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日本の文学

A. 古代

1-1 井出比呂志「古代国家はいつ成立したか」岩波新書 2011

・2009年、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡で今までの3棟の建物跡に加え、さらに大きな建物跡が発見された。3世紀前半、卑弥呼と同時代のもの。東西150メートル、南北100メートルの大規模な屋敷地が存在した。これらの建物と柵はすべて同時に構築され、同時に廃棄されたと考えられる。

・倭人伝によると、「女王国から北にはとくに一大率をおき、諸国を検察させる。諸国はこれを畏れ憚る。」「国中に刺史のようなものがある。」伊都国や奴国などの諸国には 「(大)官と副官」という二人の統率者がいた。
卑弥呼は王になってから、朝見するものは少なく、婢千人をみずから侍らせる。
その死後、「径百余歩」の墓を作った。
桜井市の箸墓古墳は、古墳発生直後の前方後円墳で、全長280メートル。卑弥呼の墓の最有力候補とされる。

・「宋書倭国伝」によると、倭国五王のうち2番目の珍は自らを安東大将軍・倭国王に任命するだけでなく、倭隋ら13人をも将軍に任命するよう宋に要求している。3番目の済も同様のことを要求している。これは倭国王が地方の有力首長と連合しつつ倭国を支配していたことを示している。
これに対し5番目の倭王武は、478年、安東大将軍・倭国王のみを要求して認められている。
日本書紀によると、継体天皇のときの527年、朝鮮半島に出兵しようとした6万の中央軍を筑紫国造磐井が阻んだ。翌年磐井は激しい戦いの末殺された。
継体大王は、朝鮮半島に13基の前方後円墳を築かせるほどの影響を与えた。

 

1-2  渡辺義浩「魏志倭人伝の謎を解く」中公新書 2012

・倭人伝によると、邪馬台国から曹魏への朝貢は、239~247年で4回、のちの遣唐使よりはるかに頻度が高い。曹魏からの使者は2回。(68頁)

・倭人伝では卑弥呼の死去を「死」と記す。これは被支配者層である民の死去を表現する。(8頁)

・晋書 四夷伝 倭人の条によると、「宣帝が公孫氏を平定すると、倭国の女王は使者を派遣して帯方郡に至らせ朝見し、その後朝貢することが絶えなかった。文帝(司馬昭)が帝相となるに及び、またしばしば(倭の使者が)至った。泰始年間(265~274年)のはじめ、(倭は)使者を派遣して通訳を重ね朝貢した。」

・「卑弥呼が死去したため、大いに塚を作った。塚の径は百余歩、殉葬する者は奴婢百余人。あらためて男を立てたが、国中は服せず、相互に殺し合い、この時に当たり千余人を殺した。また卑弥呼と同宗の女性である壱与という13才の子を立てて王となし、国中はようやく定まった。」

・曹魏が夷狄に与えた称号の中で「親魏何何王」と三国志が表記するものは、「親魏倭王」のほかには「親魏大月氏王」しかない。(77頁)
大月氏王は229年、蜀漢の北伐に対して、涼州の背後を固めるために賜与された。(80頁)
公孫氏の遼東半島の支配、朝鮮半島への進出は後漢末に始まる。238年 曹魏は公孫氏を滅ぼした。曹魏が卑弥呼に親魏倭王の称号を賜与した理由は、孫呉の海上支配に対抗するためだった。(90頁)

・「伊都国には、代々王がおり、みな女王国に統属している。ここは帯方郡からの使者が倭国と往来するときに、常に駐まるところである。」(126頁)

・倭人伝の距離と方位は、理念に基づいて作成されている。距離は大月氏国と同等、方位は、呉の背後となるように設定されている。大月氏王と倭王とを対比させて表現するためであった。(136頁)
親魏倭王の卑弥呼は、鏡を特注して優遇すべきほど、そして親魏大月氏王に匹敵する、曹操魏国にとって重要な存在であった。(145頁)

・「女王国より北には特別の一人の大率を置き、諸国を監察させている。諸国は大率を畏れ憚っている。大率は常に伊都国を治所とし、倭国の内での権限は中国の刺史のようである。女王が使者を派遣して洛陽、帯方郡、諸韓国に至らせるとき、および帯方郡が倭国に使者を送るときにも、みな(大率が)津で臨検して確認し、伝送する文書と、下賜された品物を、女王に届ける際に、間違えることのないようにさせる。」(153頁)

・「倭国はもと男子を王としていた。(男王のもと)七、八十年すると、倭国は乱れて、互いに攻撃しあうことが何年も続き、そこで一人の女王を共に立てて王とした。名を卑弥呼という。鬼道(巫術、妖術)を行い、よく人々を幻惑した。年はすでに年配であるが、夫を持たず、弟がおり、国の統治を助けている。王になって以来(卑弥呼を)見たことのある人は少ない。婢千人を自分に侍らせ、ただ一人だけ男子がおり、飲食を給仕し、言辞を伝えるため出入りしている。(卑弥呼の)おる宮室は、楼観(見張り櫓)と城柵を厳しく設け、常に人々がおり武器を持って守衛している。」(160頁)

 

1-3  木下正史「倭国のなりたち」 吉川弘文館  2013/4

・「漢書」(76~84年の作)地理志に「夫れ楽浪の海中倭人あり。分かれて百余国をなす。歳時を以て(楽浪へ)来りて朝見すと云う。」

・「後漢書」(432年の作)倭国については280年ごろ書かれた三国志の記載を踏襲しているが、次の2点は、独自の記載である。
57年、「倭の奴国、奉貢朝賀す。公武、賜うに印綬を以てす。」
107年、「倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。」
倭国王帥升については、別の史書では「倭面土国王帥升」とあり、倭伊都国王帥升のことかとされる。(144頁)

・「前方後円墳」
その源流は古代中国には無い。朝鮮半島には南西部に10数基あるが、いずれも5、6世紀の築造である。(158頁)
円丘に方形突出部をつけた墳丘墓がもととなって 3世紀前半ごろ、前方後円墳の直接の祖形となる前方後円型墳丘墓が登場する。纏向の地(桜井市)がその中枢地となる。その一角で最初の前方後円墳の箸墓古墳が出現する。
4世紀前半まで、つぎつぎと全長200メートルを超える巨大前方後円墳が営まれた。(158頁)

・4~5世紀

・奈良県天理市石上神宮の「七支刀」
その銘文に「369年に百済王世子奇王が倭王旨のために作った。」とある。
日本書紀神宮皇后 52年条に、「百済の肖古王が七枝刀一口、七子鏡一面を貢上した。」とあるのがそれであろう。

・4世紀中葉過ぎ、高句麗が南下。新羅は高句麗に接近し、百済と伽耶は倭と結んで高句麗に対抗。鉄資源を朝鮮半島南部に依存しているのを守るためであった。
369年や371年の戦いでは、倭国王も出兵して百済を勝利に導いた。

