HOME > 文学(私の抜書き) > その他の西欧

その他の西欧

A. ギリシャ・ローマ・イタリア

1. 塩野七生「ローマ人の物語」ⅩⅢ(2003)

(ローマ社会でのキリスト教の台頭の要因)

ギボン 1976 によると
(イ)断固として一神教を貫いたこと。
(ロ)魂の不滅と未来の生の保証という教理
(ハ)指導者による奇跡の数々
(ニ)教徒の純粋で禁欲的な生き方
(ホ)規律と団結の教徒のコミュニティ

ドッヅ教授 1965 によると
(イ)魂の救済への道としての絶対的排他性
(ロ)社会の底辺への解放性(非階級性)
(ハ)現世の不安から未来への希望の授与
(ニ)教徒のコミュニティでの相互扶助

 

同 ⅩⅣ(2005)

コンスタンチヌスは、キリスト教の都としてコンスタンチノープルを建設した。そこには教会を建てても、神殿は建てさせなかった。(4世紀末)。しかし、ギリシャ・ローマの建築物や彫像を破壊させることはなかった。
テオドシウスは、ローマのすべての神殿を教会に転化することに決めた。教会に変えられない神殿はすべて破壊させた。ギリシャ・ローマの彫像類は、偶像崇拝の禁止として破壊させた。

 

同 ⅩⅤ(2006)

ガリアを制覇しつつあったフランク族の長も、ヒスパニアに一大勢力を築きつつあったゴート族の長も、北アフリカを領すること半世紀に及ぼうとしていたヴァンダル族の長も勝手に王を名乗っていた。
ローマを制圧したオドアケルもイタリア王を称することとなった。ここにローマ帝国は滅びた(476)。

 

2. ヴェルディ(1813~1901)

2-1「リゴレット」(1851 初演)

1幕

・「汚れのないまま、お前に任せたこの花から、目を離すでないぞ。
心して見守ってくれ、その清らかさを曇らせることのないように。
荒れ狂う嵐に、よいか、他の花が手折られるとも、
この花を守って、汚れのないまま父親の手に戻してくれよ。」

・「私の心を 初めてときめかせた 懐かしい名前よ、
お前は愛の喜びを いつも思い出させてくれるに違いない。
思いを込めて、私の願いは お前のもとへ いつも 飛んで行こう。
最後の溜息までも、懐かしい名前よ、お前のものとなろう。」

 

3幕

・「女とは、風に踊る羽根のように気まぐれで、
言うことと思うことがくるりと変わる。
いつも人に好かれる愛嬌顔、泣くも笑うも嘘がある。」

 

2-2「椿姫」(1853年 初演)

・序曲

 

1幕

・(乾杯の歌)
「 楽しい盃で酒を飲みほそう、喜びの花と飾る盃で、
そしてはかない時を快楽に委ねよう。
やさしき戦きのうちに盃をほそう、愛を呼びさます戦きのうちに。」
「ああ!楽しもう、盃と歌とが夜を飾り、
この楽園に新しい日が現れる。」

・「ああ、きっとあの方なのね!私の心がひとり寂しく胸をときめかせ
しばしばひそやかな彩で描いては楽しんでいたのは!
あの方なのね、慎み深く、苦しみが始まるのをじっとみつめ、
私を恋にめざめさせながら、新しい熱を出させたのは!
あの恋に、神秘的で、気高い、
宇宙の、全世界の鼓動であるあの恋に、
胸には苦しみと喜びを感じながら。」

・「楽しむことね!快楽を無我夢中で追いかけて。
夜も昼もいつも陽気に、いつも新しい喜びに思いを馳せるのよ。
どうかしてるわ!どうかしてるわ!楽しむことね、いつも自由に!」

 

2幕

・(昔堕ち込んだ不幸から抜け出す望みは、
こうして失われてしまったのだわ!
たとえ恵み深い神様がこの女に寛大でいらっしゃっても、
この方は決して許して下さらないわ。)
「美しく清らかなお嬢様にお伝え下さい。
ひとりの犠牲の不幸に始まって、残されたたった一筋の幸せの光を
あなたにお捧げして、死んで行くのだと!」

・「私を愛してね、アルフレード、
私があなたを愛しているのと同じくらいに。さようなら。」

・「プロヴァンスの海、プロヴァンスの地を誰がお前の心から忘れさせたのか?
どんな運命が、 ふるさとの輝くばかりの太陽の魅力を、お前から奪ったのか?
そこでは今でも平和がお前だけに輝きかけるのだ。
神様がここへ私を導いて下さったのだ。」

・「アルフレード、この心の愛を分かって下さらないのね。
貴方の蔑みをかってでもこの愛を証かしていることを、貴方はご知らないのね。
でも、いつかあの方は、どんなに私が貴方を愛していたかをお話しして下さるでしょう。」

 

3幕

・「さようなら、過ぎし日の楽しかった夢よ。
バラ色の頬もすでに青ざめ、
アルフレードの愛さえも、私には残されていないのだわ。
ああ、道を踏み外した女の望みに微笑んで、
神様、お許しをお与え下さい。」

・「パリを離れて、ああ、可愛いひとよ、
一緒に暮らしていこう。過ぎた悩みを償おう。
お前の体はまた元気を取り戻すだろう。
お前は、僕には、風のそよぎとも、日の光ともなるだろう、
未来は微笑んでくれるだろう。」

・「受け取って下さいな、これは私の若い時の肖像画。
どんなに私が貴方をお愛ししていたかを
これで思い起こしてほしいの。
もし、清らかなお嬢さんが、
若い盛りで 貴方に心を捧げるとしたら
一緒になってあげて下さいね、きっとよ。
この肖像画をその人にさしあげて、贈り物だといってほしいの。
天国で天使に囲まれて、
貴方がたのためにお祈りしている女の贈り物だと。」

 

2-3「アイーダ」(1871 初演 於カイロ スエズ運河開通を祝して)】

1幕

・「清きアイーダ、麗しの姿、君は私の心の女王。
君の祖国の美しい空と優しいそよ風を君に捧げたい。
王家の花飾りを君の髪に飾り、
君の玉座を太陽にまでも高めてあげたい。」

・「立て!ナイルの川の聖なる岸辺に 急ぎ赴け、
エジプトの勇士たちよ。
皆の胸から、雄叫びがほとばしり出る。
侵略者と戦って、打ち殺せ! 
勝ちて帰れ!」

・「神々よ、私の苦しみを憐れみたまえ!
私の苦しみは救われる望みもないのです。
宿命の愛、激しい愛が、
心を砕き、私を死へと追いやるのです!」

 

2幕

・「勝利者たちの髪に 月桂樹の飾りを編もう。
花のやさしき雲のごとき ヴェールを武器の上にひろげよう。
エジプトの娘たちよ、踊ろう、神秘なるロンドを、
大空で星々が太陽の回りを踊りまわるように!」

・凱旋行進曲

 

3幕

・「おお、青い空よ、故郷の優しいそよ風よ!
故郷のすがすがしい朝は輝くばかりだった。
おお、緑の丘よ、かぐわしい河の岸辺よ!
わが故郷よ、もう二度と見ることはない!」

・「考えておくれ、敗れ散り散りになった民は、ただお前によって
のみ蘇ることができるのだ。」
「ああ、祖国とはなんと高い代償になるでしょう!」

 

4幕

・「さようなら、大地よ、涙の谷よ、
悲しみに変わった楽しかった喜びの日々、
天は扉を開いている、そしてさまよえる二つの心は
永遠の日の光へと飛んで行く!」

 

3. プッチ-ニ(1856~1924)

3-1「ラ・ボエーム」(1896年 初演)】

1幕

・「私はミミと呼ばれてます、何故だか知りませんが。
私は家や外で麻や絹に刺繍をしています、
ユリやバラを作るのが慰めになっているのです。
私は一人ぼっちで、あちらの小さなお部屋で暮らしています、
屋根の上と空を眺めながら。
でも、雪の溶ける時が来ると、最初の太陽は私のものなのです!」

・(二重唱)「おお、麗しい乙女よ、
輝き始めた月の光に包まれた優しい面影、
貴方の中にあるのが分かるのです、私のいつも見ている夢が。」
「ああ、なんて甘美に、その優しい言葉が
私の心を感動させるのでしょう。
愛よ、お前だけが支配しているのだわ!」

 

2幕

・「私がひとりで通りを歩いてると、みんな立ち止まって見つめるわ。
頭のてっぺんから足の爪先までその美しさを認めるわ。
私はよく知っているの、貴方は言いたがらないけど、
貴方が死ぬほど苦しんでいることを!」

・「私の青春よ、お前は死んではいなかった、
お前の思い出も死んではいなかったのだ!」
もしお前が僕の扉を叩いたら、
僕の心が開きに行ってしまうのに違いないよ!」

 

3幕

・(二重唱)「さようなら、恨みっこなしにね。
冬の一人ぼっちは死ぬようなこと。
春にはお日様が仲間になるのだわ。
私たちは花の季節に別れることにしましょう。」

 

4幕

・「この首飾りを売って何か気付け薬を手に入れて、お医者さんを呼んできて頂戴!」
「聞いて!きっとあれがあの人の最後の望みなのよ、私はマフ(手覆い)を買いに行くわ、貴方も一緒に来て。」

・「年老いた外套よ、俺はここに止まるが、お前は去らなければならない。俺の感謝の気持ちを受けてくれ。
楽しかった日々が過ぎ去った今、俺はお前に告げる、さらば、忠実だった俺の友人よ。

・「私まだ美しいかしら?」
「日の出のように美しいさ。」
「夕陽のように美しいと言うべきよ。
貴方は覚えていて、私がここに初めて入ってきた時のことを。
貴方泣いてる? どうしてそんなに泣くの?
ここでは・・・愛が・・・いつも貴方と一緒!
手が・・・暖かいわ・・・そして・・・眠ることが・・・」

 

3-2「トスカ」(1900年 初演)

2幕

・「私は歌に生き 恋に生き、人様に悪いことはしていません。
惨めな人たちと知ればそっと手を差し伸べて助けました。
いつも誠の信仰を込めて祭壇に花を捧げました。なのに、
苦しみの時に、どうして、どうして、主よ、
私にこのような仕打ちをするのですか。」

 

3幕

・「星は煌めき・・・大地は香り・・・庭の戸が軋んで・・・
足が軽やかに砂地に触れた。
甘い香りをさせた彼女が入ってきて、私の腕に飛び込んできた。
ああ、甘い口づけ、やさしい愛撫。
私は震えながら、その美しい姿を露わにした。

私の愛は永久に消え・・・時は去り・・・私は絶望して死ぬ。
自分の命がこれほど愛おしいとは!」

 

3-3「蝶々夫人」(1904年 初演)

1幕

・「ああ、甘く気持のよい夜だこと。
なんて沢山のお星様、こんな美しいお星様見たことありませんわ。
どのお星様も一つの瞳をきらめかせて、かすかに震えて輝いている。おお、甘く気持のよい夜だわ。
愛に我を忘れているとき、天は微笑みかけるのよ。」

 

2幕

・「ある晴れた日に、遥か海のかなたに、
一筋の煙がのぼるのが見えるのよ。
それから船が現れて、あの白い船が港に入

 

▲ ページ上部に戻る

 

B. ロシア

1. トロッキー「わが生涯」1929

(革命家の生涯)

「ツァーリによる流刑は最初が2年、二度目は数週間であった。二度ともシベリアから脱走した。亡命は、1905年革命の前に2年間、その崩壊後に10年間。1915年にドイツで欠席裁判によって禁固刑。翌年フランスからスペインに追放。そこからアメリカへ追放。1917年ニューヨークからの帰路イギリス当局に逮捕され、カナダの強制収容所に1ヶ月。1917年の革命に参加。
1928年ソビエト政府によって中国との国境に1年追放され、さらにトルコに追放されてこの本を書いている。」

 

(蜂起)

「前途には旧世界からの最大級の抵抗、闘争、飢え、寒さ、破壊、流血と死が待っている。われわれは勝てるだろうか、と多くのひとは自問した。そこからためらいがちの思慮の瞬間が生じた。勝てる!とわれわれは答えた。その感情は、ほぼ4ヶ月にわたる不在のあとに始めてこの会議に登場したレーニンに向けられた嵐のような歓迎にそのはけ口を見出した。」

 

(娘)

「娘であり熱烈な同士であったニーナがモスクワで死んだ。26才であった。彼女の夫は、私が流刑される少し前に逮捕された。ニーナは病気で倒れるまで(スターリン派に対する)反対派の活動を続けていた。急性肺結核が発病してから数週間で彼女を奪い去った。病院から出された彼女の手紙は私のところに届くまで73日もかかり、それが着いたのは彼女がすでに死んだあとだった。」

 

2. ラジンスキー「赤いツァーリ(スターリン)」1996

(冨農追放)

1929年モロトフの委員会は、冨農を三つのグループに分けた。第一は、反革命的活動家のグループ。ラーゲリ送りか銃殺。家族は最も遠い地方へ追放。第二は、最も富裕な冨農層の残り。遠い不毛の地域に追放。第三は、それほど経営規模の大きくない富農。コルホーズの領域外に住まわせる。
委員会のメンバー21名中、19名が後に粛清された。
かなり低く抑えられた資料によっても1932年までにさらに24万世帯が移住させられた。レーニンがあれほど憎んだ階級-富裕なロシアの農民層-がもう存在しなくなった。

 

(トロッキーの暗殺)

1940年ベリアがトロッキーをメキシコで暗殺したと報告した。これまでずっとスターリンはトロッキーの親族に制裁を加えていた。まずトロッキーの下の息子を逮捕した。モスクワでおとなしく暮らしていた学者である。彼はトロッキーの全ての親族を肉体的に抹殺した。どんな遠縁の者も。彼の孫の乳母までも。
こうしてレーニンと共に始めた主要な革命家たちの中でスターリン一人が残った。

 

(ヒトラーとの闘い)

戦争で軍が失ったもの886万人、一般市民が1800万人。(1994年のロシア科学アカデミーで大多数の専門家がこの数字に一致した。)

