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日本(現代)

1 山本周五郎

「柳橋物語」1946

「たったひと言、あの河岸の柳の下で聞いたたったひと言のために、なにもかもが取り返しのつかないほうへ曲がってしまったのよ。あなたは死んでしまい、おせんはこんなみじめなことになって、そうして始めてわかった、 なにが真実であったかということ、ほんとの愛がどんなものかということが、・・・・・幸太さん、それでもあたしうれしい、あなたにはお詫びのしようもないけれど、あれほど深く、幸太さんに愛して貰ったということ、それがこんなにはっきりわかったということがうれしいの。
あたし今から誰にでも言ってやってよ、おせんは幸太さんと夫婦だったって、・・・・・この子は幸太さんとあたしの子だって、・・・怒らないわねえ、幸太さん。」

 

「赤ひげ診療たん」1958

「まさをとの盃が作法どおりに終わると、盃台や銚子を運んできた婦人がずっと向こうの襖際に両手を突いて、「おめでとうございます」と祝の言葉を述べた。その声がふるえ、両手を突き、頭を垂れたまま啜り泣いているのを見て、登は、「ちぐさ、ちぐさだ。」彼は、目を洗われたような気持で相手のようすを見た。彼女がひどく老けたことを登は認めた。長崎へゆくまえに逢ったときの色濃い嬌しさや、眩しいほど華やかな美貌は、殆どあとをとどめない。肩をおとし、歯を染めているためもあろうが、男と世間を忍ぶ生活や、子を産んだことが、そのように彼女を変えたに相違ない。登は重い荷をおろしでもしたようにほっとし、はっきりした意味もなく「よかった」これでよかったと、心の中で言った。
ちぐさは辞儀をして去った。
「よくぞ堪忍してくれた、登どの。ばかな親だと思うだろうが、どうしてもそなたの許しを得たかった。これで私もあれに出入りさせられるし、孫を抱くこともできる。」
まさをは、感謝の思いをこめたまなざしで彼をみつめた。こまかな感情をよくあらわす、賢そうな眼だな、と登は思った。

 

「青べか物語」1960(57才)

「芦の中の一夜」

・娘は21才で嫁にいった。 娘は幸山船長としめし合わせ、浜の松並木でひそかに逢った。 娘は持ってきた人形箱を渡し、身は嫁に行くが自分の心はこの人形にこめてある、どうかこれを私だと思って持っていてくれ、そう言って泣いた。
娘の婚家が川に近いので、幸山船長の乗った船が通ると、彼女は土堤まで出て来て姿を見せた。通船の排気音やエンジンの音はそれぞれに特徴があって、 馴れた耳で聞くと何号船かということが、判別できるという。時にはあねさんかぶりに襷をかけ、 裾は端折ったままであたふたと土堤へ駆け出してきたりする。出てきても手を振るとか声をかけるなどということはない、船のほうを見るようすもなく、ただ船の通り過ぎるあいだ、自分がそこにいることを彼に見せたり、さあらぬ態で彼のほうをひそかに見るのであった。

 

2 井伏鱒二

「黒い雨」1970

「おふたり(妻の兄と娘ぶんの姪の実父)が広島へ行って下されば、せめて線香なりとも持って行って下されや。それから、小畠村の水か青葉なりとも持って行って下されや。線香は屋敷跡に立てて下されや。水と青葉は、屋敷跡に撒いて下されや。 重松は、ケンポナシが好きであったけに、ついでにケンポナシの実を持っていって行って下されや。」
お袋はそう言って「酢の素」の空瓶に井戸水を入れ、線香やフクラシの木の青葉を紙に包んで妻の兄に託した。ケンポナシの実は青いまま地面に落ちているのを二つ三つ拾って、彼のリュックサックの子袋に入れたそうだ。

先日まで姪の矢須子の縁談が加速度的に捗りかけていたが、不意に先方から断りに来て、おまけに矢須子が原爆症の症状を現し始めた。已んぬるかなである。事ここに及んでは、隠し通せるものでもなく、隠しておく必要もなくなった。矢須子は先方に宛てて自分にその症状が現れはじめたことを泣きの涙の手紙で知らせたらしい。先方に対する愛情から打ち明ける決心をしたのであろうか。絶望感から衝動的にそれをしたのであろうか。
矢須子は次第に視力が弱ってきて耳鳴りがするようになったと言っている。はじめ僕は、茶の間でそれを打ちあけられたとき、瞬間、茶の間そのものが消えて青空に大きなクラゲ雲が出たのを見た。はっきりそれを見た。

 