・「好太王碑」(414年)によると(182頁)
396年「百済、新羅はもと高句麗の属民として朝貢関係にあったが、391年、倭が海を渡って進出してきて百済と新羅を臣民化した。」
399年「百済が高句麗との約束を破って倭と同盟を結び、倭が多数の軍勢で新羅の国境を攻めた。」
400年「高句麗は新羅から倭軍を撃退、追撃して任那、加羅、安羅を破る。」
407年「倭ら敵軍をことごとく斬殺し、甲冑1万余領を獲得した。」
これらの高句麗戦争について日本書紀には一切記載がない。

・宋(420~479年)との関係(185頁)
420年高句麗王は「征東大将軍」、百済王は「鎮東大将軍」との称号が与えられた。倭王讃は「安東将軍倭国王」が授けられたにとどまる。これは前二者の「大将軍」より、相当低い称号である。

・埼玉県行田市の稲荷山古墳鉄剣の銘文によると、「471年、八代に連なり「杖刀人首」であった某がワカタケル大王(雄略天皇)の統治を助けた記念に作成した。」とある。

・熊本県和水町の江田船山古墳の大刀の銘文は、
「天下を治めた雄略天皇の時に「典曹人」某が作った。」とある。

・雄略天皇は489年没。20年後の507年に継体天皇が即位。新王朝の誕生である。
継体6年(512年)、大連大伴金村が任那を百済に割譲、21年には筑紫国造磐井が反乱を起こした。

 

古事記  712年  池澤夏樹訳 河出書房新社 2014

(大国主命)

追放されたスサノヲは出雲の国に降り立った。
そこで八俣のオロチを退治した。「目はまるでホオズキのように赤く、身体は一つでも頭と尾が分かれて八つずつある。その身体には苔や杉や檜が生えておる。長さは、八つの谷、八つの尾根にまたがるほど。腹はいつも血に濡れてただれていた。」
蛇の尾を切ったときに何でもばっさり切れる鋭い剣が隠されていた。 その剣を、アマテラスに献上した。これが草那芸の太刀である。
スサノオの孫が大国主神。大国主神には、五つの名があり、80人の兄弟がいた。彼は80人の兄弟を追い払って、ここに初めて国を作った。
アマテラスは、「豊葦原の千秋長五百秋の水穂の国」は、私の子が治めるべき国であると宣言した。
オホクニヌシは、「この葦原中国はすっかりお渡しします。ただ一つ、私が住む場所を天つ神の御子の欠けるところのないお住まいと同じように造りなし、深い岩の上に太い柱を立てて、高天の原まで届くほどの高い千木を延ばしていただければ、私は百に足らぬ八十の道を辿った果てにあるこの出雲で隠棲して暮らします。」
タケミカヅキは、天に戻って、葦原中国を命令のままに平和裏に平定したと報告した。(105頁)

 

(神武東遷)

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコのミコト)は、「天下を平和に治める地を探しに東へ行こう」と、兄と高千穂の宮で相談し、日向を出て筑紫に移った。豊国の宇沙を経て、筑紫で1年を過ごした。この国から上って、安岐国に7年いた。さらに吉備で8年を過ごした。速吸門から海を渡り、波速渡を経て白肩津に船を泊めた。
ここで兵を率いて戦いを挑んできた者がいた。迎え撃つべく、積んできた楯をとって船から下りた。これが楯津、今では日下(河内国河内郡)蓼津という。
兄は、敵の矢を受けて紀國で死んだ。そこを出てぐるりと回り熊野まで来、それから吉野川の河口に至った。それから山を踏み、道を穿って宇陀まで来た。
そこを出て忍坂(大和国城上郡 今の桜井市)の大きな洞窟に至った。そこにいた80人の獰猛な者たちを打ち殺した。
このようにカムヤマトイハレビコは荒々しい神たちを服従させ また反抗する者どもを打ち負かせたりして、畝火の橿原宮に住んで天下を治めた。(141頁)

 

(倭建命)(ヤマトタケルのミコト)

纏向に住まわれて大八島国を治めるオホタラシヒコオシロワケ(12代景行天皇)の子。
出雲など西の方を平定して帰ってくると、天皇はすぐにまた東の方に12の国々があるからこれを平定して来いと命じた。伊勢の大神にお参りし、尾張の国を経て、東の国に進んで山や川の荒々しい神々を従わせた。相武の国に至ったとき、騙されて焼き殺されかかったところを逆に野火を放って敵を焼き殺した。だからここを焼遺と呼ぶ。
旅を続けて走水の海(浦賀水道)を渡ろうとしたとき、この海峡の神が波を起こして先へ進ませなかった。すると妃の弟橘比売命(オト・タチバナ・ヒメのミコト)がいうには、「私があなたに代わって海に入りましょう。貴方は与えられた仕事を果たして帰って報告なさってください。」
妃が歌って、

「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の
 中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも」

さらに旅を続けて、荒々しい蝦夷をすべて服従させ、都へ帰ろうとして、足柄を越えて、甲斐に出た。そして尾張の国まで戻った。
途中、伊吹の山の神を打ち取りに上り、さらに、三重の村に着いたとき、「私の足は三重に曲がったまがり餅のように腫れて曲がってしまった。とても疲れた。」と言った。だからここを三重と呼ぶのだ。
郷里を思って歌うことには、

「倭は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠れる 倭しうるはし」(221頁)

(神功皇后)

兵士を用意し船を並べて、海を渡ろうとすると、海の魚が大きいのも小さいのも皆集まって船を負って運んだ。この波はそのまま新羅国に押し上がり、勢いよく国土の半分までを浸した。
新羅国は御馬甘と決め、百済国は渡りの屯家(みやけ)と決めた。(230頁)

(15代応神天皇)

新羅の人々が渡ってきた。
百済の国王が雄馬と雌馬を1頭ずつ献上してきた。
天皇は百済の国に、「賢い人がいるなら寄越して下さい」といったら、吉師を派遣して、この人は「論語」10巻、「千字文」1巻を携えてきた。また、鍛冶工、呉服職人、秦の造の祖先、漢の直の祖先、酒の醸造職人などがやってきた。(254頁)

 

3  万葉集

 

(中大兄皇子)

「渡津海(わたつみ)の豊旗雲に入日さし 今夜の月夜さやけかりこそ 」

 

( 柿本人麿呂 )

「 淡海(おうみ)の海 夕波千鳥汝が鳴けば 情(こころ) もしのに古 ( いにしへ ) ( 天智天皇の近江京の時代 ) 念 (おも) ほゆ 」

 

(志貴皇子)

「石激(いはばし)る垂水(たるみ)の上のさ蕨の 萌え出ずる春になりにけるかも 」

 

(山部赤人)

「み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)には ここだもさわぐ鳥の声かも 」
「烏玉(ぬばたま)の夜の更け去かば 久木生ふる 清き河原に千鳥数(しば) 鳴く 」

 

(大伴家持)

「立山の雪し消(く) らしも  延規 (はひつき) の川の 渡瀬(わたりせ) 鐙(あぶみ) 浸 (つ) かすも 」
「我がやどの いささ群竹(むらたけ) 吹く風の 音のかそけき この夕 (ゆうべ)かも 」

 

4 竹取物語

天竺にある仏の御石の鉢
東海上の蓬莱山にある銀を根とし金を茎とし白い実をつけている木
火鼠の皮衣 ( 燃えない )
龍の首にある五色に光る玉
燕の持っている子安の貝