 

(テロ)

1930年代のテロは、不平を言わずに主人の意志に従う統一社会を作り上げるためであった。1953年(スターリンの死亡)に予定されていたテロも同じ課題を持っていた。つまり、戦争でゆるんだ規律をひきしめ、消えかけた恐怖をもどして、不平を言わずに主人の意志に従う統一社会をしっかりと作りあげることである。

 

 

3. 横手慎二「スターリン」中公新書 2014

1920年代末から1941年までの間に強行された農業集団化によって、また大粛清によって、異常な規模の人命が奪われた。しかし他方では、まさにその農業集団化を伴いつつ進められた急進的工業化によって、ソ連という国家が第二次大戦を戦い抜く世界強国に変貌したことを考えれば、この時期は大躍進期でもあった。(171頁)

・農業集団化に対する農民の抵抗は熾烈だった。スターリン指導部はこれを力で抑えつけようとした。1930年から1年の間に、38万1026の家族(180万3392人)が「クラーク(富農)」として農村から追放された。(179頁)
1932年、国内旅券制度を導入して、人々が国内を移動することを制限した。農民にはこれを発行しないで、農民が農村から出ていくことを禁止した。1933年には北カフカースやウクライナから農民が脱出することを全面的に禁止する極秘指令を出した。(188頁)

1930年代後半の大粛清は政治や軍事の指導層だけでなく、より広い階層の人々にまで及んでいた。まず経済部門の管理者についていえば、1936年からの3年間で、ノーメンクラツーラのリストに載る経済分野の指導者の50%が粛清されたとされる。(201頁)
大粛清の犠牲者はスターリンの潜在的敵とはみなしがたい人々も多数含んでいた。1936年から1938年までの間に政治的理由で逮捕された者は134万人余に達し、そのうちの68万人余りが処刑された。(203頁)

1939年、ノモンハン事件で休戦協定が 9/15に成立するまで、ソ連側は死者 9700人余、負傷・疾病者 1万5900人余で、これは日本の人的損失よりも多かった。しかし、最後に戦場を支配したのはソ連軍だった。
おそらくこの結果を読み切って、スターリンは 8/19に、独ソ不可侵条約を締結し、世界に衝撃を与えた。9/1 にドイツ軍がポーランドに侵攻し、英仏がドイツに宣戦布告した。その結果ソ連が中立の立場を得たことをスターリンは大いに享受した。
9/17 スターリンはソ連軍にポーランドに対する攻撃を命じ、独ソ不可侵条約でドイツが占領しないことになっていたポーランド東部をソ連に編入し、西ウクライナと西ベラルーシとした。さらに9月から10月にかけてバルト三国に圧力をかけて軍事基地を置く協定を締結した。(217頁)

1941/6/22  500万人を超すドイツ軍がソ連に襲いかかったとき、スターリンはショックを受け、しばらく陣頭指揮を執ることができなかった。
ミコヤンの回想録によると6/30 近くの別荘にいたスターリンに彼を長とする国家防衛委員会の設置を提案しに行ったとき、彼は訝しげな面持ちで「何のために来たのか」と尋ね、みるからに不安を鎮めようとしていた。スターリンは一瞬我身の危険を意識したのである。一旦状況が明白になるとスターリンの立ち直りは早かった。(221頁)

・この世界大戦で、ソ連は軍だけで 866万人、国民全体では 2700万人の犠牲者を出した。(236頁)

1950/6/25  北朝鮮軍は韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が始まった。
この戦争では、スターリンは米ソの直接対決を避けるために、全期間で 2万6000人ほどのソ連兵しか朝鮮半島に送らなかった。それも大半は中国義勇軍に偽装した空軍と、前線後方で戦う高射砲部隊であった。彼はソ連軍が参戦していることを隠し続けたのである。(266頁)

サンフランシスコ講和条約の調印式の際に、ソ連の代表グロムイコは、はっきりしない態度をとった。結局、ソ連代表は講和条約に調印することを拒否したため、この条約で日本が放棄した千島列島に対する法的権利を主張できないまま今日に至っている。(270頁)

 

4. アンドリュー・ナゴルスキ「モスクワ攻防戦」作品社 2010

・モスクワ攻防戦は、第二次世界大戦での最も重要な戦闘であったし、史上最大の戦闘でもあった。両軍合わせて最高700万人の将兵が投入された。戦死者、捕虜、行方不明者、重傷者は、合計250万人に達した。ドイツ側に比べ、ロシア側の損失ははるかに甚大であった。ロシア側の軍事記録によると、戦死者、行方不明者、捕虜になった兵士合計95万8000人のソ連兵が「消えた」。ソ連兵の捕虜の大半をドイツ軍は殺害した。ソ連側の戦死者は合計189万6500人に上った。これに対しドイツ側の犠牲者は、61万5000人だった。 一般には、1942年7月から翌年2月初旬までのスターリングラードの戦いが、最も多くの血が流れた戦いだと考えられている。しかし、スターリングラードでは360万人の将兵が駆り出され、両軍の犠牲者は91万2000人だった。
モスクワ攻防戦は国際社会全体の注目の的であった。現に米英日などが、この攻防戦の結果いかんの予測に従って、重要な政策決定を行っていたのである。もしドイツ軍が、モスクワ近郊で食い止められていなかったなら 第二次大戦の帰趨を含む国際情勢全般は、全く違った形で展開されていただろう。(22頁)

・攻撃を仕掛けたドイツ軍は、兵力305万人、戦車3550輌、空軍機2770機、軍馬60万頭。さらにドイツと同盟関係にあったフィンランドとルーマニアから50万人の将兵が参戦した。 続く4年間に常時平均700万人もの将兵が参加した。(80頁)

・1937年6月に始まり赤軍所属の4万人以上が粛清されていた。「砲兵隊が自国民に発砲するよりひどい。」陸軍元帥5人のうち3人、陸軍司令官15人のうち13人、海軍元帥など9人のうち8人 軍団長57人のうち50人、師団長186人のうち154人が粛清の犠牲となっていた。
フルシチョフは、あまりに多くの人間が処刑されたため、中間層や下層部のみならず、最高司令部も荒廃し切っていた。「わが軍は、内戦で経験を積んできた幹部たちを失ってしまった。」と、書いている(122頁)

・モスクワの人口は、1941/1/1では421万6000人だった。10月には314万8000人、翌年1月には202万8000人にまで減少した。人々は雪崩をうったように脱出した。(242頁)

・モスクワを離れないと決心したスターリンは、突如指導力を再び発揮し、生涯を通じて依拠してきた戦略、すなわち暴力的な力の行使に立ち帰った。10月19日戒厳令を敷いたスターリンは、NKVD部隊を出動させ、疑わしい人物がいれば、誰であろうと射殺するよう命じた。(260頁)

・ドイツ軍は、空爆によっても、それほど成果を上げることはできなかった。ロンドン大空襲のすさまじい破壊力や効果には、遠く及ばなかった。空襲で被害を受けたのはモスクワ市の建物のたった3%だった。市民の犠牲者数も2万人が死んだロンドンに比べればずっと少なかった。ドイツ空軍のパイロットはモスクワ上空での激しい対空砲火を潜り抜けるのがいかに難しいか思い知らされた。(268頁)

・ゾルゲは、「日本政府は、少なくとも今年中は、ソ連に対し戦争をしないことを決定した。繰り返す、今年中、日本は、ソ連に対し戦争しない。」この情報を受け、ソ連政府は歓喜に包まれた。
ソ連政府が、この情報を、「完全に」信用するようになったのは、ようやく9月になってからだった。
その結果スターリンは、極東ロシアの兵力の大部分を、モスクワ防衛のために送り込む決定を下した。極東地域の兵士たちは、10月からソ連の心臓部に移送された。40万人の兵士が1941年末から1942年初頭にかけて、1週間から2週間かけて移動した。25万人がモスクワ防衛のため派遣され、残りはレニングラードなどの戦闘地域に送られた。
防寒具をしっかり着こんでいた兵士の到着は、モスクワ防衛軍の状況に劇的な変化をもたらした。モスクワからほんのわずかの地点まで進攻していたドイツ軍に、衝撃を与えることになった。
10月中旬ゾルゲは最後のものになる本国への文書をしたためた。「非常に近い将来、日米戦争が勃発するだろう。」しかしこの報告が、モスクワに送られる前、10月18日、日本軍はゾルゲを逮捕した。1944/11/7、ゾルゲは絞首刑に処せられた。(304頁)

・アメリカ人記者たちには、12月7日夜から8日未明にかけて、日本軍が真珠湾を攻撃したというニュースが飛び込んで来た。
12月12日、ソ連軍の反撃が成功し、モスクワ攻防戦に勝利したと発表されると、みなあっけにとられた。地球の反対側にいる枢軸国が、モスクワからたった25マイル離れた場所で、敗北を喫したことを知っていたなら、日本軍は真珠湾を攻撃しただろうか、と自問自答した。(401頁)

・スターリンも戦後の指導者たちも、モスクワ攻防戦については多くを語りたがらない。ソ連側の被った恐るべき犠牲者数の規模についても、もちろん話を避ける。その失敗の責任の大半は、スターリンにある。モスクワ戦は、ソ連が第二次大戦で勝ち取った最初の勝利である。ただし、からくも掴んだ勝利であった。それは、想像を絶する多数の犠牲者を出した、群を抜いてすさまじい戦いであった。(433頁)

 

5. マイケル・ジョーンズ「レニングラード封鎖」白水社 2013

・1938年 軍のトップだったヴォロシーロフは、「1937~38年の赤軍粛清を通じてわれわれは4万名以上を追放した。」と豪語した。5人の元帥のうち3人が銃殺され、司令官16名のうち15人、軍団長67人のうち60人、師団長169人のうち136人が粛清された。
その彼が、1941/7/11 レニングラード防衛の総司令官に任命された。(92、104頁)

・1941年9月中に、レニングラードは23回の空襲を受け、そのうち12回は夜間。987発の高性能爆弾と1万5100発の焼夷弾が投下された。(151頁)
1941/9/8 ドイツ軍はレニングラードを封鎖。以後872日間継続した。
9/11  スターリンは、ヴォロシーロフの無策に激怒、ジューコフ将軍に代えた。
9/22  ヒトラーはこの街を抹殺することを決断した。「この都市を透き間なく封鎖し、砲火と空爆によってこれを跡かたもなく破壊すべし。降伏を要請する声が出てきても拒否される。」(64頁)

・10/2 パンの配給量が引き下げられ、事務職や被扶養家族の場合、1日200グラムとなった。「パンの小さな数切れ-サンドイッチ1個分に足りるだけ。」(202頁)
11/20 には125グラムに下げられた。(226頁)

・11/15「死は一歩ごとに見られる現象となった。朝家から出ると門口や通りで死体にぶつかる。片づける人がいないので、死体はいつまでも放置されている。」(229頁)
「大量餓死がレニングラード市内で始まった。人々の多くは他人の苦しみに無関心になりつつある。中には捕食者に変身する者までいる。誰かが倒れると、他の人はまたいで通り過ぎ、振り向こうともしない。やがて倒れた人から衣服をはぎ取り始め、パン配給券を盗むものが出てくる。」
気温は摂氏マイナス30度まで下がった。(262頁)
ある兵士の日記によると「わが軍が総攻撃を開始したという報告を信ずる者は一人もいない。今日衛兵が一人、当直中にへたり込んだ。病院に送られたが、死にかけている。自分も体を動かしたり、物を運んだりすることがほとんどできない。われわれの指揮官たちは今や互いにパンを盗み合っている。」(268頁)

・1942/1/12 市内では人肉食の問題が疑いなく起きている。77件報告されそのうち42件は1月の最初の10日間に起きた。軍事法廷に回され、すでに22名が銃殺刑に処せられた。(268頁)
ドイツ軍の状況報告書によると、「ある病院では約1200体の死体が置かれている。1月の初めには餓死者の数は1日2~3000人とされていた。この月末では噂では1日に少なくとも1万5000人が死んでいる。過去3ヶ月で20万を超える人たちが死んだ。」(278頁)
「アパートの中庭では死体から肉片が切り取られていた。近所のある家族が人食いになったから気をつけるよう注意された。」(289頁)
「中庭を挟んで住んでいて一緒によく遊んだ少女が姿を消した。その子の母と祖母が飢えで気が狂ってその子を食べたのだった。」(295頁)
「アパートの管理人がある室を訪ねてもらいたいと通報を受けた。その家が子沢山であることを覚えていた。しかし子供は二人しかいなかった。ストーブで肉を煮ているのを目にしたので、鍋のふたを少し開けて中のスープをすくってみると人間の手が出てきた。」(303頁)
人肉食がレニングラードで横行していることは公然の秘密であった。子供たちは一人で外に出ないよう言われたものだ。(305頁)
13歳の少女は空き家になったフラットから死体を撤去する手伝いをした。彼女は次から次へ死体を発見した。恐ろしいことに多くの死体が臀部を切り取られているのを目にした。彼女は震えが止まらなかった。切り取られた肉の残りが細切れにして闇市で売られているのを知っていたからである。(338頁)

・春が近づいてくると伝染病の脅威が降りかかってきた。(339頁)

・1942/6  ゴヴォロフ中将が レニングラ-ド方面軍の新司令官になった。45才の砲兵戦術の専門家だった。
1942/12  燃料と電力の供給が進み状況は随分改善された。
1943/1/12  赤軍の反撃が開始された。赤軍の砲撃が2時間20分続いた。
1/18 午後11時「レニングラードの封鎖は打破された。」との短いラジオ放送がなされた。

・スターリンは、レニングラードでどれほどの餓死者が発生したかを公表するのを望まなかった。
レニングラード人の勇気と英雄的行為を語るのは必要だが、飢餓については一切語ってはいかぬと言われた。(286頁)

・封鎖の完全解除を目指すレニングラード・ノヴゴロド作戦の赤軍の総勢は約125万で、ドイツ軍の2倍以上だった。
1/15 午前9時20分から11時50分まで赤軍砲兵隊は50万発以上の砲弾とロケット弾をドイツ防衛隊に浴びせた。
1/27 ゴヴォロフは発表した。「レニングラードんは完全に解放された。」872日間の封鎖は終わった。