4 藤沢周平

「蝉しぐれ」1986

「このたび白蓮院の尼になると決め、この秋に髪をおろすことにした。しかしながら今生に残るいささかの未練に負かされて、あなたさまにお目にかかる折もがなと、ここまで来ている。お目にかかれればこの上の喜びはないが、無理に願うものではない。万一の幸運をたのんでこの手紙をとどけさせる。」

「私は江戸に行くのがいやで、あのときおかあさまに、私を文四郎さんのお嫁にしてくださいと頼みにいったのです。でもとてもそんなことは言い出せませんでした。暗い道を、泣きながら家に戻ったのを忘れることはできません。」

「この指をおぼえていますか。蛇に噛まれた指です。」
「さよう。それがしが血を吸ってさしあげた。」
お福様はしばらく声をしのんで泣いた。やがて顔をあげて振りむいたときには微笑していた。
「ありがとう文四郎さん。これで思い残すことはありません。」

 

5 米原 万里

「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」2001

「僕の両親は、この(ルーマニアの)体制の救いようのないことをとっくに察していたんですよ。おそらく、すでに六〇年代後半にはね。それで可愛い娘(アーニャ)を外に出すことにしたんだと思います。父だけでなく党の幹部たちの中でもインテリ出身の連中は、まるで暗黙の了解でもあるかのように軒並みそういう手を打っていました。
僕も父から言われた。外国に留学して、留学先で結婚相手を見つけてこの国を出ろと。」

 

「白い都(ベルグラード)のヤスビンカ」2001

「私だってイスラム教を信じているわけではないし、自分がイスラム人だなんて戦争になるまで一度も意識したことなかった。 でも、ムスリム人の両親から生まれているのだからムスリム人であることを否定することはできないし、自分はユーゴスラビア人だってずっと思っていた。それが今度の戦争が始まって否応なく誰もが意識せざるを得なくなったの。」

 

6 河野裕子(1946~2010)

たとへば君ガサッとすくふやうにわたしをさらって行ってくれぬか(21歳)

「私は自分に自信がなくて、生きて行くのがしんどくてしんどくてしようがなかったときに永田に出会いました。まだ病気も治ってなかった。そのとき「あなたはそのままでいいよ」と言ってくれたんです。それで、ああ、これでもいいのかと。それまで自意識が裸になって歩いていたけれど、永田和宏という存在が 私に薄膜を張ってくれて、生きやすくなりました。」(「私の会った人びと」(平20)より)

しんしんとひとすぢ続く蝉のこえ産みたる後の薄命に聴こゆ

とかげのやうに灼けつく壁に貼りつきてふるへておりぬひとを憎みて

たったこれだけの家族であるよ子を二人あひだにおきて山道のぼる

しっかりと飯を食わせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ

何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない

永田と別れて鴨川沿いの道を車を運転して帰ったが、涙があふれてしかたなかった。私の人生の残り時間はあとどのくらい残っているのだろう。きらきら光る鴨川の水面が美しい。いつものように歩いたり、自転車に乗って行き過ぎる学生達がまぶしいほど若くいきいきと見えた。この世はこんなに明るく美しい所だったのか。何故このことに今まで気がつかなかったのだろう。かなしかった。かなしい以上に生きたいと思った。」(「癌を病んで」(平14)より)

やっとこさ正気の今日の綱渡り早寝をするよ誰からも逃げ

一日に何度も笑ふ笑い声と笑い顔を君に残すため

あなたらの気持がこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき

八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわかぬ蝉の声降る

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

「われは忘れず・・・」「それから?」「うん、もうこれでいい」

 

7 「新・百人一首 近現代短歌ベスト100」(文藝春秋2013/1)から

明治天皇
あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな

落合直文
父君よ今朝はいかにと手をつきて問う子を見れば死なれざりけり

正岡子規
いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春ゆかんとす

佐々木信綱
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

与謝野晶子
髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ

窪田空穂
鉦ならし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか

石川啄木
やはらかに柳あをめる / 北上の岸辺目に見ゆ / 泣けとごとくに

五島美代子
亡き子来て袖ひるがへしこぐとおもふ月白き夜の庭のブランコ

明石海人
この空にいかなる太陽のかがやかばわが眼にひらく花々ならむ

斎藤 史
濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ

宮 柊二
一本の蝋燃しつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくいる

山崎方代
こんなにも湯呑茶碗はあたたかく しどろもどろに吾はおるなり

石川不二子
睡蓮の円錐形の蕾浮く池にざぶざぶと鍬洗ふなり

寺山修司
マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし見捨つるほどの祖国はありや

河野裕子
たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

道浦母都子
催涙ガス避けんと秘かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり

小島ゆかり
そんなにいい子でなくていいから そのままでいいから おまへのままがいいから

俵 万智
「寒いね」と話しかければ「寒いね」 と答える人のいるあたたかさ

 