 

5 古今集  905年ころ

 

(凡河内躬恒)

春の夜の闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる
風吹けば落るもみぢ葉 水清み 散らぬ影さへ底に見えつつ

 

(素性法師)

見渡せば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける
もみぢばの流れてとまる湊には 紅ふかき波やたつらむ

 

(遍昭)

あさみどり 糸縒りかけて 白露を 玉にもぬける 春の柳か

 

6 道綱母「蜻蛉日記」974  室生犀星訳 岩波現代文庫 2013

・私19才 彼26才のとき、求婚のお文をいただいた。
何度も歌を贈り答えしているうちに、とうとうあの方をお通しするようになった。
翌年道綱が生まれた。
あるとき夕方に出ていこうとすることがあったので人に跡をつけさせたら、町の小路にあるこれこれでお泊りになったという。
「歎きつつひとりぬる夜のあくる間は いかに久しきものとかは知る」
という歌を色あせた菊にさして持たせてやった。

だいたいの生活はなんの不足もないのだけれど、ただあの人の気持ちだけを恨みに思っている。しかしそれは私ばかりでなく、この頃は長い間のちぎりで本邸に住んでいる時姫のところさえ、とだえがちだという噂なので、あなたの所さえ離れているということですが、一体あの人はどこに通っているのでしょうか、という歌を送ったら、離れていったのはあなたの所へとばかりと思っていました、という返事が来た。

町の小路の女に男の子が生まれた。
はてはこの子も死んでしまった。胸のつかえが下りるようだった。

「お帰りのとき気休めのように、そのうちまた来る、と言われた言葉を、ほんとそうかと待っている幼児が、いつもまねしているのを聞くと、涙が出ます。」

えてみると、夜会わなかったのが30余日、昼見ないことが40余日になっていた。

・私37~39才、彼44~46才、道綱18~20才

もう子供の生まれる見込みのない年齢だから、なんとかいやしくない人の女の子を一人、引き取って世話をしてみたくなった。将来一人子の道綱とめあわせて、私の臨終の時までも見取ってほしいと、だれかれに相談していたところ、「殿が昔お通いになった方の姫君でたいへんかわいい人がいる。母子で志賀の麓で暮らしている。」という人があった。

彼に会わせると、「かわいらしい子じゃないか。誰の子なんだ。」というから、「あなたのお子様じゃありませんか。」

道綱が女に歌を贈る年になった。
去年の八月から絶えてしまったあの人との仲は、はかなくももう一月になってしまった。

養女に思いをかける男が出てきた。

古風な私の父も例の許されないことなので身分相応に、五位の官人の中にまじっていたのを、夫はおおぜいいる中から特に連れてこさせて、杯をさされたりしているのを見ると、ただその時ばかりは、夫のなさり方に対し、嬉しい気持にもなるのだった。

こんなふうに夫とうち絶えたまま、なお何かに心をひかれあこがれながら、今日になってしまったのもあきれるほどで、歳末の御霊祭りをするにつけても、いつもの尽きぬもの思いにおぼれて、茫然としてしまうのだった。

 

6. 源氏物語

 

・「(藤壺の)宮(22才)もあさましかりしをおぼし出づるだに世とともの御もの思ひなるを、さてだにやみなむ、と深うおぼしたるに、いとうくて、いみじき御けしきなるものから、」(若紫)

・「(妊娠)三月になり給えば・・・わが御心ひとつには(源氏18才の子と)しるう (はっきり)おぼし分く事もありけり。」(若紫)

・「(源氏は桐壺帝の前で)いみじうつつみ給へど、忍びがたきけしきの漏れ出づるおりおり、(藤壺の)宮もさすがなる事どもを多くおぼしつづけけり。」(若紫)・「男君(源氏22才)はとく起き給ひて、女君(紫の上14才)はさらに起き給はぬ朝あり。・・・かかる御心おはすらむとは、かけても(少しも)おぼし寄らざりかば、などてかう心うかりける御心をうらなく頼もしき物に思ひきこえけむ、とあさましうおぼさる。」(葵)

・「秋の夜の月夜の駒よわが恋ふる 雲居を翔れ (彼女を) 時の間も見む」(明石)

・「故院(桐壺帝)の上も、かく御心にはしろしめしてや、知らず顔をつくらせ給ひけむ。思へば、あやまちなりけれ、と近きためし(藤壺との密通)をおぼすにぞ、恋の山路は、えもどくまじく御心まじりける。」(若菜下)

・「(女三の宮22才の出産は)さてもあやしや、わが世とともにおそろしく思ひしことの報ひなめり。この世にてかく思ひかけぬことに向かはりぬなれば、後の世の罪もすこしかろみなんや、とおぼす。(源氏48才)」(柏木)

・「(薫の君)が帰り給ひて、まずこの袋を見給へば(実の父たる柏木の)名の封つきたり。あくるもおそろしうおぼえたまふ。色々の紙上にて、たまさかに通ひける御文の返事、五つ六つぞある。さては、(柏木)の御手にて、病は重く限りになりたるに、(女三の宮の)御かたちも変はりて(尼になって)おはしますらむが、さまざまかなしことを紙五、六枚につぶつぶとあやしき鳥の跡のやうに書きてある。」

・「(母女三の宮)の御前にまいり給へば、いと何心もなく、若やかなるさまし給ひて、経読み給ふを、はじらひてもて隠し給へり。」(橋姫)

 

7. 枕草子

・「 春はあけぼの。やうやうしろくなり行く山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて風の音、 虫の音など、 はた、いふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きもまたさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして炭持もてわたるも、いとつづきし。」(第1段)

 

「あて(上品)なるもの(童女が)薄(紫)色に白襲(がさね)の汗衫(かざみ)(童女の正装の上着)(を着ているの)。かりのこ(鴨の卵)。削り氷(ひ)に甘葛(ずら)(葛の甘味料)入れて、あたらしき鋺(わん)に入れたる。水晶の数珠(ずず)。藤の花。梅花に雪の降りかかりたる。いみじううつくしきちごのいちごなど食ひたる。」(第40段)

 

8. 平家物語 水上勉訳

  ・ 「われは保元・平治この方、たびたびの朝敵を平らげ、恩賞は身にあまり、かたじけなくも一天おん君の御外戚として、太政大臣にのぼり、栄華は子孫にまで及んだ。今生の望み、一事も思い残すことはない。ただ、思いおくことといえば、伊豆の国の流人前兵衛佐頼朝の首を見なかったことだ。これが何とも無念だ。われ亡きあとは堂塔を建てたり、仏事供養などするに及ばぬ。すぐ討っ手を東国へさし向け、頼朝の首をはねて、わが墓の前に置け。それが何よりの供養だ。」

 