・レニングララード封鎖の凄惨な側面-とりわけ大量餓死についての情報はすでに封鎖の期間中から、当局の検閲により、国内に向けても、国外(連合国)に対しても厳しく統制されていた、。(414頁)

 

6. 栗原俊雄「シベリア抑留」岩波新書 2009

・1945/8/9  ソ連軍は満州に攻撃を開始した。
兵員 160万人、戦車5000両、飛行機5000機。
対する関東軍は70万人、戦車200両、飛行機 200機。
日本人は50万人、うち27万人は開拓移民団。
敗戦によりうち18万人、開拓移民団のうち8万人が死んだ。

・1941/4/13  日ソ中立条約が調印されていた。一方が第三国と戦う場合、他方は中立を守るという内容であった。
1945/4/5  ソ連は日ソ中立条約を延長しないと伝えてきた。あと1年は有効だった。
1945/8/8  佐藤駐ソ大使にモロトフ外相は、宣戦を布告した。
9/2  ミズーリ号上で日本政府代表の重光葵外相が降伏文書に調印した。
その後もソ連の侵攻は続き、9/5  千島列島の南、歯舞諸島に進み列島全域を占領した。

・それより先 8/16  スターリンは、南樺太、千島列島の領有のみならず、北海道東沿岸の釧路から西沿岸の留萌を結ぶ線から北をソ連が占領する旨を提案していた。トルーマンは 8/18  これを拒否。 8/23  スターリンは「極秘司令」を発した。
「日本の捕虜50万人をソ連とモンゴルの10地域に配置し、働かせるべし」というものだった。
第二次世界大戦に伴ってソ連が抑留し強制労働させた捕虜は、ドイツ238万人、日本64万人。
収用所 2000ヶ所、抑留は最長11年。
日本調査によると、終戦後、ソ連により強制抑留された日本人は、57万5000人、軍人軍属が9割。死者は8万人。(43頁)

・ドイツ人捕虜に対する印象は、称賛と驚嘆だった。日本人捕虜のようにノルマ以上に働いてノルマを引き上げ、自らの首をしめるようなことはしない。最低限の仕事をしてソ連の監視兵の目を盗んでさぼる。日本人捕虜は、半ば強制され「自主的労働」を申し出るが、ドイツ人はそんなことはしない。末端の兵までが国際法を熟知し、主張すべきことはきちんと主張する。そもそも、文化的に自分たちのほうが優れていると確信しており、ソ連を見下していた。(92頁)

・1949年ジュネーブ条約(日本の批准は1953年)によれば、捕虜の労賃は捕虜の所属国が払う。使役する側の国は捕虜の帰国の際、労働賃金の支払額を明記した「労働証明書」もしくは「労働賃金計算カード」を提供し、帰還者が本国でこれを提示すると、所属国は未払賃金を支払わねばならない。
日本では条約を批准した1953年より前に帰還した抑留者が大半で、支払いはなされなかった。
西ドイツでは、特別法を制定し、抑留期間に応じて、約80万円を上限とする補償金を支払った。

・「戦陣訓」に見られるように、日本の軍隊では、捕虜になることは恥辱と考えられた。捕虜となった場合に国際法で認められている権利について、兵士が教育されることはなかった。この捕虜を軽んじる風潮は、戦後の救済措置にも影響しているように見える。(152頁)

 

7. ゴルバチョフ回想録

(書記長)

郊外の別邸に戻ったのはかれこれ午前4時だった。ライサ(妻)と庭に出た。モスクワに住むようになった最初の日から、何か重要な話はアパートでも別邸でも部屋の中では決してしなかった。私は彼女に、もしかしたら私を書記長に選出するという提案が出るかもしれない、と伝えた。

「いいかい、僕は、何か成し遂げることができるだろうという期待と信念をもってモスクワにやってきた。しかし、これまでのところ成果は少ない。だから、僕が何かを本当に変えようと望むなら、この提案を受け入れなければならない。もちろん、みんなが賛成したらの話だが。今までのやり方ではもう駄目なんだ。」

 

(ペレストロイカ)

私の人生の結論の一つは、未来は、さまざまな偉大な思想、それらに相応する社会主義的、民主主義的、自由主義的などの社会制度と、普遍的な分母である人道主義との融合という二つから作りあげられる、ということにある。

 

(共産党)

政治改革のポイントは、ソ連共産党の権力独占を排除することであった。ソ連にとってこのことが不可欠である、という認識をあの当時私はいささかも疑わなかったし、その見解は今も同じだ。

 

(1990年党大会での演説)

「市場経済の優位性は、世界的規模において証明された。現在の問題は、社会主義制度の特質である労働者階級の十分な社会的保護を保障できるかどうか、という点だけである。その答えは次のようになる。「管理市場経済」の導入によって単にそれが可能になるだけでなく、社会的富を増やし、その結果、全国民の生活水準を向上させる成果が生まれる。」

 

(社会主義)

社会主義思想とは何か。私は次のように考える。
与えられた条件の下で可能な限り、社会的公正が最大限に保証され、人々が自分の才能と創意を発揮でき、同時に国家が社会的弱者層の生活をしかるべく配慮するような、社会的機構を作ることを目指す。これにしっかりした民主的制度、法制、自由選挙、平和愛好的外交政策を加えれば、これこそ、自己や同国人、全世界に幸福を願うすべての良識ある人々が承認するミニマムであろう。

 

(ソ連大統領退任)

ブッシュ米国大統領(電話で)「ひとこと個人的なことを言いたい。貴方、私、ジム・ベーカーの三人の間に築かれた関係について、貴方は実に好意的でありがたい言葉を語ってくれた。同時に貴方の言葉は私の言葉と全く同じなのだ。私と貴方が近い将来、再会できることを期待しているよ。いつでも大歓迎だ。事態が落ち着いたら、例えばキャンプ・デーヴィッドへ来ないか。今後どのような状況が起ころうとも二人の友情はそのままだ。このことだけは断言しておきたい。」

私の退任に際して何の儀式もなかった。CIS諸国の首脳は誰ひとりとして私に電話も寄越さなかった。大統領退任の当日も、さらにその後も。そのときから2年以上も経つというのに。

 

8. ドミートリー・トレーニン「ロシア新戦略」作品社 2012/3

・1991年にソ連が崩壊してから20年経った。
ソ連時代の核兵器はウクライナ、カザフスタン、ベラルーシに配備されていたものも1994年までにロシアに撤去された。(27頁)
ロシアはかってのソ連の4分の3の大きさである。

・ソ連崩壊の直後ロシア人の多くは、人口の多い中国人が浸透してきて、ロシアの人口の希薄な地域を占拠してしまうことを恐れた。20年経った今、中国の膨張は恐れられていない。中国人は、もろもろの移民がモザイク模様をなす中に自分たちの居場所を築き、その外側ではあまり冒険しようとしない。面白いことに、ロシアの年金生活者のなかには、生活費が安く安心して住める中国の隣接都市に移住する者が出てきている。(106頁)

・ソ連崩壊後300万人の旧ソ連国民が、ヨーロッパ、イスラエル、アメリカに移住した。ソ連から独立を認められたかっての周辺地域にいたロシア人は2500万人に上る。現在のロシア連邦で民族的な意味でのロシア人は5分の4である。

・ロシア人は、国の政治・経済・社会、そして精神的なものすべてが突然崩壊するというトラウマを経験しているために、私的な生活の方を大事にするようになった。国旗の色とか、国境の線引とか、政府の陣容などにはかまわない。血縁、地縁、そしてコネは残っている。かつては共同体を重んじ、強く愛国主義的であったロシアは、個々人の中に閉じこもってしまった。(116頁)

・プーチンは、今日的なロシア保守主義とでもいえるものを推進した。これは反共産主義であると同時に反リベラルでもあるものだ。その基本的な価値観は、権威主義的な国家、そして政治権力の集中である。経済力は政治力に根差すものとされて政治に従属する。更にそれに、宗教的な価値観(特にロシア正教の)、愛国主義、外交戦略における自立性の維持、そして大国としての地位の保持が加わる。(118頁)

・エネルギー資源輸出におけるロシアのパワーは、その核兵器の力にたとえられることがある。それは、ヨーロッパの輸入国に対して巨大な圧力手段になるとされている。だが、本当のところは、ロシアは一つの要因、つまり原油価格に極端に依存しており、その変動に対して脆弱なのである。(130頁)

・1990年の時点ではロシアのGDPは中国とほぼ同等であった。20年後中国のそれはロシアの4倍になった。(231頁)

・ホドルコフスキーが逮捕され、その会社ユーコスは1年も経たずに解体され、国有化された。そしてロシアの石油・ガスから金属までの主要ビジネスは、直接又は間接的にクレムリンの統制下に入った。
ロシアの半分以上の貿易がEUと行われ、20%がCIS内で、約10%がアジアと行われている。

・エネルギーは、ソ連崩壊後のロシア経済にとってとてつもない重要性を有している。2000年にはエネルギー生産はロシアのGDPの25%を占めている。(266頁)

・ウラル以東のロシアの人口、とりわけ太平洋沿岸部のロシアのそれ(2500万人、そのうちバイカル湖以東の住民は500万人に満たない。)が非常に少なく、併わせてロシア連邦全体の人口に匹敵する中国東北部三省それぞれの人口にたやすく凌駕されてしまう。(196頁)

・国境は必ずしも変更すべきものとはならない。しかし、経済的には、太平洋沿岸ロシアならびにシベリアは、中国の資源基地そして同国の勢力圏になるだろう。(313頁)

・ユダヤ人は20世紀初のロシア帝国にいた520万人、ソ連解体時の140万人から、2002年にはわずか22万8000人まで落ち込んだ。イスラエルには強力なロシア語話者のコミューニティーをもたらした。彼らはイスラエルの人口のおよそ2割に達した。ロシアとイスラエルとの間の人的交流を盛んにしており、ロシアの対中東政策は、この新しいファクターにより形づくられている。(327頁)

・ロシア人にロシアがなしえた世界史への最も重要な貢献を尋ねたら、彼らはおそらくナチスに対する勝利を挙げるだろう。ソ連解体に倍加するほど重要なこの事件は 国民意識を作り上げていく唯一前向きにとらえられる柱なのである。大半の一般のロシア人にとって、大祖国戦争は依然神聖なものである。祖国ソ連は20世紀の悪の権化・ナチズムを打倒したのだ、と。(354頁)

・1989年、人口のおよそ75%が無神論者であると自認し、正教徒であるというのは20%未満であった。20年後、その比率は逆転した。ロシアでは教会に行く人数は著しく伸びているものの、礼拝を欠かさないという信徒は、実際のところは公称の数字のわずか2~4%に過ぎないと見られる。(366頁)

 

▲ ページ上部に戻る

 

C. アメリカ

1. ハリエット・アン・ジェイコブズ「ある奴隷少女に起こった出来事」原著1861 訳書大和書房 2013

・私と同様に、いまだ南部で囚われの身である200万人の女性が置かれている状況について、北部の女性にご認識いただきたいと思います。今も迫害を受けている仲間のために、この力足らずの本に、神の祝福が宿りますように。(2頁)

・両親の肌の色は、黒人としてはとても白く、茶色がかった黄色で、混血と見なされていた。(19頁)
祖母は白人入植者と奴隷との間でできた。
祖母の奴隷所有者が亡くなり、祖母の5人の子供たちは、相続人の間で平等に分けられた。(21頁)

・母が亡くなったのは私が6歳の時、そのとき周囲の会話から初めて自分は奴隷なのだと知ることとなった。

・12歳の時女主人であったお嬢様が亡くなった。(23頁)
お嬢様の遺言により当時まだ5才であったお嬢様の姪の奴隷となった。その父がドクター・フリントだった。弟も一家の奴隷となった。父も亡くなった。

・ある奴隷がプランテイションから連れてこられ、足が地面につかないぎりぎりの高さで天井の梁から縛って吊るしておけと命じられた。人間が立て続けに何百回も打たれる音を聞いた。男がその妻に生まれた子供の父親は自分ではなくドクター・フリントだと責めたというのだ。夫婦は黒人だったが、子供の肌の色はとても白かった。夫婦は二人とも売られた。奴隷が自分の子供の父親の名前を明かすことは犯罪であった。(34頁)

・新年のある日、奴隷の母親が7人の子供を連れて競売場に行くのを見たことがある。子供たち全員が残ることはないとは覚悟していた。しかし結局は、一人も残らなかった。全員が奴隷商人に売られ、母親は同じ町の男に買われた。奴隷商人は、一番高い値を払う主人に一人ずつ売り歩くのだ。(38頁)

・ご主人(ドクター・フリント)は、私の知る限り、11人の子供を自分の奴隷に産ませていた。しかし、母親たちが父親の名前を口にしただろうか。そんなことをすればどんなひどい目に遭うか、奴隷たちは十分知っていた。 肌の色がまちまちな子供らが、色白の自分の赤ん坊と遊び、子供たちはみんな自分の夫を父として生まれたと、主人の妻には十分すぎるほどわかっている。やがて嫉妬と憎しみが入りこみ、その美しさを破壊するのだ。(59頁)

・奴隷の結婚は法的には許されない。(60頁)
法は、「子は母の身分に付帯する条件を引き継ぐ。」と定めていた。(96頁)

・もう二度と子供たちと一緒になれないかもしれない。でも、それでもいい。彼らが奴隷になるよりは、それでいいのだ。私の色の白い娘を待ち受ける運命のことは分かっていた。私は娘を救ってみせる。でなければ、私は自滅するまでだ。(118頁)

・次のような懸賞広告(実際のもの)が町から数マイル四方のすべての街角や公共施設に張り出された。
「100ドルの懸賞金-ハリエットという名の奴隷少女、21歳の色白の混血。巻き毛がかった黒髪だが、直毛にもできる。」(131頁)
サンズ氏 (子供たちの父)は、商人をドクターに送り込み、弟ウィリアムには900ドル、子供たち二人には800ドルを提示して買い取りを申し込んだ。
同氏は1837年下院議員に当選した。子供たちを自由にし、教育も受けさせるという約束は結局守られなかった。(195頁)