8 永田和宏「近代秀歌」(岩波新書2013)から

海恋し潮の遠鳴りかぞへては 少女となりし父母の家
与謝野晶子

友を見てはじめて心やすまれり 堪らへてありし涙ながるも
島木赤彦

其子等に捕へられむと母が魂(たま)蛍と成りて夜を来たるらし
窪田空穂

さびしさのとけてながれてさかずきの 酒となるころふりいでし雪
若山牧水

わが妻は吾子の手握り死にてはいや 死にてはいやと泣きくるひけり
木下利玄

あなたは勝つものとおもつていましたかと 老いたる妻のさびしげにいふ
土岐善磨

大門のいしずえ苔にうずもれて 七堂伽藍ただ秋の風
佐佐木信綱

うすべにに葉はいちはやく萌えいでて 咲かむとすなり山桜花
若山牧水

曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよし そこ過ぎているしづかなる径
木下利玄

みずうみの氷は解けてなほ寒し 三日月の影波にうつろふ
島木赤彦

おりたちて今朝の寒さを驚きぬ 露しとしとと柿の落葉深く
伊藤左千夫

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にいて足乳根の母は死にたまふなり
斎藤茂吉

やまばとの とよもすやどの しずもりに なれはもゆくか ねむるごとくに
会津八一

さまざまの七十年すごし今は見る 最もうつくしき汝を柩に
土屋文明

 

8 同「現代秀歌」岩波新書 2014/10

いくさ畢り 月の夜にふと還り来し夫を思へば まぼろしのごとし
森岡貞香 (昭28)
(軍人の夫は、長い中国派遣ののち終戦とともに帰国したが、翌年急逝した。)

 

ぬばたまの黒羽蜻蛉(あきつ)は水の上 母に見えねば告ぐることなし
死の側より証明(てら)せば ことにかがやきて ひたくれないの生ならずやも
斎藤 史(昭42)
(母は78歳のとき、緑内障で一眼を失い、80歳で両眼を失った。その後老耄の度を加えつつ、91歳で没した。その間、夫も脳血栓で麻痺に苦しむ身となった。)

 

子がわれか われが子なのかわからぬまで 子を抱き湯に入り子を抱き眠る
河野裕子

 

一枝の櫻見せむと 鉄格子へだてて逢ひしは おとうとなりき
辺見じゅん(平8)
遠桜 いのちの距離と思ひけり
弟 角川春樹

 

いづこにも貧しき路がよこたはり 神の遊びのごとく 白梅
玉城 徹(昭37)

 

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくずおれて伏す
碩(かはら)より夜をまぎれ来し敵兵の三人(みたり)までを迎へて刺せり
闇のなかに火吐き止まぬ敵塁を衝くべしと決まり 手を握りあふ
宮 柊二「山西省」(昭24)

 

居合はせし居合はせざりしこと つひに天運にして 居合はせし人よ
人に語ることならねども 混葬の日中に ひらきゆきし てのひら
竹山 広(平11)
(昭20/8/9 長崎で被爆した。全身が焼けただれた兄を救護所まで苦労して運び込むも、兄はそこで息絶えた。平7/1/17 今度は阪神淡路大震災に遭遇した。)

 

毒入りのコーラを都市の夜に置きしそのしなやかな指を思えり
谷岡 亜紀(平5)

 

夜半さめて見れば 夜半さえしらじらと桜散りおり とどまらざらん
馬場あき子(昭54)

 

すさまじくひと木の桜ふぶくゆえ 身はひえびえとなりて立ちおり
岡野弘彦

 

鶏ねむる村の東西南北に ぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ
小中英之(昭56)
氷片にふるるがごとくめざめたり 患むこと神にえらばれたるや
今しばし死までの時間あるごとく この世にあはれ花のさく駅

 

ものおもふひとひらの湖をたたへたる蔵王は千年なにもせぬなり
川野里子(平2)

 

産み終えて仁王のごとき妻の顔 うちのめされて吾はありたり
大島史洋

 

もゆる限りはひとに与へし乳房なれ 癌の組成を何時よりと知らず
冬の皺よせいる海よ 今少し生きて己れの無残を見むか
頼りなく母をよぶ声伝へくる長距離電話は夜のかぜのなか
中条ふみ子(昭29)

 

歌は遺り歌に私は泣くだろう いつか来る日のいつかを恐る
永田和宏

 