  ・ 九郎御曹司は城郭をはるかに見下ろして、「馬を落してみよう」

と鞍置馬を何頭か追い落した。足を折って落ちる馬もあれば、途中で転んだが無事落ちゆくのもある。そ     

の中で鞍置馬三頭が、越中前司の仮屋の前に着いて、身ぶるいして立つのが見えた。これを見た御曹司は、

「馬はのり手が心得て落とせば、痛うは損ずまじ、それ落とせ、義経を手本とせよ」

とまず30騎ばかりで、まっ先に駆け落したので、残りの3千騎がいっせいにつづいて落した。後陣に落とす人々の鐙の先が、先陣の鎧兜にあたるほどである。小石まじりの砂地だったから、流れるように2町ばかりさっと落ちて、段のようになったところでひとまず馬をとめた。そこから下を見下ろすと、大盤石の苔むしたのが垂直に14、5丈もそぎ立っている。先はもう進めそうもないし、うしろへひき返すこともできない。兵どもが「これが最後か」と途方にくれていると、佐藤十郎義連がすすみ出でていうことには、

「三浦の方では鳥ひとつ追うにでも朝夕難所をかけ廻りました。これぐらいの所は、三浦では馬場でした」

とまっ先に駆け落したので兵どもはみなつづいて落した。

 

  ・ 「あっぱれな大将軍だ。この人ひとり討ちたりとも、負けるべき戦に勝つはずもなし、また助けたとて勝ち戦に負けることはよもあらじ。今朝一の谷にてわが子小太郎が薄傷(うすで)を負うてさえこの直実は心を痛めたに、この若殿の父は、子が討たれたと聞けば、いかばかりか嘆かれるであろう。」

    首をつつもうと、鎧直垂を解いてみると、錦の袋に入れた笛が腰にさしてある。

    あとできけば大夫敦盛といい、生年17歳であった。 熊谷に出家の志が起きたのはこのときからである。 くだんの笛は、祖父の忠盛が笛の名手で、鳥羽院から賜ったのを、父の経盛がもらいうけ、敦盛がまた笛の名手であったため、これを持たせたのだという。名を小枝(さえだ)といった。

 

B. 中世

1. 新古今集 1205年ころ

(後鳥羽上皇)

我こそは新 (にひ) 島守よ 隠岐の海の 荒き浪風 心して吹け

 

(良経)

空はなほかすみもやらず 風冴えて 雪げに曇る 春の夜の月

 

(俊成)

かつ凍りかつは砕くる山川の 岩間にぬせぶ 暁の声

 

(家隆)

花そのみ待つらん人に 山里の 雪間の草の 春を見せばや

 

(壬二集)

下紅葉かつ散る山の夕時雨  濡れてや ひとり鹿の鳴くらむ

 

2。 西 行  (1118~90)

心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮

道のべに清水ながるる柳かげ  しばしとてこそ立ちどまりつれ

冬枯のすさまじげなる山里に  月の澄むこそあはれなりけれ

年たけてまた越ゆべしと思ひきや  いのちなりけり小夜の中山

風になびく富士のけぶりの空に消えて  行方も知らぬわが思ひかな

 

3. 平治物語

常盤御前、平清盛に自首して、「(自分の)母は本より科なき身にて候へば、御免し候べし。子ども(今若、乙若、牛若)の命を助け給はんとも申し候はず。一樹の下に住み、同じ流れを渡るも、この世一つの事ならず。高きも卑しきも、親の子を思ふ習ひ、皆さこそ候へ。わらはこの子どもを失ひては、かひなき命、片時も堪へてあるべしとも覚え候はねば、まずわらはを失はせ給ひて後、子どもをばともかくも御計らひ候はば、この世の御情、後の世までの御利益、これに過ぎたるおんこと候はじ。ながらへて夜昼嘆き悲しまんことも、罪深く覚え侍る。」

 

4. 源実朝 1192-1219

けさ見れば山も霞みて ひさかたの 天の原より春は来にけり
わが宿の 八重の紅梅咲きにけり 知るも知らぬもなべて訪はなん
散り残る 岸の山吹 春深み この一枝を あはれといはなん
吹く風の涼しくもあるか おのづから 山の蝉鳴きて 秋は来にけり
大海の 磯もとどろに寄する波 われてくだけて さけて散るかも
時により過ぐれば民のなげきあり 八大龍王 雨やめたまへ
神といひ仏といふも 世の中の 人の心の ほかのものかは

 

4. 神田千里「宗教で読む戦国時代」 講談社選書メチエ  2010

「天道」の観念が上は天皇から下は雑兵まで浸透しており、彼らを門徒・檀徒として組織していた仏教の諸宗派は、世俗の世界で儒教的倫理を尊重するとともに、個人の内面の世界では宗派固有の信仰を主張するという棲み分けの論理を共有していた。
豊臣秀吉が天正15年(1587 )に発令したキリシタン取締令とバテレン追放令では、一般人の信じる宗教は「八宗九宗」の儀であり自由である、人々の信じるさまざまな神仏を尊重する「神国」の中では他宗派を武力で攻撃し、信仰を強制するキリシタンは「邪法」である、と。

 

5. ルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」原著 1585  岩波文庫 1991

第1章  男

9  我々の間では痘痕(あばた)のある男女はめったにいない。日本人の間では極めて普通のことで、多くのものが痘瘡で失明する。
16  我々の間では衣服を右から左へ合わせる(重ねる)。日本人は着物を左から右へ合わせる。
30  我々は喪に黒色を用いる。日本人は白色を用いる。
(訳者岡田章雄の註) 1610年の細川幽斎の葬礼の記録によれば、辻堅の士はすべて白の小袖に上下、扈従の者は無紋の羽織、舎人は烏帽子に白の素襖、故人の愛馬には白い手綱をかけ、総体を白い馬絹で蔽い、また弓、鑓、長刀、太刀、骨箱なども白絹で包む。女中、女房等は白の絹をかずいていた。喪主忠興は鈍色の束帯であった。

 

第2章  女

1  ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴とさは貞操である。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失なわなければ、結婚もできる。
11  ヨーロッパの女性は美しい整った眉を重んずる。日本の女性は一本の毛も残さないように、全部毛抜きで抜いてしまう。
16  ヨーロッパの女性は歯を白くするために手を尽くす。日本の女性は鉄と酢を用いて、歯を黒くすることに努める。
31  ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪である上に、最大の不名誉である。日本では意のままに幾人でも離別する。妻はそのことによって、名誉も失なわないし、再婚もできる。
34  ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことは極めて大事なことで、厳格におこなわれる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。
35  ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所へ行く自由を持っている。
38  ヨーロッパでは、堕胎をすることはあるにはあるが、滅多にない。日本では極めて普通のことで、20回も堕した女性があるほどである。

 

第3章  こども

7  我々の間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多に行われない。ただ言葉によって譴責するだけである。
9  我々の子供は始めに読むことを習い、その後で書くことを習う。日本の子供はまず書くことから始め、後で読むことを学ぶ。
(訳注) 当時の仏寺の教育は習字に重きを置いていたようである。その一例は、13歳元服と共に寺に入り、まずいろはから始めて、仮名文、真名文を習い、庭訓、童子教、実語教等を読み、14歳になると草書、行書を覚え、論語、朗詠、四書五経等を読み、15歳で真書を習い、古今集、万葉集、伊勢物語、源氏物語、八代集、九代集等の講釈を聞き、和歌の道を覚え、そして16歳になって下山したという。