・光も空気もほとんど入ってこず、手足を動かす場所もなかった小さな屋根裏の穴倉に7年間隠れていた。(209頁)
29才の時、ニューヨークへの脱出に成功した。(234頁)

・逃亡奴隷法が1850年にニューヨークで成立した。州を越えて逃亡した奴隷を返還させる法律である。
雇い主のブルース夫人は、夫人の子供の一人を連れてニューイングランドに逃げることを勧めた。
「この子と一緒にいる方があなたにとって良いのです。もしも、あなたが追跡されても、彼らはこの子を私のところに連れ戻す義務があります。そのとき、あなたを助けられるなら、必ずあなたを助けます。」(276頁)
ドクター・フリントの手先が私の行方を見失い、当面の追跡をあきらめたと思われるまで赤ちゃんと一緒に1ヶ月田舎に留まった。
ブルース夫人は、私に知らせないまま、私の所有者と交渉して即金300ドルで私を買い取った。(285頁)
身内のどんな腐心も徒労に終ったが、神は見知らぬ人々の中で、友を私に授けて下さった。そしてその友は、ずっと願いながら得られなかった貴重な恵みを私にもたらしてくれた。
私がブルース夫人を友と呼ぶ時、それは聖なる響きを持つ。

・訳者(堀越ゆき)あとがき より
約150年前に書かれた本書は、出版後約100年はアメリカにおいても完全に忘れ去られていた。
1987年に歴史学者が細かな裏付けをとり、本書がハリエット・アン・ジェイコブズ(1813-97)の事実に忠実な自伝であることを確認した。
いまや世界の古典的名作の一つとして大ベストセラーとなっている。

 

2. ドリス・カ-ンズ・グッドウィン「フランクリン・ロ-ズヴェルト」 原著 1994  中央公論新社 2014

・1940年、アメリカ陸軍の軍事力はせいぜい世界で18位であった。ドイツでは何年もの義務的軍事訓練が課される上に、人口のほぼ10%(680万人)が即戦力となるための訓練を受けているのに対し、合衆国の現役兵および訓練済みの予備役兵の合計は人口の5%以下(50万4000人)であった。5/10ドイツが西部戦線に仕掛けた攻撃は総計136個師団によるものだったが、合衆国が有事の際に召集できる完全装備の部隊はわずか5個師団であった。(上29頁)

 

・ローズヴェルトが考案した国防諮問委員会(NDAC)は、7名で構成される助言者的な委員会で、実業家とニューディール支持者とを半々で混在させるというものだった。
実際の生産過程そのものを指導する重要な任務は、典型的な叩き上げのGM社長、生産と原材料を取り仕切らせるためUSスティールの会長、輸送を指揮させるため、シカゴ・バーリントン&クインシー鉄道の会長を引き入れた。この男たちはこの7年間、ニューディール政策に対する抵抗の中核だった。
CIO設立の際にジョン・ルイスの右腕になったヒルマン、物価担当として口うるさいニューディール派のヘンダソン、消費者の代表として学者、農産物の責任者としてFRBの委員。
大統領は相手が実業家であろうとニューディール派であろうと保守派であろうとリベラル派であろうと、防衛事業における自らのリーダーシップを譲り渡そうとはしなかった。「国防を口実にして、大企業はニューディール政策による社会改革立法を無効にし、労働運動を弱体化させようとしたのだ。だがローズヴェルトが国防に関する最終的な権力を掌握している限り、そのような試みは成功しなかった。」(85頁)
ローズヴェルトは炉辺談話で述べた。「これから行なうことのせいで、私たちがこの数年間で達成した大きな社会的成果がひとつとして頓挫したり取消しになってしまわないように注意しなければなりません。社会的、経済的不平等に対して、また社会を脆弱化させていた悪弊に対して、私たちは広い戦線を張って攻勢をかけてきました。その攻勢が、眼前の軍事的防衛のために必要な兵器等を盾にして私たちの戦線を破壊しようとする人々の挟み撃ち的なやり方によって頓挫してしまってはならないのです。」(89頁)

 

・英仏海峡からイングランド南岸の何十もの小さな港から、ヨットやトロール船、砲艦や駆逐艦、モーターボートや救命ボートなど大小さまざまな船で構成された奇妙な艦隊が、海峡を横断してダンケルクに向かった。そこから9日をかけて、まだ炎をあげている廃墟や焼夷弾や高波の中を34万近くの兵士がイングランドの海岸に逃げ帰ったのだ。
連合国軍の最後の部隊が無事イギリスの土を踏んだ時、チャーチルはイギリス議会で演説をした。
「我々は意気阻喪することもくじけることもない。最後まで戦うのだ。我々はフランスで戦い、海や大洋で戦うのだ。・・・いかなる犠牲を払おうとも、我国土を死守するのだ。我々は海岸線で戦い、上陸地点で戦うのだ。我々は野で、街で、丘で戦うのだ。我々は断じて降伏しない。万一この島が、あるいはこの島の大部分が征服され飢えることになろうとも、その時には、我が大英帝国がイギリス艦隊の護衛を受けて武装して海のかなたから馳せ参じ、戦いを続行してくれるだろう。そしてついには、新世界が、神の定め給うた時に、その力の限りを尽くし、旧世界の救済と解放のために踏み出してくれるのだ。」(94頁)

 

・1940/6/1 イタリアが参戦しドイツ側に就いた。べニ-ト・ムッソリーニは、これ以上参戦を遅らせると彼の援護を待たずにフランスが降伏してしまい、戦利品に与るチャンスを失うことを恐れたのだ。ローズヴェルトはスピーチで「短刀を握った手が、隣人の背中にそれを突き刺した。」と批判した。(102頁)

 

・7月中旬に、4万名に上る日本部隊が天然ゴムの豊富なインドシナに侵攻して瞬く間にその国を占領すると、大統領はついに報復行動をとることに同意した。合衆国内の日本人の全資産を凍結し、パナマ運河は修理のため閉鎖すると通告し、ハイオクガソリンを全面的に輸出停止にした。(425頁)
日本はアメリカの禁輸解除の見返りに、インドシナからの部隊を撤去し軍隊を現在位置を最終進駐地点とするとの約束には応じたが、中国からの完全な撤退は拒絶した。ローズヴェルトは一時日本軍の中国からの部分的な撤退を承認するとも見えたが、中国国民党を率いる蒋介石からの強い抗議が合衆国の立場を硬化させた。(452頁)
7月に日本の秘密暗号を解読した陸海軍の諜報専門家たちが、12/6 午後、東京から日本の駐米大使にあてた通信文を傍受した。ハルの10項目の要求に対する14部からなる回答電報の発送に関するもので、最初の13部はその日の晩の遅い時間までに送信されており、14部目は翌日の朝送られると伝えていた。最初の13部を解読するとそれはハルの提案をことごとく拒否していた。翌 12/7(日)朝に到着した14部目は、外交交渉の打ち切りを告げていた。その数分後に、14項目すべてを網羅した返事を午後1時ちょうどにハル国務長官に渡すように、と野村喜一郎駐米大使に指示した第2便が入ってきた。
マーシャル大将は太平洋各地のアメリカ軍司令官に優先送達電報を送った。「本日、東部標準時間午後1時、日本から最終回答到着の予定。その時刻設定の意味するところ不詳。されど警戒されたし。」
盗聴防止機能付きの電話での安全性が確信できず、マ-シャルは民間の会社から電報で送ることを選択した。警告はマニラ、パナマ、ついでハワイに送られた。電文がホノルルの電信所に到着した頃には、真珠湾への攻撃はすでに始まっていた。(459頁)
現地時間の午前7時半過ぎ、日本の第一波空中攻撃隊189機が真珠湾を襲撃し、無防備な艦隊に大量の魚雷形爆弾を投下した。空母全3隻を含む艦隊の半数は幸運にも他の場所に移動していたが、真珠湾に残っていた艦隊は数分のうちに対空砲火は全く作動せず、1機の戦闘機も空中発進できないうちに戦艦全8隻と駆逐艦3隻、軽巡洋艦3隻が爆撃された。(460頁)

 

・ポーランド問題が落着すると、ローズヴェルトは、対日戦へのロシアの協力を確保するという本来の目的に戻った。多大な犠牲を伴う硫黄島と沖縄への攻撃が始まろうとしていた。アメリカ軍の司令官たちは、対日戦はドイツの降伏後少なくとも18ヵ月続くと見ていた。原子爆弾の最初の実験は今後5ヵ月間は行われないだろう。
これらすべてのことを胸に刻んで、ローズヴェルトはスターリンと秘密協定を結んだ。 その中でスターリンは、ドイツ降伏から二、三ヵ月以内に日本に対して戦争状態に入ることを約束した。その代わりにローズヴェルトは、極東におけるロシアの要求、すなわち、日本からの南樺太の奪還、日本領土である千島列島の併合、旅順港の海軍基地としての借用、大連国際港の使用権、満州鉄道の中国との共同支配権などの承認に同意したのだ。(下404頁)

 

・スティムソンは、「原子爆弾は夏の中盤には実験準備ができる予定」で、太平洋戦争に多大な影響を与えるのに十分間に合いますと約束した。
アメリカがその武器を使用を目的として開発していることに疑問の余地はなかったが、それに先だって、原子爆弾の実験的投下が行われ「しかる後に日本に対して、直ちに降伏しないならば、日本の本土に使用されるだろうと通告した上で」投下することは可能だろうか?という問題が残っていた。戦争終了後の将来の管理に関しても結論は出ていなかった。ローズヴェルトは結論に関しては何も言わなかったが、この広範にわたる会話に満足して、スティムソンは帰っていった。上司の姿を見るのはこれが最後になるとは思いもしないで。(418頁)

 

・第一級の軍人チーム ― マーシャル、キング、アーノルド、レイヒ―を編成し、彼らに戦争を遂行する上での大きな自由裁量権を与えた。
だが、重大な岐路においては、軍事顧問たちの抵抗を押しのけて作戦を強行する勇気を持っていた。軍事顧問たちがロシアには持ちこたえる可能性がほとんどないと確信していた時に、ローズヴェルトは、ロシアを武器貸与法の参加に引き入れた。熱い論争を呼んだ北アフリカ進攻を自ら決断し、またマッカーサーにフィリピン奪還を許可した。B-29超爆撃機の製造に賭け、実験的な原子爆弾に20億ドルを費やす決定をし、連合国に戦争終結前に戦後体制の構築に取り組むよう要請したのもローズヴェルトであった。(449頁)

 

・最も信頼のおける推定によれば戦争による死者の数は5000万人とされている。
ソ連は1300万人の戦闘員と700万人の民間人を失った。
ドイツは360万人の市民と320万人の兵士を失った。
日本は200万の民間人と100万人の軍人。
600万人のユダヤ人が虐殺された。
イギリスとイギリス連邦の死者は48万。
合衆国は戦闘による死者25万と敵の攻撃以外の事由による死者11万。(469頁)

 

3. マイケル・ドブズ「ヤルタからヒロシマへ」白水社 2013

・1945/2/3 のヤルタ会談に臨むルーズベルトは、「急速に衰える健康状態は覆うべくもなかった。この数ヶ月の間に40ポンドほど痩せており、骸骨のように見えた。血圧は手の施しようがなく、時には150を超えて260までになった。」第四期の就任式のわずか2日後、危険であり自殺行為にもなりかねない大西洋横断の旅行を決断した。彼は米国将兵の犠牲を最小限におさえて、勝利を確実にしたかった。(15頁)

・チャーチルが 終戦までに「ドイツ軍のはらわたを抜き取る主たる仕事をした」のは米国でも英国でもなく、ロシアだと結論したのは正しかった。(32頁)

・ロシアが対日戦争同盟国になれば、戦争はより短時間に、より少ない犠牲で終わらせることができる。問題はスターリンが対日参戦の代償としていかなる対価を要求するかである。(32頁)

・概して米国は英国ほどロシアを疑っておらず、赤軍を差し迫った脅威とは見ていなかった。(77頁)

・ポーランドを西方へ200マイル動かすと、二つの目標を同時に達成できる。第一次大戦からの離脱の代償として1918年に屈辱のブレスト・リトフスク条約で レーニンが無理やり割譲にサインさせられたすべての領土を一気に回復できる。同様に重要な点は、ポーランドがドイツの広大な土地を併合する結果、ソ連による安全保障に依存するようになることだ。(83頁)

・スターリンが第二次世界大戦での勝利の褒章として欲しがっていたのは、東ヨーロッパだけではなかった。帝政時代の屈辱的敗戦を是正する領土上の譲歩を日本と中国から引き出し、広大な帝国を東方へ拡張したかった。
2/8(土)スターリンとルーズベルト二人による30分の会議でロシアが参戦する秘密取り決めがまとまった。
スターリンは、ドイツ降伏から「2、3ヶ月以内」に日本に宣戦布告する。引き換えに、ロシアは日本からサハリン島の南半分と千島列島を獲得する。
千島列島の南部分がロシアの一部であったためしはなく、米国国務省は「歴史的・民族的に日本」とみなしていた。(96頁)
スターリンは後で米国の譲歩についてスタッフと協議した際、「いいぞ、非常にいいぞ。」と呟きながら書斎の中を行き来した。
ルーズベルトの最大の眼目は、米兵の死傷者を減らすことだった。原爆は未完成で実験も済んでなかった。日本に対し、島を渡る長期の飛び石作戦を立案しているが、これはドイツの敗北後、18ヶ月かかる可能性がある。

・ヤルタの蜜月は短命、悲観的な人々が想像したよりもっと短命だった。(170頁)

