報を送り、ソ連は当然ながら、それをアルバニア側に渡し、それを踏まえてアルバニア側は待ち伏せしていた。」
死亡したアルバニアのゲリラの数は、100人から200人の間であり、これに彼らの家族など報復の犠牲者を加えれば、死者数は数千人に跳ね上がる。
生きて帰れる見込みのなかったアルバニア人ゲリラを派遣した者たちは、何年もたってから、ジェームズ・アングルトンが、ランチを共にした2年の間に「酒を飲みながらフイルビーに、アルバニアにおけるCIAの降着地域の正確な位置をすべて教えた」との結論に達した。(200頁)

 

・フィルビーは、秘かにマクレインとバージェスをモスクワに脱出させた。MI6のトップは、フィルビーをロンドンに召喚した。MI6のトップは、ソ連側スパイだったバージェスと友人だったからには辞表を提出してもらわなければならない、と告げた。退職金は4000ポンド(現在の560万円に相当)。(237頁)
1955/11/8 午前11時、フィルビーが玄関を開けると、世界中の報道機関から集まってきた記者たちでごった返していた。フィルビーの有名な記者会見の映像を夜のニュースで見て、ソ連の情報将校ユーリ・モジンは、フィルビーの「息を飲むような」名演技に驚嘆した。(278頁)

 

・1956/7 エリオットとMI6の同僚たちの奔走でフィルビーはMI6に復帰した。
エリオットは、さらにフィルビーのため、ジャーナリストの友人に頼んで、オブザーバー紙とエコノミスト誌のベイルート特派員の職を得、MI6では将校としてではなく工作員としてこの地域の情報を集める仕事を手配した。(295頁)

 

・1963年、エリオットは、ベイルートにいるフィルビーとの対決は自分に任せてほしいと訴えた。彼と知り合った期間はすでに人生の半ばに及び、あの男から自白を引き出すことができる人物がいるとすれば、私以外にあり得ないと主張したのだ。(354頁)
1963/1/12「僕が来たのは、君の過去の不正が明らかになったと告げるためなんだ。君についての追加情報を見つけたんだ。それですべて説明がつく。
いいかい、キム、君も知っての通り、僕は君が嫌疑を受けた瞬間からずっと君の味方だった。今は新たな情報がある。それを僕は見せてもらった。だから今では、この僕さえも、君がソ連の情報機関のために働いていたと完全に確信している。49年までずっと彼らのために働いていたと。」
1949年はフィルビーがワシントンへ行った年であり、もし彼がアメリカ滞在中もスパイ活動をしていたと認めれば、アングルトンとCIAとFBIが身柄の引き渡しを求めてくるに違いなかった。そうなれば訴追免除の取引は無意味になってしまう。スパイ活動は1949年まででそれ以降はやっていない、と認めさせる必要があった。そうすれば、問題をアメリカに口出しされずにMI6の「内部」で処理することが出来る。(363頁)
エリオットは取引の内容を説明した。フィルビーがすべてを自白すれば、起訴はしない。しかし、自白ではすべてを明かす必要がある。ソ連側情報機関との連絡員も、イギリスにいる他のモグラも、モスクワへ流した秘密も。(367頁)
エリオットは、意図的であれどうであれ、フィルビーにとってこれ以上ないと言っていいほど逃げやすい環境を作り出した。二重スパイであることを自白したばかりの人物に監視を付ける手配を一切せずにベイル-トを離れた。フィルビーは尾行も監視もされなかった。電話は盗聴されなかった。レバノンにいるMI6の協力者にも注意情報はなかった。MI6ベイルート支局長のランから電話があると告げられただけであった。(378頁)
1/23 フィルビーは、KGBの手助けにより脱走し、モスクワへ向かった。(381頁)

 

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