 

第4章  坊主

1  我々の間では、人は罪の償いをして、救霊を得るために修道会に入る。坊主らは、逸楽と休養の中に暮らし、労苦から逃れるために教団に入る。
5  修道会の現世的財産は、我々の間では共有のものである。坊主らはすべて自分の財産を持ち、自分の手に入れるために儲ける。
23  我々は来世の栄光と劫罰、霊魂の不滅を信じている。禅宗の坊主らはこれを全部否定し、生まれることと死ぬこと以外は何もないとしている。
(訳注)禅宗では一休宗純の歌として知られる「生れては死ぬる也けり おしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も」「世の中は食うてはこして寝て起きて さてその後は死ぬるばかりよ」などにその意がうかがわれる。

 

第6章  食事

49  我々が食事の後に歯を綺麗にするのを、日本人は朝にするのが普通である。すなわち顔を洗う前に歯を磨く。

 

第7章  武器

7  ヨーロッパの人々は突き刺す武器を使うのに慣れている。日本人はそのようなものを使わない。

 

第8章 馬

7 我々の馬はすべて釘と蹄鉄で装鋲する。日本ではそういうことは一切しない。その代わり、藁の沓をはかせる。

 

第9章  病気

12  我々の病人は、食欲がない場合に、人々は彼に無理にでも食べさせようとつとめる。日本人はそれを残酷だと考え、食欲のない病人は死ぬに任せる。

 

第11章  家屋

9  我々は宝石や金、銀の片を宝物とする。日本人は古い釜や、古いヒビ割れした陶器、土製の器等を宝物とする。

 

第12章  船

23  我々の間では船の積載量は船体によって計る。日本では帆の蓆によって計る。
(訳注) ヨーロッパの場合船のトン数には容積の積量である総トン数と重量である排水トン数とがある。和船の場合、船の大きさは米の積高で、石高をもって、五百石積、千石積で表す。帆の蓆で計るというのは、十端帆、二十端帆などという呼称を用いることであろう。

 

第14章  雑

10  我々の間では召使の譴責や従者の懲戒は、鞭打ちでもって行う。日本では首を切ることが譴責と懲戒である。
36  ヨーロッパでは言葉の明瞭であることを求め、曖昧な言葉を避ける。日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、もっとも重んぜられている。
48  我々の間では礼節はおちついた、厳粛な顔でおこなわれる。日本人はいつも間違いなく偽りの微笑で行う。
57  我々は怒りの感情を大いに表わすし、また短慮をあまり抑制しない。彼らは特異の方法でそれを抑える。そしてきわめて中庸を得、思慮深い。

 

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C. 近世

1. 芭蕉(1644 – 1694)

「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」
「五月雨を 集めて早し 最上川」
「荒海や 佐渡によこたふ 天の川」
「旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る」

 

2. 蕪村(1716 – 1783)

「夏河を 越すうれしさよ 手に草履」
「鳥羽殿へ 五六騎いそぐ 野分哉」
「楠の根を 静かに濡らす しぐれ哉」
「牡丹散って 打ちかさなりぬ 二三片」
「絶頂の城 たのもしき 若葉かな」
「さみだれや 大河を前に家二軒」
「鶯の 鳴くや小さき 口明いて」

 

3. 一茶(1763 – 1827)

「火の気なき 家つんとして 冬椿」
「是がまあ つひの栖か 雪五尺」
「ゆうぜんとして 山を見る蛙かな」
「雪とけて 村いっぱいの 子ども哉」
「りんりんと凧上りけり 青田原」
「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」

 

4. 良寛(1758 – 1831)

「飯乞ふと 里にも出でずなりにけり 昨日も今日も 雪の降れれば」
「今よりは 古里人の音もあらじ 峰にも尾にも 積もる白雪」
「歌も詠まぬ 手まりもつかぬ 野にも出ぬ 心ひとつを 定めかねつも」

 

5-1. 山本博文「これが本当の忠臣蔵」小学館新書 2014

・1701(元禄14)3/11将軍綱吉は、年始の礼のため京から下向していた勅使と院使からお暇の挨拶を受けた。儀式全般を担当するのは高家筆頭吉良上野介義央、勅使饗応役として浅野内匠頭長矩が任命されていた。

・上野介が江戸城松之大廊下で留守居番の梶川と立ち話をしていたところ内匠頭が「此間の遺恨、覚えたるか」と言いながら、背後から小刀で上野介に斬りつけた。上野介が驚いて振り返ったので、内匠頭の小刀は頭に当たり、眉の上を傷つけた。上野介は、あわてて向き直り、逃げようとした。内匠頭は、それを追いかけ、またふた太刀ほど斬りつけた。

・内匠頭は、とりおさえられたあともずいぶん興奮して次のように繰返し言っていた。
「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候。」

・老中は、梶川に「上野介が、脇差に手をかけたり、あるいは抜き合わせたりということはなかったか」と尋ねている。上野介が脇差に手をかけていれば、これは喧嘩となって喧嘩両成敗が天下の大法となっていた。上野介は逃げただけだったので、老中は喧嘩として扱わなかった。

・上野介の傷は、13.6センチメートル、骨にも少し傷がついていた。小糸で6針縫っている。背中の傷は浅かったが、これも3針縫った。額への太刀が烏帽子に当たらなければ、もっと傷はひどかっただろう。

・将軍綱吉は、大切な儀式の場を血で汚した内匠頭を憎み、即日切腹を命じた。

・尾張藩士が日記に書き留めた噂話によると、上野介は欲が深く、諸大名は賄賂を贈って、いろいろ教えてもらっていた。赤穂藩の江戸家老は、主君へ賄賂を贈るよう進言したが、内匠頭は贈らせなかった。すると上野介は、必要な知らせなどもしなくなり、内匠頭の失敗が多くなった。そのうち上野介は老中の前で、「内匠頭殿は万事不調法で、言うべき言葉もない。」というようなことを言上した。同席していた内匠頭は逆上して座を立ち、その直後松之大廊下で刃傷に及んだというのである。

・赤穂城では3/29まで上野介の生死が分からなかった。赤穂藩の藩士は300人以上だった。

・近習は、「泣き主君の無念を晴らしたい」という気持ちが強かったようだが、堀部らの急進派は、「主君の恨み」というより、自分たちの武士の「一分」を問題にしている。「家中の一分の立つように命じられないうちは、この城を簡単に渡して、どこへ行くこともできません。家中にまともな武士がいないように思われるでしょう。」

・茅野和助書状1702(元禄15)12/5
「此場を遁れ候いては、私迄ならず一家の面目、殊に武士を立て候へば武一郎、又は倅猪之吉などにもあしく、兎角兎角武士をはずれ申す事に御座候。」

・吉良邸には100人以上がいたことは確かである。だが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる。
非番の家臣たちは、長屋にいた。47士たちはその出口を固め、準備していたかすがいで長屋の出口を打ち付け、閉じ込めたのだ。
広間で6人、台所で1人、その他で2人ばかりが大いに奮戦した。
上野介の子である左兵衛義周(よしちか)は長刀を持って奮戦した。額と背中にかけて重傷を負った。18歳であった。吉良側の討ち死に16人、そのうち11人の刀には血がついていた。負傷者は21~23人、重傷者4人。その場から逃亡した者12人。
赤穂浪士たちは午前4時過ぎに討ち入りに出発し、1時間ほどで決着し、吉良邸から泉岳寺まで3時間ほどかかっている。