・2ヶ月後の 4/12 ルーズベルトは脳出血のため63歳で死亡した。

・4/25 トルーマンは、4ヶ月以内に原爆をほぼ確実に完成できるとの報告を受けた。トルーマンは就任後わずか2週間足らず。ヨーロッパは瓦礫に埋もれ、日本は本土決戦の準備をしている。東には新たな超大国が出現しつつある。これらすべてに加え 数世代の政治家の想定を確実にひっくり返してしまう兵器が開発された。それがいったい何を意味するのか側近たちにもコンセンサスがなかった。(230頁)

・ソ連の戦死者はおそらく2600~2700万人、そのうち1000万人は戦場ないし捕虜収容所で死亡していた。戦前の人口の14%、有形資産の4分の1、国富のほぼ3分の1を失っていた。スターリングラードでは、無傷で残った建物は1棟だけ。鉄鋼生産は33%、石油生産は38%、トラクター生産は76%が減少した。(296頁)

・日本本土進攻をした場合、米将兵10万人が死ぬ可能性がある。内心で一定の苦悶はあったものの、経験の浅い大統領は、自分以上に年季の入った顧問たちの結論に異を唱える立場になかった。原爆投下は1945/6/1 に事実上決定された。

・7/17 トルーマンとスターリンは、ポツダムで会談した。スターリンは対日宣戦布告と満州占領というヤルタでの約束を守るつもりだと述べた。「8月15日にジャップとの戦争に入る。」
三国間のポツダム会談の途中、トルーマンは、プルトニウム爆弾の実験の成功の報をひそかに受けた。トルーマンは、チャーチルには知らせたが、スターリンにも知らせるかどうかが問題だった。
スターリンはトルーマンに、天皇がモスクワ駐在大使経由で終戦交渉を望んできたことを知らせた。米国の暗号解読者が日本の外交暗号を解明していたが、トルーマン知らないふりをしたままだった。(393頁)

・一見したところ、スターリンにはトルーマンとチャーチルにソ連占領下のドイツのど真ん中、ポツダムでの会談を説得することで大勝利を得たように思われた。
だが、西側首脳をベルリンに招くことによって、数千人の英米外交官や軍将校が初めて、ソ連専制の現実を目のあたりにした。ソ連管理区域で起きていることを目にするや、彼らはたちどころに見方を変えた。ソ連軍によるドイツ工場の略奪とドイツ女性に対する集団強姦に関する話を交わしあっていた。
ヘンリー・スティムソンは、原爆研究の成果をロシアと共有するという考えを修正し始めていた。(404頁)
対日参戦は、以前は数十万の米兵の犠牲を避ける唯一の道と思われたのだが、原爆は日本に降伏を強いて、ロシアが殺戮に加わり見境のない領土割譲を要求するのを防ぐことになる。
トルーマンは、軌道を走る列車を止められないのと同じように、もはや止めることはできなかった。原爆投下命令は、ポツダムにいる陸軍長官と陸軍参謀総長の名で発出された。標的は、広島、小倉、新潟、長崎。(426頁)

・ポツダム会談の最後にもう一仕事残っていた。トルーマンは意味のない社交辞令を交わそうとするかのようにスターリンの方にぶらりと寄った。大統領は二重舌のそしりを受けないように、ソ連に詳細は隠したまま原爆の存在を知らせようと決めていた。できるだけさりげない調子で、米国が「並はずれた破壊力のある兵器」を開発したことを話した。「それはうれしいことです。日本に対して有効に活用されることを期待します。」と元帥は答えた。
チャーチルも米国側もスターリンは教えられたことの重大性を全く理解していないと思った。(429頁)
スターリンの呆然とした表情は詭計だった。米国中に張り巡らした核スパイ網のおかげで、彼は、大統領になる前のトルーマンよりもマンハッタン計画についてずっとよく知っていた。彼は、原爆開発を加速するよう命じた。ソ連の原爆開発は少なくとも2年先になるが、米国が爆弾2、3個分の核分裂物質しか持っていないことをスパイを通じて知っていた。(431頁)
スターリンは、満州侵攻を10日から14日前倒しする秘密命令を発した。(442頁)

・8/6 大西洋上のトルーマンに原爆が16時間前に日本に投下されたとの電報が入った。「結果はあらゆる点において明確に成功。」
トルーマンは破顔一笑した。日本との戦争が事実上終わったことを彼は疑わなかった。パールハーバーの復讐は遂げられたのだ。(454頁)

・モスクワに戻ったスターリンは、原爆は日本にではなく、むしろソ連を狙っているのだとする点で、モロトフも同じだった。
8/7 スターリンは、8/9をもって満州に対する作戦を開始するよう命じた。日本が降伏する前にソ連軍が満州を占領することが死活的に重要だった。(456頁)

・スターリンの行動はぎりぎり間に合った。赤軍が満州攻撃を始める10時間後、米空軍は長崎に2個目の原爆を投下した。6日後の 8/15 日本は降伏した。日本に最後のとどめのパンチを見舞う競争は、事実上の同着で終わった。
スターリンは、日本の戦後処理で、一切の発言を封じられたことを恨んでいた。トルーマンは、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアにおけるソ連支配下の体制を承認する気はなかった。トルーマンは、ベルリンでの米国の足場をを手放さない覚悟だった。火種はいたるところにあった。(469頁)

 

4. ジェントリー「フーヴァーFBI長官のファイル」1991

48年間FBI長官を勤め、8人の大統領と16人の司法長官に仕えた。1972年、77歳で現職のまま死んだ。

フーヴァーは、アメリカ版ゲシュタポをつくったと彼を非難したファースト・レディ、エレノア・ルーズヴェルトを憎悪した。ルーズヴェルトが世を去ってもう恐れる必要がなくなると、FBI長官は、さまざまな男性や女性と夫人の情事と称するスキャンダルの噂をばらまいた。

「糾弾が嘘だというなら事実を見せろ。」と言い逃れたマッカーシーは、ヒスの有罪判決が出て意気盛んだったニクソン下院議員にも働きかけ、下院非米活動委員会のファイルを見せてもらったようだ。だが、最大の援護射撃をしてくれたのは友人のフーヴァーだった。

それから数日にケネディー家の3人の間に何が起こったかは想像するしかない。ロバート(司法長官)は、ジョン(大統領)に、事実かどうかはともかくとしてフーヴァーが噂を信じていると警告したと思われる。ロバートは、父と対決して事実かどうかを問いただし、喚いたり怒り狂ったりしたらしい。
海辺の太陽を浴びていた父親は大発作をおこした。彼はそれから8年間永らえたが、二度としゃべることはできなかった。その間に2人の息子が暗殺された。

1962年、ニューヨーク・タイムズは、ジョージア州の小さな町のFBI捜査官が人種差別主義者に味方していると、マーティン・ルーサー・キングが非難していると報じた。「地位を守るために彼らは地元警察や人種差別の推進者と馴れ合う必要があるのだ。」こうして彼は敵を作り、生涯どころか墓に入ってからまでしつこく復讐されることになった。

キッシンジャーの部下のへイグがサリヴァン(FBIのナンバー・スリー)のオフィスにやってきて、4人の人物の盗聴を依頼した。3人は、国家安全保障会議のスタッフで、もう一人は国防総省の次官補だった。最高権威(ニクソン大統領かキッシンジャーだろうと思った。)からの要請で、「国家安全保障上極めて深刻かつ重大な事柄がからんでいる。」とへイグは言った。

 

5. レイチェル・カーソン「沈黙の春」1962

人類全体を考えたときに、個人の生命よりも大切なのは、遺伝子である。それによって私たちは過去と未来に繋がっている。長い長い年月をかけて進化してきた遺伝子のおかげで、私たちは現在の姿をしているばかりでなく、その微小な遺伝子には、良かれ悪しかれ、私たちの未来のすべてがひそんでいる。いまでは人工的に遺伝子がゆがめられてしまう。ここでまた化学薬品と放射線が肩を並べあう。

 

6. 「ベスト・アンド゙・ブライテスト」(ヴェトナム戦争史)ハルバースタム1972

ケネディは、たまたまパーティを開いていた自分のヨットでマンスフィールドを招き、その場で彼の報告書を読んだ。読むにつれケネディの顔は怒りで紅潮していった。大統領は、上院における最も近しいこの友人に向かって、噛みつくように問いただした。「これをこのまま信じろとでもいうのかね。」「サイゴンに行ってほしいと言われたのは大統領ですよ。」マンスフィールドは答えた。いまやケネディは、顔面を蒼白にした。

1964年、マクナマラ国防長官のジョンソン大統領に対する報告書

  「我々は、独立した非共産主義の南ヴェトナムを求めている。南ヴェトナムでこの目的を達成できないとすれば、東南アジアのほぼ全域は、共産主義者の支配するところとなるおそれがある。共産主義者の解放戦争と戦う国を助ける能力が、アメリカにどれほどあるかを見極めるテストケースとして、ヴェトナム紛争は見られているからである。」

1964年から65年はじめにかけてマクナマラは、異常なまでに強硬であった。北爆は効果をあげないかもしれない。だが、それに代わる案があるのか。敗北を受け入れるのか。撤退せよというのか。

1966年6月、その後数ヶ月のうちに明らかになったことは、ガソリンや石油の貯蔵施設に対する爆撃が一見成功を収めたように見えながら、これまでの北爆と同様、ほとんど何らの実質的効果を及ぼさなかった。北ヴェトナムは、石油を空爆にさらされない地域に分散貯蔵した。その間に北ヴェトナムは、ソ連からの大量の石油供給の約束をとりつけた。

1967年4月、この時点でヴェトナムに派遣されているアメリカ軍兵力は47万人であったが、ウェストモーランド司令長官は1968年6月までにこれを68万人にひきあげることを主張した。だがこれらの増派をもってしても事態は楽観を許さない。最高68万人の兵力がなければ、戦争に敗れることはないにしても、進展は思わしくない。われわれが攻勢をかければ必ず相手は反撃に出てくるのだ。

1968年、選挙参謀は、はっきりと大統領に言った。 ウィスコンシンの予備選挙で35%以上の得票を期待してはいけない。 実際蓋を明けてみれば30%ということも覚悟しなければならない。 リンドン・ジョンソンは、自分が敗北したことを知った。ヴェトナムで思うような措置に出て、なおかつ再選を期すことは不可能である。明らかな政治的敗北を喫する代わりに、彼は投票日の前日、自ら再出馬の意向のないことを明らかにするとともに、北爆を中止することを発表した。

 

7. 「マクナマラ回顧録」1995

・1965年3月2日、ベトナムで失敗してはならない、というジョンソン大統領の不安は、 南べトナムの安定性について依然抱いていた一切のためらいを乗り越えさせ、北爆を受け容れさせることになった。この結果北ベトナムに対するアメリカの継続的な爆撃は、国民の目から隠されたまま、とうとう開始され、南シナ海の米空母と南ベトナム内の空軍基地から出発した100機以上の飛行機が北ベトナムの武器貯蔵庫を攻撃した。北爆は 3年間続き、第二次大戦で全ヨーロッパに投下されたよりも多くの爆弾が北ベトナムに投下された。

・同年12月27日、私はジョンソン牧場に大統領を訪れ、二人きりで居間に引っ込み、3時間、北爆停止を話し合った。私は北爆停止が両国間の話合いを誘発する可能性があり、北爆再開を延期する軍事的不利益に勝る、という私の判断を強調した。大統領は、国連大使を呼び出し、ウ・タント国連事務総長とローマ法王と会談するよう指示した。

・1967年5月19日、大統領への覚書

  「北ベトナムについて - 交渉による解決に対する態度は、柔軟だとか、心を開いているといったものであったことは一度もない。彼らは政治的解決に関心がない。北ベトナムの抵抗意志や南への補給能力をアメリカの北爆が減退させているとの徴候は、依然として、ない。北ベトナムは自分たちが正しいと信じている。世界も自分たちとともにあり、北ベトナムに対抗しようとするアメリカの国民大衆の意志もいつまでも続かないだろうと考えている。」

・1968年2月23日辞任。アメリカは、ベトナムでの目的を合理的な範囲内のどのような軍事手段を使っても達成できそうもない。従って、我々は、交渉によって本来のものを下回る政治的目的の達成を図るべきだ、という結論に達した私が、その旨をズバリ大統領に告げた。ジョンソン大統領は、これを受け容れる用意はなかった。

・この戦争は、その後7年間続いた。1973年に南ベトナムを撤収したときまでに5万7000人以上のアメリカの男女の生命が失われた。

・ベトナム戦争から得た私の教訓は次の11項目である。
1 相手方(北ベトナム、べトコン、これを支持する中国、ソ連)の行動がアメリカに及ぼす危険を過大評価していた。
2 南ベトナムの国民と指導者を買いかぶっていた。
3 北ベトナムやべトコンのナショナリズムの力を過小評価していた。
4 インドシナ半島の専門家がいなかった。
5 アメリカの持つハイテク軍事力の限界を知らなかった。
6 大統領は軍事介入をするときに、その是非を論争するために議会や国民を引き込むことをしなかった。
7 国民への説明が充分でなかった。
8 アメリカ自身の安全が脅かされている場合を除き、他国の利益については国際的な場での公開の討論が必要である。
9 アメリカ自身の安全が脅かされている場合を除き、アメリカの軍事行動は多国籍軍と合同で実施することを原則とすべきである。
10 国際問題ではすぐには解決できない問題もあることを知るべきである。
11 この問題を担当する行政のトップクラスの組織化が必要であった。

・キューバ危機 - 後から判明した事実との対比
1 1962年の夏、ソ連のミサイルがキューバに搬入される前、ソ連とキューバは、アメリカがキューバを侵攻する意図を持っていると信じていた。しかしアメリカにそんな意図はなかった。
2 アメリカは、ソ連が自国外に核弾頭を配備することはないだろうと信じていた。CIAは、キューバに核兵器はない、と報告してきていた。しかし、1962年10月までにソ連の核弾頭がキューバに搬入され、アメリカの諸都市が標的にされていた。
3 ソ連は、核兵器を密かにキューバに持ち込むことが可能であり、外から探知されることもなく、かりに探知されてもアメリカは反応しないものと信じていた。
4 アメリカは、ソ連が持ちこんだミサイルをアメリカの空襲で破壊してもソ連は軍事力で反応することはあるまいと考えていた。しかし、ソ連軍は、4万3000人が駐留し、キューバ軍は27万人いた。