生きてゆくとことんまでを生き抜いて それから先は君に任せる
歌人として死にゆくよりもこの子らの母親であり君の妻として死ぬ
何年もかかりて死ぬのがきっといい あなたのご飯と歌だけ作って
河野裕子

 

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10 島田裕巳「葬式は要らない」(幻冬舎新書2010)

・葬式費用は、全国平均で231万円。(うち、葬儀社に払うもの142万円、飲食代・香典返し40万円、戒名料・読経料54万円)四国は149万円。
アメリカでは44万円、イギリス12万円、ドイツ19万円、韓国37万円。

・墓地埋葬法

(1)死亡後24時間は埋葬も火葬もできない。
(2)火葬は火葬場以外ではできない。
(3)埋葬は墓地以外ではできない。(埋葬をしない散骨は許される。) 

・死者が出た時、病院から火葬場に直行し、焼いた遺骨を散骨すれば、葬式も墓も要らない。(直葬)

・病院から寝台車で自宅又は死体安置所に運び、納棺し、火葬までの間通夜をする。家族のみで行えば家族葬または密葬という。運送と納棺のみを葬儀社に頼むという選択肢もある。

・戒名 仏典のどこにも戒名についての言及はない。戒名という制度があるのは仏教の広がった地域の中で日本だけである。

・(ゼロ葬)多くの火葬場では遺骨を引き取って帰ることが原則になっている。しかし、火葬場によっては、申し出があれば遺骨を引き取らなくても構わないところがあり、火葬場に処分を任せている。その数はどうやら近年増えているようだ。
今の火葬のやり方では、最後にどうしても遺骨が残るので、それを故人の代わりと考えて、墓に納めて供養している。もし、火葬の技術的やり方が変わり、全てが焼き尽きてしまい遺骨が残らないようになれば、すぐにそれに慣れてしまうのでないだろうか。(同「ゼロ葬」集英社2014)(178、180頁)

 

結論としての私(志水)の遺言(平成28/7/26改訂)

・戒名無用、葬式無用、墓無用。
・遺骨は焼却場で焼き尽くしてくれるならそれでよい。

 それができないなら遺骨は砕いて、瀬戸内海に散骨されたい。

 ・通夜は近親者のみで行う。読経無用、香典謝絶。
・死に顔は、ひとに見せない。

 

11 中川恵一「死を忘れた日本人」(朝日出版社2010/5)

・日本人の2人に1人が癌になり、3人に1人が癌で死ぬ。癌は、細胞の老化によって起こるのであるから、世界一の長寿国日本が世界一の癌大国になるのは必然である。

・人間の体の細胞の1%が毎日死んでおり、それを補なうため細胞分裂により毎日新しい細胞が生まれている。細胞分裂の突然変異により、不死の細胞ができてしまうことがあり、それが癌細胞である。癌細胞は、普通、免疫細胞により退治されてしまうが、年齢とともに免疫機能が低下するので癌を退治できなくなる。

・癌は、発見される大きさ(1センチ大ぐらい)になるまでには、長い時間がかかるが、それからは早い。

・癌細胞は死なないで際限なく周囲の栄養を食べ尽くしていく。周囲の栄養が足りなくなると他に転移する。癌は、再発・転移すると完治する可能性が低くなる。癌治療は、転移が出る前の最初の治療が勝負である。

・癌の原因の10のうち、3はタバコ、3はそれ以外の生活習慣、4は運(すなわち分からない。)。

・癌は、早期に発見されれば90%は直る。癌が検査で発見できるのは、1センチ大になったとき、早期の段階では症状はでない。すなわち、定期的に検査を受けなければ早期癌は発見できない。癌検診は、女性の癌についていえば、欧米では8割がなされているのに、日本では2割である。

・癌による痛みを我慢することは全く無意味であり、モルヒネなどで痛みをとった方が、かえって長生きできる。日本での医療用麻薬の使用量は米国の20分の1。

・延命治療は、一旦始めると、その中止は、日本では殺人罪に問われるリスクがあるため、医者は好まない。かくして、延命治療のために、かえって、患者も近親者も望まない生を生きることになりかねない。

 

結論としての私(志水)の近親者に対する「生前指示」(平22/6/21

(1)癌告知・余命告知
医者から近親者に告知があったときは、本人にも告知されたい。

(2)緩和ケア
本人が痛みを訴えるときは、モルヒネなど医療用麻薬の使用を躊躇しないこと。

(3)延命措置
意識が回復する可能性がないときは、胃ろうや人工呼吸器などで延命措置を講ずることをしない。

以上

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