・上杉の藩主綱紀にとって上野介は実の父、左兵衛は自分の次男である。病気中であったが、上屋敷に50~60人、中屋敷からも人を呼んで駆けつけようとしたが、老中は使いをやってこれを禁じた。
差兵衛は、討ち入りを防げなかったことが「不届き」とされ、諏訪家にお預けとなった。21歳で病死した。実父米沢藩主上杉綱紀は事件の3年後に病死している。

・誰かが斬りかかってきたら理由のいかんを問わず刀を抜いて応戦する。また斬りかかった以上は、相手を斬り殺す。それが武士なのである。そのような道徳、つまり、武士道が是認された社会においては、吉良邸の討ち入りは、とりたてて「やくざ」の行動ではない。まさに武士道を順守し、武士の面子(めんつ)をかけた戦いだったのである。
討ち入りが成功したあと、多くの武士が赤穂の浪人たちの行動に感動し、賞賛した。自分たちがおさえつけている、武士らしい精神を実践した者が目の前に現れたからである。
家老という責任のある立場にあった大石内蔵助は、藩の面目を第一に考え、急進派の堀部安兵衛らは、武士の面子を重んじた。しかし、多くのものは、理性的に判断して討ち入りが武士の義理だと考えたように思う。そしてその義理を果たすためには、自分の命を捨てなければならなかった。
歴史家が、赤穂事件にこだわるのも、江戸時代の武士道を理解するうえで格好の素材だからである。

 

5-2. 野口武彦「忠臣蔵」ちくま新書1994

京都用人だった小野寺十内
「虫同然の小家の者共、かつまた籠城して運を開くべき為の事にもこれなく、ただ城中にて各自自滅の覚悟にて候」「今の内匠殿には格別の御情にはあずからず候へども、代々ご主人くるめて百年の報恩、また身不肖にても一族日本国に多く候に、ケ様の時にうろつきては、家の疵、一門の面汚し、面目もなく候ゆえ、節に至らばいさぎよく死ぬべしと確かに思ひ極め申し候。」

三村次郎左衛門は、知行わずか七石二人扶持という身分の酒奉行であった。城明渡しのとき、領内の帳面作製の繁務に大いに尽力し、無事に引き渡しが済んだ後、大石はこの軽禄の下役をねんごろにねぎらった。三村はこの謝辞をもらった嬉しさを忘れなかった。相手に心服し、どこまでもついていこうという気になった。「江戸へお越し遊ばされ候儀も今に相知れ申さず候由、ここもとにては相待ち居り候。」

山科会議東京への報告
「(大学様が)縦(たとい)いか程に高禄に御取立て候ても、先方の事、何卒木挽町(大学様)の御面にも成り、人前も成なされよき程の品これ無きに於いては、とても穢れたる御名跡を立て置き候はんよりは打つぶし申す段、本望と存ぜられ候条、宿意を遂げ候所においては、安否見届け候程にとて少(いささか)も邪魔になり申す道程これ無しと存ぜられ候由、右の趣き山科(大石)思召しにて候。」

堀部ら江戸武断派の心情は、亡君個人に対するローヤリティである。堀部らはそれを「一分」と表現した大石の「一分」はまた違っている。播州赤穂藩に対するローヤリティであり、そのため大石はいったん改易された赤穂藩浅野家の存続の責任を負わねばならなかった。「忠義」などという言葉を使うから話はややこしくなる。これは武士としての信義の問題である。その信義をつらぬいたのはもちろん大石内蔵助の度量の大きさである。同時に反面また、時代のエトス(倫理そして習俗)がいかに強く存在拘束力として作用していたかをも見逃してははならない。信義を捨てたら、以後武士として生きることはできない。人間、どうしても決断を下さなければならない場合とタイミングがある。大石内蔵助は、それを誤たなかった。

 

6. 浄瑠璃

6-1 近松門左衛門 (1)「冥途の飛脚」 1711

・金懐中に羽織の紐。結ぶ霜夜の門の口出馴れし足の癖になり。心は北へ行く行くと思いながらも身は南。西横掘をうかうかと気に染みつきし妓がこと。米屋町まで歩み来てヤァ。是は堂島のお屋敷へ行く筈。狐が化かすか南無三宝と引返せしが。ムム我知らずここまで来たは。梅川が用有って氏神のお誘い。ちょっと寄って顔見てからと。立返ってはいや大事。此の金持っては遣いたかろう惜いてくりょうか。行ってのきょうか行きもせいと。一度は思案二度は不思案三度飛脚。戻れば合わせて六道の冥途の飛脚と。

・身に罪あれば覚悟の上殺さるるは是非もなし。ご回向頼み奉る親の歎が目にかかり、未来の障これ一つ面を包んで下されお情けなりと泣きければ。腰の手拭引絞りめんない千鳥百千鳥。泣くは梅川川千鳥水の流と身の行方。恋に沈みし浮名のみ難波に。残し留りし。

 

6-2 竹田出雲・三好松洛・並木千柳 (1)「菅原伝授手習鑑」1746

・気よわうては仕損ぜん。鬼になってと夫婦はつっ立ち。互いに顔を見合せて。弟子子といえば我子も同然。きょうに限って寺入りしたはあの子が業か母御の因果か。報いはこちが火の車。追っ付け廻って来ましょうと。妻が歎けば夫も目をすり。せまじき物は宮仕えと倶に。涙にくれ居たる。

・女房悦べ。世倅はお役に立ったぞ。
コリャ女房もなんでほえる。覚悟した御身がわり。内で存分ほえたでないか。
イヤ何源蔵殿。申付けてはおこしたれ共。定て最期の節。未練な死を致したで御ざろう。
イヤ若君菅秀才の御身がわりと言い聞したれば。いさぎよう首指のべ。アノ逃隠れも致さずにナ。にっこりと笑うて。
ムムムムムムムでかしおりました。利口なやつりっぱなやつ。健気な八つや九つで親にかわって恩送り。お役に立は孝行者手柄者。

 

6-2 同「仮名手本忠臣蔵」(2)1784

・ヤァこれこれ老母。歎るるは理りなれ共。勘平が最期の様子。大星殿に委語り。入用金手渡しせば満足あらん。首にかけたる此金は。婿(勘平)と舅の七七日。四十九日や五十両。合せて百両百ヶ日の追善供養。跡念比に吊われよさらばさらば。

・娘かるに聞したら泣死にするであろ。必いうてくれなとのお頼。いうまいと思え共。とても遁れぬそちが命。
便りのないは身の代を。役に立ての旅立か。暇乞にも見えそな物と。恨でばっかりおりました。 勿体ないがとと様は非業の死でも御年の上。勘平殿は 三十に成るやならずに死るのはさぞ悲しかろ口惜しかろ。