 

8-1. ルーク・ハーディング「スノーデン・ファイル」2014 日経BP社

・最初に会った時、スノーデンは言った。NSA(米国家安全保障局)はGCHQ(英政府通信本部)と協力して、海底の光ファイバーケーブルに盗聴器を仕掛けている。おかげで英米両国は、全世界の通信内容の多くを読み取ることができる。秘密裁判所は、通信事業者にデータの引き渡しを命じている。グーグル、マイクロソフト、フェイスブック、そしてアップルまで、シリコンバレーのほぼすべての有力企業がNSAと関係している。(16頁 )

・スノーデンの説明では、ある文書を読んだことが一線を超える後押しとなった。彼は偶然、NSAの監察官が2009年に書いたレポートを見た。9・11以後、ブッシュ政権がいかに違法に盗聴を行っていたかを詳しく示す51ページのレポートだった。この盗聴プログラムで、何百万ものアメリカ人の交信内容やメタデータを許可なく集めていたのだ。(54頁)

・NSAのミッションは、全世界からの信号情報の収集、つまり、無線、マイクロ波、衛星などあらゆる通信情報を傍受する。全世界の米軍基地、大使館など、あらゆるところに傍受施設がある。NSAは、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドという4つの英語国家と情報活動の成果を共有している。(88頁)

・法的には、NSAは好き放題には活動できない。合衆国憲法修正第4条により、国民に対する不当な捜索・押収が禁じられており、捜索(通信傍受を含む)は「相当な理由」があり、裁判所が令状を発行した場合にのみ、特定の容疑者に対して合法的に実施できる。(89頁)
英国にはそのような保護はない。

・2013/6/5 「ガーディアン米国」はスノーデン・ファイルからの暴露第一弾を掲載した。
外国情報監視法裁判所が出した米国最大級の通信プロバイダーたるベライゾンに対する命令(2013/4/25付)、何百万という顧客の通話記録を90日間にわたってNSAに提出せよと命じるものだ。NSAが何百万もの米国民の記録を、犯罪者であるかテロに関与しているかにかかわらず、無差別に収集していたという証拠である。(122頁)

・第二弾は、PRISMプログラムに関するスクープだった。NSAは、グーグル、フェイスブック、アップルなどほとんどすべての米国IT大手のシステムに直接アクセスできるという、これまで未公開だったこのプログラムに基づき、分析官は、Eメールコンテンツ、検索履歴、ライブチャット、転送ファイルなどの収集が可能となる。(135頁)

・第三弾は、2012/10 の大統領政策令の公表だった。オバマ大統領は、対外サイバー攻撃のターゲットの候補をリストアップせよ、との指示を関係当局に出していた。
米国はそれまでずっと、中国がアメリカの軍事施設や国防総省などに悪質なサイバー攻撃を仕掛けていると訴えてきた。習主席はすでにアメリカも中国に対し同様のことをしていること示す証拠は「山のようにある」と答えていた。オバマ大統領は、その日カリフォルニアで習近平主席と会う予定になっていた。(138頁)

 

・スノーデンがリークした「グローバル・ヒットマップ」ではNSAがコンピュータ-ネットワークや電話回線から収集した情報量を国別に表示している。これによるとNSAのスパイ活動が集中しているのは、イラン、パキスタン、ヨルダン。2013/3月にNSAが世界中のコンピューターネットワークから収集した情報の数はなんと970億に上る。(139頁)

 

・スノーデンは言った。NSAのほか、インテリジェンスコミューニティで働く人全てのリストにアクセスできました。あらゆる拠点の場所や、そのミッション・・・。もしアメリカに打撃を与えようとするなら、監視システムのシャットダウンなど朝飯前だったでしょう。そんなつもりは私には毛頭ありませんでした。(143頁)

 

・大西洋に足のように突き出た英国コーンウォールの断崖、米国の東海岸から延びる海底通信ケーブルは ここに上陸する。この側にGCHQの傍受施設がある。海底通信ケーブルは、大手通信会社が多くの場合共同で運営管理している。
世界のインターネットトラフィックの25%が英国をケーブルで通る。接続先は、米国、ヨーロッパ、アフリカなど。残るトラフィックの大部分は米国を発着地点としている。したがって、地球上で急増するデータフロウのほとんどは、英米がそのホスト役を担っていることになる。(155頁)

 

・7/20 英国政府の命令により、GCHQの2人組の係官がガーディアン社のロンドン本店を訪れ、同社のスタッフ3人が、スノードン・ファイルの入った同社のコンピューターハードディスクを破壊し、破片を消磁装置にかけるのを見届けた。(189頁)

・シリコンバレーのIT企業がNSAのパートナーになったと思しき日は、マイクロソフトが2007年、ヤフーが2008年、グーグルが2009年、フェイスブックが2009年、アップルが2012年。(194頁)

・2013年になって少しずつ公開されたスノーデンの文書によって、NSAがドイツを徹底的にスパイしていることが分かった。さらにあろうことか NSAは10年間にわたって、メルケル首相の私用の携帯電話まで盗聴していた。怒ったメルケルはこの携帯を取り上げて、オバマに抗議をした。(253、258頁)

・フランスもイタリアも状況は同じだ。(260頁)
NSAは、ブラジル大統領ルセフ、メキシコ大統領ニエトもターゲットにしていた。ルセフは10/23に予定されていたワシントン公式訪問を取り消した。(265頁)

 

8-2. グレン・グリーンウォルド「暴露」新潮社2014

・世界中で交わされる電子通信のすべてを収集・保管・監視・分析できるようにする - それこそが監視国家アメリカの明確な目的であり、NSAはいかなる電子通信も絶対に逃さないことを使命としている。(146頁)

 

・そのNSAを9年前から長官として指揮しているのが陸軍大将キース・B・アレキサンダー。かれの戦略はただひとつ - すべてのデータを収集せよ。(147頁)

 

・膨大な量の通信記録を傍受するため、NSAはあらゆる方法を駆使する。世界中の光ファイバー網に直接侵入するのはもちろん、アメリカ国内のシステムを通過する情報をNSAのデータベースに転送することもある。(国際間のインターネット通信はだいたいアメリカのシステムを通過する。)他国の諜報機関と協力することも多い。しかし、NSAがどこより頼りにしているのは、自前の顧客情報を提供してくれるインターネット企業や電話会社だ。(156頁)

 

・NSAが集めた情報にはFBIもCIAも他の情報機関も日常的にアクセスしている。(179頁)

 

・GCHQ(英国)とNSA(米国)は、無実の一般市民の間で取り交わされる膨大な量の通信情報を日々、傍受処理している。そのような個人データには、ありとあらゆるオンライン活動が含まれる。通信内容の録音、メールの文面、フェイスブックの書き込み、ウェブサイトの閲覧履歴だ。(184頁)

 

・日本は、英語圏5カ国に次ぐ20ヶ国の「限定的協力国」に入っている。(189頁)

 

・NSAが実践している外交スパイの規模は異常なほど大きい。当時の国連大使だったスーザン・ライスは幾度となくNSAにスパイ行為を要請し、主要加盟国の内輪の議論に関する情報を手に入れさせていた。このことが多くの文書に克明に記されている。(215頁)

 

9 小林由美「超一極集中社会アメリカの暴走」 新の所得シェア潮社2017

  ・ 80年代以降上位0.01%の所得シエアは4.8倍に、0.1%の所得シェアは3.4倍に増えた。それに比較すると上位1%の1.8倍や10%の1.4倍は、小幅な増加に見える。それらのしわ寄せが下位90%にきて、この層のシェアは21.5%の減少である。

    因みに日本の上位10%のシェアは9.5%だから、アメリカと大差ない。でもそれ以外の層ではいずれも低い。特に上位0.01%、0.1%の所得シェアが極めて低く、アメリカと比較すると日本にはとびぬけた大富豪が少ないとか、所得分布が平準化しているという印象と合致する。(24頁)

  ・ フルタイムで働いている25歳以上の就業者数を学歴別に見ると、2014年には高卒と大卒がほぼ同数に近づいた。修士課程を卒業した人は2014年までの24年間で倍増し、修士課程を終えて弁護士・医師などのプロフェッショナル資格を取得した人は46%増え、博士取得者も2.6倍に増えた。高学歴化が進んでいるのは明らかである。(41頁)

    因みにスタンフォード大学の今年度の授業料は1年間約470万円で、それに学生寮や教材、生活費を加えると1年間に必要な費用はおよそ700万円である。

    卒業までにはしめて30万ドル(3000万円)。これはアメリカの私立大学ではどこも似たり寄ったりの額である。(44頁)

    アメリカでは大学に進学する人の60%以上が学生ローンを借り、その数は4300万人を超すと推計されている。学生ローンは過去10年間、毎年12%平均で増え続け、2015年末の残高は1.2兆ドル(120兆円)に達した。同時点の家計の借金残高12兆ドルの約10%で、自動車ローンやクレジットカードの残高を上回って、住宅ローンの次に大きな借金となっている。(48頁)

 

 

 

 

 

▲ ページ上部に戻る

 

D. ポーランド

1. ヤン・カルスキ「私はホロコーストを見た」原著 1944 訳書 白水社 2012

・1942/10  ユダヤ人レジスタンスの指導者2名に会った。
300万人のユダヤ系ポーランド人の絶滅が宣告されました。この時点でナチはすでに185万人を殺していた。
最初の指令は1日当たり6000名、次に7000名、最終的には1万名となりました。移送された人は30万人を超えます。まだ10万人残っていますが、あいかわらず移送は続いています。たった2ヵ月半でワルシャワのゲットーだけでナチは30万人を殺したことになる。(下205頁)

・ワルシャワ・ゲットー住民の移送は、1942/7/22 に始まった。ドイツ側の資料によると46日かけて25万人余が移送された。ユダヤ人の記録によると30万人以上がゲットーから消えた。そのうち8000人がアーリア人地域に逃げ込み、1万3000人がゲットー内で殺されたか死亡した。(編注7下226頁)

・ゲットー地域にいたアーリア人を立ち退かせ、代わりに40万人ものユダヤ人が閉じ込められた。
戸外で生活している住民が道にあふれていた。空いた場所など1平方メートルもあっただろうか。
裸のまま転がる死体に何度も出くわした。だれかが死ぬと家族は服を脱がして遺体を外に捨てます。そうしないとドイツ人にお金を払って埋葬しなければならないのですが、法外な金額なので払える家族などありやしない。それにどんなボロ切れでもここでは大切なのです。
年寄りはもういないのです。みなトレブリンカに送られました。(下214頁)

・絶滅収容所は、整地された1600平方メートル程の敷地にあった。15ほどのバラックが建てられ、その間に立錐の余地なく人の群れが波のようにうねっていた。
収容所から木板で囲った道路が線路まで続き、そこには30輌ほどの貨車が停まっていた。3、4日もここに収容されていて、一滴の水も一片のパンも与えられていないという。
結局、不幸な人の群れは銃弾に追われて貨車の中に駆け込みたちまち2輌をいっぱいにした。
一般軍規によると1輌の貨物車には8頭の馬もしくは40名の人しかのせてはならないとされている。携帯荷物がなければその数は最大100名まで可能だろう。ところがドイツ兵は120名から130名ものユダヤ人を詰め込むのだった。

・床が白い粉で厚く覆われていた。生石灰である。生石灰に水が加われば、高熱を発する。汗で濡れた肌は生石灰との接触によってたちまち水分を取られ、焼かれてしまう。貨車に詰め込まれた人たちは、ゆっくり骨まで焼かれるのだ。生石灰は死体の腐敗とそれによる伝染病の蔓延を防ぐのだ。
貨車全体をいっぱいにするまで3時間かかった。私の目の前で46輌目の扉が閉められた。
列車は100キロほど走って何もない草原で停まる。そこで3,4日停まったまますべての貨車に死神が訪れるのを待つ。
若くがっしりしたユダヤ人の若者たちが厳重な監視の下、貨車からまだ湯気をたてている死体を運び出し、共同墓穴に埋める。(下243頁)

・1943/1  ロンドンでポーランド亡命政府の大統領と首相に報告し、続いてアンソニー・イーデン英国外務大臣、ワシントンではルーズヴェルト大統領に説明した。

 

2. ノーマン・デイヴィス「ワルシャワ蜂起 1944」原著 2003 訳書 白水社 2012

・1939/9 ポーランドは、西からナチス・ドイツに、続いて東からソ連に侵略された。(上61頁)
ナチスによる占領地域は、西半分は第三帝国に編入され、スラブ系とユダヤ系は域外に追放され、東半分はゲシュタポ・ランドと呼ばれた。
ソ連による占領地域は、他の地域への自由通行は制限され、北半分は西ベラルーシ、南半分は西ウクライナと改名された。(65頁)

・ユダヤ人は全人口の10%程度だったが、大学の学生数は、それよりはるかに高い割合を占めていた。例えば、ワルシャワ大学の法学部と医学部の学生の過半数はユダヤ人だった。(117頁)

・1939/9 ポーランド人扇動者は両国協力して鎮圧することを約し、1940/3 両国協議の後、ソ連占領地ではポーランド軍将校2万5000人を銃殺し、ドイツではポーランド人約3500人を射殺し、多数の囚人を強制収容所に送り込んだ。

・1943/4 ゲットー蜂起が鎮圧されると、胸の悪くなるような沈黙の廃墟をすべての市民が目にした。ナチスの意図がユダヤ人の全面的は殲滅にあったことがすべての市民の目に明らかになった。(172頁)

・1943/4 ドイツがカティンの森に関するコミュニケを発表するとロンドンのポーランド亡命政権はそれを無視することができなかった。スターリンはこの期に乗じて、ポーランド亡命政府との外交関係を断絶した。ポーランドは英国との同盟関係は維持したが、ソ連とは公式の結びつきを失った。そのソ連軍はワルシャワへ進撃しつつあった。(191頁)

・ポーランド亡命政府は、英米両国に対して繰返し支援を求めた。英国は、東部戦線に介入するためには兵站上の重大問題があると答えるのみだった。米国は、東部戦線がソ連の戦域である以上、ポーランドは何とかしてソ連の総司令部と折り合いをつけるべきだと繰返した。(326頁)

・1944/8/5 ドイツ軍のワルシャワ総督は、ベルリンの首相官邸に次のような報告書を送っている。
「ワルシャワでは市街地の大部分が炎上している。家屋を焼きさることが、叛徒の隠れ家を一掃する最も確実な方法だからだ。100万人の住民はすでに言いようの無い困窮状態にある。蜂起を鎮圧し終わったら、あるいは蜂起が崩壊したら、全面的な破壊によってワルシャワを罰しなければならない。もう2、3日包囲を続ければ、叛乱を完全に制約することが可能である。」

・スターリンは戦略上の重大な選択に直面していた。そのまま西進してベルリンを攻略すべきか、南下してバルカン半島に進出すべきか、べルリンについて言えば、ドイツ国防軍が態勢を立て直さないうちに、そして西側連合軍が到達する前にソ連軍がベルリンに入城する見込みは十分にあった。南下すれば三つか四つの国を席巻して西側諸国の手出しを封じヨロッパの半分以上をソ連の支配下に組み込むことも可能だった。
しかし、8月第1週の段階では十分な情報を得られなかった。いったん停止してすべての問題点が明らかになるのを待つのは賢明な戦術であった。(419頁)

・ポーランド国内軍がワルシャワで始めたことをフランスのレジスタンス運動がパリで見事にやってのけたというニュースが伝わったのは八月の最後の週だった。(472頁)

・ポ-ランドと対照的に、バルカン半島に進出すれば豊かな見返りが得られるとスターリンは判断した。ブダペストとウィーンを経由してドイツに侵攻し、最終的にベルリンを攻略できる。
ワルシャワ蜂起にとって支援が最も効果的であり得る時期にスターリンが支援の可能性を否定した。スターリンは長い沈黙の後で、最も冷酷な言い回しでワルシャワ蜂起を非難した。(498頁)
歴史学者の間では、スターリンがワルシャワに死刑宣告を行ったのはこの1944/8/13 とするのが常識である。

・1944/9/29 終戦協議会での亡命政府代表の意見
「これ以上戦争を続けても無意味である。今後外部からの支援が期待できない以上、われわれは最も重要なものを守るべきである。つまり、ポーランド国民の生物学的存続を最優先すべきである。文化的、学術的意味からみて最上の社会層がワルシャワに集中していることを考えれば、なおさらである。首都の重要な建造物の多くは救うことができないだろう。今後はドイツ軍とソ連軍の戦場となるからだ。だから、少なくとも国民を救うことを目指すべきだ。」(下114頁 )

・ほとんどすべての本は、蜂起期間を63日としている。(120頁)

・ヴィスワ川を境として、ワルシャワの西半分はほぼ完全に破壊し尽くされ廃墟となっていた。そこに住んでいた50万人の市民はドイツ軍の収容所に送られた。ワルシャワの東半分に当たるヴィスワ川の東岸地区には世界最強のソ連軍が駐留していた。しかし、ソ連軍は完全に鳴りを潜め、まるで存在しないかのような振りをしていた。

・1945/1/19 秘密司令部国内軍総司令官オクリツキ
「全国土がソ連軍によって占領される日は、間近に迫っている。この事態は、我々が1939年以来そのために戦ってきた大義の勝利ではない。我々はソ連軍との戦闘を望むものではない。しかし同時に、社会正義を信条とする自由独立のポーランド国家以外の生活を受け入れることもできない。
国内軍の兵士諸君に最後の命令を与える。国家の完全独立の回復を目指して引き続き活動し、行動せよ。その意味で、今後は、諸君のひとりひとりが自分自身の司令官である。ここに諸君の忠誠の宣誓を解き、国内軍の解散を宣言する。」

・1945/3 ポーランド地下国家の総司令官、亡命政府代表に宛てて現地のソ連司令官から招待状が届き、16人の指導者たちが会談に出向いたところそこで逮捕され、空路モスクワへ送られ、リビャンカ監獄に監禁された。16人の指導者が突如として跡形もなく姿を消したのである。(167頁)
戦後ポーランドの民主主義的な発展の芽がまだ戦争の終らないうちに摘み取られてしまった。

・戦後のポーランドには、公共の場で口にしてはならないタブーが二つあった。ひとつはソ連の悪口、もうひとつはワルシャワ蜂起を称賛する言葉だった。(245頁)

・1947年末には、地下抵抗運動が壊滅し、前首相ミコワイチクは亡命した。ワルシャワ蜂起を戦い、大きな犠牲を払った世代の政治的権利は組織的に簒奪されてしまった。
1948/12 一党独裁国家がポーランドに出現した。

・1980/8 から翌 81/12 までの16ヶ月間は、ポーランドの「連帯」運動が公然と活動した期間であった。この間ポーランドは共産圏で初めて言論の自由を実現した。(382頁)
その後戒厳令が敷かれ「連帯」が弾圧されたが、以前の言論統制を復活させることはもはや不可能になっていた。(386頁)

・1990/12、民主的な大統領選挙が実施され、これをもって人民共和国は最終的に崩壊した。生き残っていた元蜂起兵にとって、何の制約も受けずにワルシャワ蜂起について語り、出版し、組織し、記念することが、初めて可能となったのである。(389頁)

 

▲ ページ上部に戻る

 

E. ドイツ

1. モーツァルト(1756~91)

1-1 フィガロの結婚(1786 初演)

・序曲

1幕

・「伯爵様、踊りをなさりたければ
ギターを引いて差し上げましょう。
私の学校においでになるのなら、
いたずらの仕方をお教えしましょう。
相手の手をかわしてうまい手を用いたり、
ここでは突きを入れ あそこではふざけたりして、
どんなお膳立ても、すっかりひっくり返してやるぞ!」

・「愛の蝶よ、お前はもう夜昼飛び廻って、
美しい女たちの憩いを 乱しには行けないぞ。
もはやこんな美しい羽毛も、軽く優雅な帽子も、
長い髪も、派手な衣装も、女のような紅も、
付けることはできないぞ。
さあ、兵士たちの中へ行け!大きな口髭、固い背嚢、
肩には銃、腰には剣、高い襟、いかつい鼻、
大きな帽子、大きなターバン。名誉は大きく、財布は軽い。」

 

2幕

・「愛の神様、私の苦しみと溜息に 慰めの手を差し伸べて下さい!
愛しい夫を返して下さい。でなければ私を死なせて下さい。」

・「恋とはどんなものか 知っておられるご婦人方、
私が恋をしているかどうか教えて下さい。
私が感じていることを お話ししましょう。
私にとっては始めてのことなので、よく理解できないのです。
私はいっぱいの愛情を感じています。
それは、ある時は喜びであり、ある時は苦しみなのです。
凍る思いをするかと思えば、やがて燃え上がり、
またすぐに凍ってしまいます。」

 

3幕

・「あの幸せの時は どこに行ったのかしら。
あの誓いの言葉は 嘘だったのかしら。
涙と苦しみの中で 私にとってすべてが変わってしまったのに、
どうして良い思い出だけが 心に残っているのかしら。」

・(合唱)「心変わらぬ恋人たち、名誉を尊ぶ者たちよ、
かくも聡い伯爵さまを 歌い讃えなさい。
人を辱しめ傷つけていた古い権利をお捨てになって、
伯爵さまは、貴女がたを純潔のまま愛する人のもとに送られる。」

 

4幕

・「愛する人の腕の中で、悩みもなく楽しめるときが ついに来たわ。
臆病な心配よ、私の胸から去っておくれ、
私の喜びの邪魔をしないでちょうだい。
来てちょうだい、愛しい人、この隠された木々の間に、
私は貴方の頭をバラで飾りたいのよ。」

・「私がせめてみなさんのために お許しを得ましょう。」
「奥方よ、どうか許しておくれ。」
「私は貴方より寛大ですから、はいと申しましょう。」
(合唱)「ああ、これでみんな満足できるでしょう。
苦しみと気まぐれと狂気のこの日を、
ただ愛と歌だけが 満足と陽気さで 終わらせることができるのだ。」

 

1-2 「ドン・ジョヴァンニ」(1787年 初演)

・エルヴィーラ「貴方は私の家にこっそり忍んできて、
誓いの言葉やお世辞で、私の心を誑かしてしまったの。
私を妻にするといったのに、三日後には、私を捨て、逃げ出したの。」

・レポレッロ「ご覧なさい、このちっぽけなとは言えない本には、
女たちの名前がいっぱい詰まっていますよ。
どの町、どの村、どの国も、あの方の恋の冒険の証人なのです。
スペインではもう1003人、田舎娘もいれば都会の女もいる。
伯爵夫人もいれば、王女もいる。あらゆる身分のご婦人、あらゆる姿形。
ペティコートさえつけてりゃ、あの方が何をするかご存知でしょ。」

・ジョヴァンニ「あそこで手に手を取り合い、あそこでわしにいいわというのだ。」
ツェルリーナ「そうしようかしら。いいえ、だめだわ。
心臓がちょっとドキドキするわ。本当に幸せになれるかしら。
でもからかわれているのかもね。」

・ジョヴァンニ「広場で女の子を見つけたら、連れてきてめちゃめちゃに踊るのだ。
わしはその間に、この女あの女と恋をしたいのだ。
明日の朝には、わしのリストに10人もの女を加えることになるぞ。」

・ツェルリーナ「ぶって、ぶって、ああ、大好きなマゼット、
ここで子羊のようにあんたがぶつのを待ってるわ。髪の毛を引きむしってもいいわ。
眼をくりぬいてもいいわ。それでもあんたの手にキスしてあげるわ。
仲直りしてね、仲直りしてね、楽しく大喜びで夜も昼も過ごしたいの。」

・同「私、私、あんたを治してあげるわ、愛しい私の許嫁。
あんたがとってもおとなしかったら、素晴らしいお薬を上げるから。
それはお薬屋さんも作れなのよ。私が持ってるの。
試してみたければ、知りたいと思わない?私のどこにあるのか。」

・エルヴィーラ「なんとひどいことをあの男は犯してしまったの!
天の怒りを遅らせることはできないわ!
かわいそうなエルヴィーラ、なんという逆の心の動きが生まれてくるの!
あの男は私を裏切ったのよ、私を不幸にしたのよ。
私が苦しみを感じる時、心は復讐を感じるの。
でも、あの人が危険に陥っているのを見ると私の心は胸騒ぎしてしまうの。」

 

1-3 「魔笛」(1791年 初演)

1幕

・「俺は鳥刺し、いつも陽気に、ハイザ、ホイササ。
俺が鳥刺しとはみんな知っている、老いも若きも、国中残らず。
おびきよせるのもうまいし、笛も名人。
だから楽しく陽気なのさ、鳥はみんな俺のものだから。」

・「この肖像はあまりにも美しい、まだ誰も眼にしたことがないほど!
この神々しい姿は、 私の心を新しい感動で満たす。
この感情は恋なのだろうか?そうだ、そうだ、これこそ愛なのだ。
ああ、あの人に会うことができたら!
ああ、あの人が私の眼の前にいるのだったら!」

・(夜の女王)「私はあの子が奪われるのを眺めていなければならなかった。
「ああ、助けて」と、あの子は叫んだ。
でも無駄でした。私の救いはあまりにも無力だった。
お前があの子を救い出しにゆくのです。お前が娘の救い手となるのです。
勝利者として返ってくれば、その時はあの子は永久にお前のものです。」

・「愛を感じる男のひとには、正しい心も欠けてはいない。」
「甘い愛の本能を感じるのは、女の第一のつとめ。」
「私たちは愛に喜びを感じようとし、私たちは愛によってだけ生きる。
男と女、女と男は、神にまで至る。」

 

2幕

・(夜の女王)「地獄の復讐が私の心の中に煮えかかっている!
死と絶望が私のまわりに燃え上がっている!
お前によってザラストロが死の苦しみを感じないなら、
お前はもう私の娘ではない。永遠に勘当され、永遠に見捨てられる。
お聴き、復讐の神々よ!お聴き、母親の誓いを!」

・「ああ、私には分かるわ、消え失せてしまったことが。
愛する幸福が永久に消えてしまったことが!
喜びの時よ、お前はもう私の胸に戻ってこない!
憩いは死の中にのみあるのだわ!」

・「娘っ子か可愛い女房がひとりパパゲーノ様は欲しいんだ!
ああ、優しい子鳩ちゃんがいてくれりゃ俺は全く大喜びさ!」

・「パーパーパーパー パパゲーナ!
パーパーパ-パー パパゲーノ!
お前はすっかり俺のものになるかい?
私はすっかりあんたのものよ!
なんと嬉しいことだろう。神が私たちのことを心にかけて下さって
愛の子供を贈って下るなら、可愛いちいちゃな赤ちゃんを!」

 

2. ロジャー・ムーアハウス「戦時下のベルリン」白水社 2012

・ベルリンは、少数の活動的なナチと活動的な反ナチが、どっちつかずの大衆の両端に存在していた都市だった。そうした大衆は、ただ単に、保身、野心、恐怖に動かされた場合が多かった。(12頁)

・1941年のベルリンでは、住宅危機の解決はユダヤ人に対する迫害を強化することに求められた。住宅が不足ならば、ユダヤ人を立ち退かせるのだ。(157頁)
1939/4の改正賃貸法では、ユダヤ人の借家人は、代替住宅が他にあると証明されれば、合法的に立ち退かせうる、とした。その結果、不潔な場所のみすぼらしい街区に大勢のユダヤ人が固まって住むようになった。
1941/10 約4000人のベルリンのユダヤ人がポーランドに向けて初めて移送された。(160頁)