・約束の通り此娘。力弥に添せて下さらば未来永劫御恩は忘れぬ。コレ手を合わして頼入。忠義にならでは捨ぬ命。子故に捨る親心推量あれ由良殿。

・御主人の御短慮成る御仕業。今の忠義を戦場のお馬先にて尽さばと。思えば無念にとじふさがる。

 

6-3 近松半二「妹背山婦女庭訓」1771

・天下の主の御為には。なに倅の一人など。葎に生える草一本。引きぬくよりも些細なことと。涙一滴こぼさぬは武士の表。子の可愛ない者がおよそ生ある者にあろうか。余り健気な子に恥じて。親が介錯してくれる。

・高いも卑いも姫ごぜの。夫というはたった一人。穢らわしい玉の輿。なんの母も嬉しかろ。祝言こそせね。心ばかりは久我之助が。宿の妻と思うて死にや。

・一代一度の祝言に。婿殿の無紋の上下。首ばかりの嫁後寮に。対面しょうとは知らなんだ。それも子供が遁れぬ寿命。兎にも角にも世のなかの子という文字に死の声の。有るも定まる宿業と。隔つる心親々の積もる思いの山々は。とけて流れて吉野川いとど。漲るばかりなり。

 

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D. 近代

1. 伊藤 之雄「伊藤博文」講談社 2009

・明6/10/14、閣議が開かれ、病床の木戸以外の大臣・参議がすべて出席した。西郷が使節派遣を主張し、岩倉・大久保はそれに反対し、決着がつかなかった。翌15日に閣議が再開され、西郷と木戸は欠席した。大久保は前日同様に使節派遣の延期を主張したが、他の参議は西郷の意に任せるべきであるとの意見だった。結局、三条太政大臣が、西郷の辞任を避けるため、直ちに西郷を朝鮮に派遣することを決定した。
17日、大久保は参議の辞表と位階返上を政府に提出、岩倉右大臣も辞表を出し 木戸参議も辞意を示した。「小心者」の三条太政大臣は18日朝早くに岩倉に使いを出して自らの辞官を天皇に上奏することを頼んだ後、急病に陥り意識をなくしてしまった。
10/23、三条に代わって岩倉は天皇に拝謁し、閣議の経過と結論を奏上するとともに、自ら書いた朝鮮問題に関する「奏聞書」を提出した。ここで岩倉は、閣議決定を太政大臣代理という立場から否定しようという、極めて強気で大胆な、政治的にも問題になるような行動をとった。この行動の背景には、伊藤の助言があったことは間違いない。
10/24、岩倉は天皇から直筆の勅書を与えられた。その内容は、国政を整え民力を養い成功を永遠に期すべきであるので、岩倉の奏上を受け入れる、というのである。
すでに23日、西郷は病気という名目で辞官を求めており、24日には、板垣・江藤・後藤・副島の四参議が病気を理由に辞表を出した。
こうして征韓論政変は、岩倉の剛気と粘り、岩倉に勝るとも劣らない激しい気質を持った伊藤の助言によって、少数派だった岩倉・大久保・木戸らの勝利に終わったのである。(110頁)

・大久保暗殺の後を継いで政府の中心となったのは、伊藤博文だった。これまでも伊藤は、1874年に大久保が台湾出兵の後始末のため北京に行った際に、内務卿代理を兼任したり、西南戦争の際に大久保と共に人事や戦略を指導したりしていた。このように伊藤は大久保政権で、大久保に次ぐ地位を固めてきた。
伊藤参議は、大久保が暗殺された翌日の 5/15に工部卿をやめ、大久保の内務卿を引き継いだ。伊藤はわずか36歳で、藩閥政府の実質的なトップに立ったのである。(138頁)

・明治14年政変は、大隈参議の早期国会開設と政党内閣を求める意見書に始まり、1881/10 の大隈免官と翌年1月の黒田の参議・開拓長官辞任で終わった。
こうして伊藤のライバルになりうる存在だった他藩出身の有力者、大隈(佐賀)と黒田(薩摩)が結果として失脚するか大きく傷ついた。また政変の過程を通し、薩摩の西郷従道参議や松方正義などの有力者が伊藤系に準じる存在になっていった。(179頁)

・憲法調査のため、伊藤は明15/3/14 に欧州に出発し翌年 8/3 に帰国した。(181頁)
「当時夏島では伊藤公を始め我々一同の勉強は実に非常なものであった。毎朝9時には井上君が旅館からやってくる、4人の顔が揃うと議論を始める、そのまま昼食もせずに晩まで続けたことも少なくない、夜も概ね12時頃まで議論を戦わした・・・時には伊藤公の意見を正面から攻撃したことも一度や二度ではない。」(伊東巳代治)
首相の伊藤に対し、二人の中では年長の井上毅(宮内省図書頭)ですら局長クラスの官僚にすぎないのに、このような議論ができたのは、「伊藤公から思う存分に意見を言えという命令」があったからだ。(218頁)

・明27/7 初頭には、日清開戦となった際は、イギリスに頼り、ロシアを警戒することが、伊藤首相・陸奥外相と軍当局の間で合意されていた。
伊藤と陸奥は、日本の国力の増大を背景に対清戦争に勝てそうであり、イギリスの好意を得た以上は列強との関係も不利にならないであろうと考え、戦争への道を進んでいった。
陸奥外相や大鳥圭介朝鮮国駐在公使が望んだ朝鮮国の王宮を包囲するという計画は、閣議で同意されなかった。伊藤首相や明治天皇が清国と交渉して戦争を避ける可能性を残しておきたかったのである。
ところが、現地の大鳥公使と朝鮮国に派遣された混成旅団長は、独断で日本軍を動かし、7/23 早朝に漢城(ソウル)の王宮を占領した。次いで25日、日本海軍は、増援部隊として漢城に向かう清国兵を運ぶ輸送船と護衛艦を、豊島沖で撃破した。こうして日清戦争が始まった。(338頁)

・明36/6/23、御前会議が開かれ、伊藤・山県・大山・松方・井上の五元老と、桂首相・小村外相・寺内陸将・山本海相の四閣僚が出席した。
小村外相が提出した意見書の特色は、第一に満韓交換論の立場をとるように見えながら、ロシアの満州での利益は鉄道経営に限定し、日本は韓国の内政改革のため「専権」を持つ。第二に、日本が朝鮮鉄道を満州南部に伸長し、東清鉄道を山海関・牛荘線に接続させるなど、満州南部への日本の経済進出を目指すものだった。
桂首相・小村外相が強硬策をとったのは、ロシアと交渉を開始する前に強いロシア不信に陥り、日露の衝突は避けられないと考え始めていたからである。(479頁)
ロシア側第一回回答は、ロシアは満州を日露交渉の範囲外とし、韓国に対しては日本の民生上の指導権しか認めなかった。しかも北三分の一は中立地帯とし、日本の勢力圏から外していこうとするものだった。(483頁)
10/30 日本は満州南部への経済進出要求を取り下げ、日本の要求を韓国の軍事・民生両面での支配に限定する内容の第二回提案を行った。
ロシア側からの第二回回答は、第一回回答と基本的に同じだった。
1/16 日本は韓国全土を日本の勢力圏として要求する最後の提案を行った。そのころになっても、勝つ自信はなかった。
ロシアからの回答は来ず、2/4 御前会議で日露開戦を決定した。5日に戦時の動員が命じられ、8日に戦闘を開始、10日に宣戦布告をした。
1904/1/28、ロシアは中立地帯設定の条件を削除し、日本が韓国領土を軍事上の目的で使用しないという条件のみを付けた第四回回答案を決めた。しかしこれが駐日ロシア公使に届いたのは、2/7 であった。翌8日には戦闘が始まったので、この回答は結局日本側に渡らなかった。
もしもロシアの第四回回答が、2/4 の御前会議に間に合うように、もう数日早く届いていたら、伊藤・井上はそれをのむように主張し、山県も支持しただろう。仮に桂首相・小村外相が対露不信から開戦を主張しても、明治天皇の決断で戦争が避けられた可能性が強い。(486頁)