・戦時中、600万人以上の外国労働者がドイツ国内で働いたと推定されている。
とりわけ貨物列車でポーランドやソ連から運ばれてきた者は、収容所に着けば体を洗い、短い休息がとれると期待しただろう。
大半の強制労働者は、最近ドイツに敗れ占領された国からやってきた。
大企業から個人商店までほぼあらゆる雇い主のもとで働いた。
1943年夏ベルリンの強制労働者は40万人に達した。首都の全労働者の4人に1人、人口の10分の1だった。
1944年夏では、4分の1は、ドイツ占領地区かかつてのソ連占領地区から、3分の1は、西ヨーロッパから来た。3分の1は女だった。

・1941/9 6万人以上のユダヤ人は黄色い布の「ユダヤの星」を左胸にしっかりと縫い付けなければならなくなった。
「東方」のユダヤ人は完全に犠牲にしてよいと見られていたが、当時ベルリンでの一般的な考え方は、国内在住のユダヤ人は即座に殲滅はせず、少なくとも最初はゲット-に住まわせ、労働させるというものだった。
1943/6 ベルリンのユダヤ人社会、ドイツ」全土で最も数が多く活気のあるユダヤ人社会、は壊滅した。(232頁 )
大部分のベルリン市民は、ホロコーストの陰惨な真実をたとえ知っていたとしても、信じるのは難しかっただろう。ユダヤ人であれ、非ユダヤ人であれ、何が起こっているかに薄々感ずいていた者も、自分たちの抱いている最も暗い疑念を裏付ける事実を信じたがらないことが多かった。ある人種が「工業規模」で組織的に殺されるというのは、大方の人間の想像を超えていた。(235頁)
ベルリン市民は、知らないふりをしているほうがよいということを十分に承知していた。人は、口をつぐんでいなくてはならなかった。(242頁)

・ベルリンのナチが獲得した投票数は、合計の3分の1を超えなかった。大多数の者は体制と無関係だった。ベルリン市民は、他の大都市や地方都市のすべてのうちで物の見方が最もナチ化されていなかった。(358頁)

・牧師マルチィン・ニ-メラ-の詩
「最初、彼らは共産主義者に襲いかかった。
しかし、私は声を上げなかった。・・・共産主義者でなかったからだ。
すると彼らは労働組合主義者に襲いかかった。
しかし、私は声を上げなかった。・・・労働組合主義者でなかったからだ。
すると彼らはユダヤ人に襲いかかった。
しかし、私は声を上げなかった。・・・ユダヤ人でなかったからだ。
すると彼らは私に襲いかかった。
しかし、私のために声をあげてくれるものは誰もいなかった。」(363頁)

・普通のベルリン市民は、ナチに命をかけて反対する気持にはなっていない。ほとんどの市民はまったく抵抗する気がなかった。
ナチ体制は、もっぱら国民の同意によって支配していたことを忘れてはならない。例えば、雇用を約束して、その社会政策とプロパガンダの巧みな利用によって、少なくとも名目的な大衆の支持を維持することに極めて長けていた。ナチ体制はまた、1939年以前に国運を立て直すことに成功しただけでなく、その後の戦争の初期の段階において驚くほど成功を収めた。そうして成功を目の当たりにして夥しい数の普通のドイツ人は、ナチ体制は支持するに値すると信じた。(365頁)

・英国空軍の攻撃は、1943/11/12、400機以上のランカスターが首都を爆撃した。11/22 今度は750機以上の爆撃機が西側地区に集中攻撃した。
終戦に至る1年間を通して、英米空軍によってベルリンは150回以上爆撃された。平均して1日おきだった。(427頁)

・父は家を出る際に、私にピストルを渡し、「すべて終わりだ。おまえ、ロシア兵が来たらピストル自殺すると約束しておくれ。」といった。それが父の最後だった。(477頁)
ベルリンの女に対する赤軍兵士の執着は伝説的なものになった。1945年 赤軍兵による強姦被害の女の推定数はまちまちだが、首都の病院は合計9万5000から13万の間としている。本当の数字はそれよりはるかに高いのは疑いない。
強姦された女の約1割が自殺したと考えられている。1946年にベルリンで生まれた子供の5%がいわゆるロシア人の子だったと推定されている。(498頁)

 

3. 池内 紀「消えた国 追われた人々-東プロシャの旅」みすず書房 2013

・東プロシャ 人口は200万人、700年の歴史を持つ。コペルニクス、カント、ホフマンが活躍した。首都はケ-ニヒスベルク、今はロシアの飛び地カリ-ニングラード州の首都カリ-ニングラード。
第一次大戦後、東プロシャはドイツから切り離された。
町ごとに人種の構成が違っていた。ある町はドイツ人が、ポーランド人が、ロシア人が、リトアニア人が、それぞれ作った。どの町にも少数のよそ者がいて、その多くがユダヤ人だった。

東プロシャは四つの地方からなる。
メーメル地方(現リトアニア)
サム地方(現ロシア その中核都市ケーニヒスベルクには圧倒的にドイツ人が多かった。)
エルム地方(現ポーランド)
マズーリ地方(同)
(62頁)

・第一次大戦後、軍港ダンツィヒは「自由都市」となった。
ヒトラーは、ダンツィヒとドイツ帝国を結ぶ「ポーランド回廊」を求めたが、ポーランドは拒否、 第二次大戦の口火となった。
ソ連軍がポーランド国境を超えて東プロシャに入ったのは、1945/1。200万ドイツ住民の一斉避難は遅すぎた。すべてが終わったとき、国は消え、追われた人々は戻ってこなかった。
ナチス・ドイツが誇った世界一の豪華客船グストロフ号は、1万を超えるドイツ避難民をのせてダンツィヒ郊外の港を出港してまもなく、ソ連軍の潜水艦から魚雷3発をくらって沈没。公式発表で6000人余、実際は9000名余が死んだ。(13頁)有名なタイタニック号の沈没でも死者は2000人に足りなかった。
戦後ナチスの罪業が糾弾されたなかでバルト海の海難事故は政治的に封印された。いまやグディニア港には何もない。ポーランド政府には旧東プロシャ市民を悼む理由などなにもないのだ。(26頁)

・カリーニングラードは、ロシアで最も西の町、1946年まではケーニヒスベルクといってドイツで最も東の町だった。700年近い古い町だ。
1936年の時点で人口38万人のうちドイツ人が78%、1996年では人口40万人のうちロシア人が79%。かつて「バルト海の真珠」とたたえられた。(129頁)
1911年発行のケーニヒスベルク案内では、大聖堂前の広場から、雄大な王宮、教会、美術館、湖が見えるようになっている。今は何もない。戦後ながらく王宮の建物が半壊のまま残されていた。1969年現地を視察したソ連共産党書記長ブレジネフの命令によりダイナマイトで爆破された。
1944/8/2 英米軍の飛行機が大編成を組んで襲来、旧市街の98%が炎上した。つづいてソ連軍が三方から包囲した。(165頁)
西ドイツやポーランドは、戦後の復興に当たり、「復元」を原則とした。元通りの町にする。石の文化には壁面の飾り一つまで詳細な設計図を残しており、また古くから修復の技術をやしなってきた。その 結果、「ハンザ都市の女王」や世に知られたダンツィヒ大通りがよみがえった。
ソ連当局は、まるっきり逆の政策をとった。すべてを更地にして、計画経済にもとづき、西はカリーニングラードから東はウラジオストックまで、地球を半周して同じタイプのアパート群が誕生した。(168頁)

・ダンツィヒ(現グダニスク)は、ハンザ同盟の中心都市のひとつだった。西プロシャというドイツ属州の首都だった。第一次大戦後 西プロシャはポーランド領となり、ダンツィヒは「自由都市」とされた。9割以上がドイツ人であるダンツィヒ市民の自決による自由都市ではなく「国際連盟の管理による」自由都市とされた。

・ドイツ人の東方進出は数百年の歴史にわたり、戦後の難民の数は1千万人を超えた。ドイツ総人口の7人に1人はそれに当たる。(268頁)
米英ソによるポツダム会談中では、ドイツの戦後処理に関し、オーデル・ナイセ川より東のドイツ領を「ソ連・ポーランドの管理下に置き」その地域に住んでいたドイツ系住民をドイツ本国へ移住させることが決められた。(264頁)
「ソ連・ポーランドの管理下」とは、ソ連軍がポーランドの解放を果たした後は、ソ連の庇護を受けて成立した政府を正式の政府としたので、つまり、全部がソ連の管理下にあったのと同じである。
ソ連は、ポーランド東部の当時のポーランド領の3分の1をソ連領とし、かわりにドイツ東部領をポーランドに与えた。そのためポーランドは250キロ西へ移った。東部ポーランドから旧ドイツ東部領へ移住させられた住民はまだしも幸運だった。(270頁)

 

▲ ページ上部に戻る

 

F. スペイン

1. ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」原著 1552 岩波文庫 2013

・我々がエスパニョ-ラ島(現在ハイチ、ドミニカのある島)に上陸した1502年(アメリカ発見の10年後)には300万人のインディオが暮らしていたが、今では200人しか生き残っていない。(30頁)
キューバ島、プエルト・リコ、ジャマイカ島にはほとんど人がいなくなった。
バハマ諸島には50万人を超える人が住んでいたが、今ではひとりもいない。
我々が確信しているところでは、この40年間に、1200万人を超えるインディオがキリスト教徒の所業の犠牲となったのだ。(32頁)その目的は金であった。
インディオが抵抗して行う戦争は、竹槍の戦争か、子供達の模擬合戦とさほど変わりはなかった。
戦争が終わってみると、男性は全員殺されており、生き残ったのは少年少女や女性だけ。キリスト教徒はそれを仲間内で分配しあった。
キューバ島は、山中に身を潜めていたインディオを狩りだし、結局隅から隅まで荒廃させ、無人島にしてしまった。(64頁)
パナマ、コロンビアでは、地表に莫大な金が露出していた。今ではかつて村があり、人々が住んでいたことを示すものは何もない。(75頁)
ニカラグアでは、土地が平坦なため馬に乗って追われると逃げる術がなかった。
1523年から33年の間に、一帯は見る影もなく荒廃した。その間6、7年にわたり、50万人を超えるインディオをパナマやペルーに奴隷として売った。14年の間に、かつては人口稠密地域だったニカラグアには、今では4000人か5000人のインディオしかいないと思われる。(83頁)
1526年われらの主君カルロス一世は、ドイツの商人たちにベネスエラ王国の統治権と司法権を譲与した。ドイツ商人は300人ほどの部下を率いて、王国へ侵入し、400万人か500万人のインディオを殺害した。その目的は金しかなかった。ベネズエラは世界で一番金が豊富で、人口は稠密だった。この16年間ずっとインディオを満載した船でエスパニョーラ島や、ジャマイカ島へ奴隷として売り払った。その数は100万人を超える。(175頁)

・私は、これまでインディアス各地にある広大な地方を数多くこの目で見てきた。それらが短時間のうちに破壊され、完全に人影のない荒れ果てた土地に姿を変えていったのを実際に目撃してきた。(214頁)
「皇帝陛下にしてスペイン国王であるわれらが主君ドン・カルロス五世陛下は、あの土地であの人々に対して、以前同様現在も、神の御心と陛下の御意向に背いて、数々の悪事や裏切りが行われてきたことを諒解されておられますゆえ、正義を愛し、尊ばれる御仁として、必ずやそらの悪事を根絶され、神が陛下に授けられたあの新世界を救済されるに違いないと、私は衷心より期待しております。」(223頁)

・訳者 染田秀藤の「解説」から
 天然痘、麻疹、チフス、インフルエンザなどインディオに免疫性のなかったヨーロッパ伝来の疫病の流行には一切触れず、インディオの死因をすべて征服戦争と奴隷制に求めたのは、正当ではない。現在においては、疫病の流行がインディオの人口激減の最大要因であることを否定することはできない。(300頁)

 

▲ ページ上部に戻る

 

G. アフリカ

1. チヌア・アチェベ「崩れゆく絆」原著 1958 光文社 2013

・宣教師の話に心を奪われた若者がいた。オコンクウォの長男、ンウォイェである。彼を虜にしたのは、三位一体ののいかれた論理などではない。この新しい信仰が奏でる詩情、骨の髄に沁みるような何かに魅了されたのだ。闇と恐怖に囚われた兄弟のことを歌う讃美歌は、彼の若い魂を絶えず悩ませるとらえどころのない疑念に対して、答えを与えてくれる気がした。森に捨てられ泣き叫ぶ双子、捕虜としてつれてこられ兄弟として育てられながら結局殺されたイケメフナのこと。歌が乾ききった魂に満ちていくと、心に安らぎが広がるのを感じた。讃美歌の言葉は、まるで喘ぐ大地の干上がった口で溶けていく、凍った雨粒のようだった。ンウォイェの未熟な心は激しく揺れ動いた。(230頁)

・白い男たちは教会だけでなく、政府までも持ち込んでいた。法廷が作られて、地方長官とやらがこの土地のことなど何も知らずに事件を裁いていた。地方長官は廷吏とかいうやつを使って、人々を法廷にひっ立ててこさせた。こうした廷吏の多くは、大河の岸にあるウムルの出身だった。ここでは何年も前に最初に白人がやってきて、宗教と貿易と政府の拠点を築いていた。(261頁)

・白人ときたら、まったくずる賢いやつらだよ。宗教をひっさげて、静かに、平和的にやってきた。われわれはあのまぬけっぷりを見て面白がり、ここにいるのを許可してやった。しかしいまじゃ、同胞をかっさらわれ、もはやひとつに結束できない。白人はわれわれを固く結びつけていたものにナイフを入れ、一族はばらばらになってしまった。(264頁)

・「お前らは白人様の力がよくわかっているだろう。その白人様のご命令だ。この集会を中止しろ。」
瞬く間にオコンクヲォが鉈を抜いた。オコンクウォの鉈が二度振り下ろされると、制服姿の胴体の横に頭が転がった。(305頁)

・訳者 粟飯原文子の解説によると、作者チヌア・アチェベ(1930~2013)は、アフリカ文学の父と呼ばれる。本書は、ナイジェリア南東部イボ地方における旧社会の状況から、キリスト教の布教、その後の英国による武力制圧の過程を描写している。

 

▲ ページ上部に戻る