・伊藤の暗殺によって、伊藤が持っていた併合後の朝鮮に公選制の植民地議会を作り、朝鮮人に一定程度の「自治」を認め、朝鮮人による「責任内閣制」を組織し、日本は間接的に統治するという構想が実施される可能性はなくなっていった。山県は、5/30 寺内を統監(陸将兼任)に指名し、8/29 併合を実施した。それは、朝鮮総督府が官僚機構のみを通して植民地朝鮮を統治するという併合で、伊藤の構想とは著しく異なったものだった。(579頁)

 

1-2. 同「山県有朋」 2009  文藝春秋

・1900/5/19、山県は陸軍省・海軍省官制を改正し、軍部大臣は現役の中将または大将であることと、明示した。陸・海軍大臣は軍政の中枢であり、それまでも文官が就任したことはない。
しかし、初期議会以来、政党側には軍備の整理要求と関連させ、軍部大臣の文官制を求める意見すらあった。またイギリスでは、陸・海軍大臣は文官である。山県は将来的に政党を背景とした本当に強力な内閣ができた際にも、陸・海軍大臣を軍側で確保することを法制化したのだった。(321頁)

・帝室制度調査局総裁の伊藤博文の意を受け、勅令の文書様式を定めた公式令を立案し、1907/2/1に交付された。勅令には、天皇の署名と担当大臣の副署のみでよかったものが、公式令によって首相の副署も必要となった。このことによって、陸海軍に関する勅令においても、首相の副署が必要になり、文官の首相であっても署名しないぞ、と脅かすことで、陸海軍への統制を強めることができるようになった。またこれは日清戦争まではっきりしていた、文官による陸海軍の統制を再確認しようとするものであった。
山県らは、軍事に関し、勅令に代わる軍令を新たに制定し、首相の副署がなくても担当大臣(陸相または海相)の副署のみで実施できるようにしようとした。公式令をめぐる対立には、天皇も心を痛めた。しかし、伊藤と山県という両巨頭の対立は、両者で妥協点を見つけ出す以外に解決の方法がない。
9/2、山県と伊藤は会見し、山県はほぼ妥協が成立したと見た。こうして 9/12に軍令第1号が交付された。軍令の制度ができたことで、首相が軍事に関しても統制できるという公式令の法的裏付けは骨ぬきになった。伊藤はこの時、
韓国統監として、反日義兵運動の対策に苦慮していたので、公式令で譲ったのだろう。(358頁)

・山本権兵衛内閣は、大 2/6/13の陸海軍省官制改革で、陸・海軍大臣の任用資格を、現役大将・中将から、予備役・後備役の大将・中将にまで拡大した。これは政友会側の要望だった。(384頁)

 

2. 陸奥 宗光「蹇蹇録」 明28

・余は固より朝鮮内政の改革を以て政治的必要の外、何らの意味無きものとせり。また毫も義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざりし故に、朝鮮内政の改革なるものは、第一に我が国の利益を主眼とするの程度に止め、これがため敢えて我が利益を犠牲とするの必要なしとせり。
余は初めより朝鮮内政の改革その事に対しては格別重きを措かず、また朝鮮の如き国柄が果して善く満足なる改革を成し遂ぐべきや否やを疑えり。

・余は、黙然一言を発せず、まず露国公使の公文を示しその意見如何を聴かんと乞えり。(伊藤)総理は一読の下、沈思良々久しくして後徐かに口を開き、吾人は今に及び如何にして露国の指教に応じ我が軍隊を朝鮮より撤去し得べきや、と確言せり。余はこの言を聴き、尊意正に鄙見に符号す。

・李鴻章はその半面に包帯を蒙り、包帯外僅かに顕わるる一眼を以て十分歓喜の意を呈し、我が皇上仁慈の聖旨(休戦の申し出)を感謝し、かつ余に対し負傷いまだ癒えず会議所に赴き商議する能わざれども、彼の病床に就き談判を開かんことは何時も妨げなしといえり。

・もし今後露、独、仏三国との交渉を久しくするときは清国あるいはその機に乗じて講和条約の批准を放棄し、遂に下関条約を故紙空文に帰せしむるやも計られず、故にわれは両個の問題を確然分割して、彼此相牽連する所なからしむべきよう努力せざるべからず。これを約言すれば、三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては一歩も譲らざるべしと決心し、一直線にその方針を追うて進行すること目下の急務なるべしとの結論に帰着し、裁可を経たり。

 

3. 大谷 正「日清戦争」2014 中公新書

・1888年時点でのロシア政府の判断は、「朝鮮の獲得は我々にいかなる利益も約束せぬばかりか、必ずや極めて不利な結果をもたらすであろう。」その理由は、① 朝鮮獲得による経済的利益は将来はともかく、現段階ではわずかである。② 朝鮮を獲得すれば重要な戦略的基地となる可能性はあるものの、その防衛は現在の軍事的能力では重荷でありすぎる。③ 朝鮮獲得は日清英との関係を損なう、というものであった。
1885年段階の井上馨外務卿を筆頭とする日本政府内のロシア脅威論は根拠薄弱で、日本側の思い過ごしであった。
ヨーロッパ・ロシアから極東への移民の移動手段は1854年から4半世期の間は、シベリア街道を陸路で東進し、アムール川を船で下るのがメインルートであった。その後日露戦争までの次の4半世紀では、黒海のオデッサ港からスエズ運河、香港、長崎経由で、ウラジオストクに至る海上ルートがメインとなった。
長崎、函館、特に長崎は、ロシア船の寄港地かつ補給地であるとともに、そこから食料・日用品・石炭がウラジオストクや旅順に供給された。1900年ごろでは長崎居住の外国人の中で、ロシア系住民は中国人に次ぐ数を誇っていた。(20頁)

・三国干渉後、朝鮮では日本の内政干渉や日本に協力して開化政策を進める金弘集内閣に反対する勢力はロシアへの接近を図り、国王の高宗や閔姫もこれに同調した。
井上馨公使が辞任し、新公使三浦梧楼(宮中顧問官陸軍中将)に引き継ぎをして朝鮮を離れた2週間後の 10/8 未明、閔姫の殺害事件が発生する。三浦公使と杉浦一等書記官が中心となり、領事館員と領事警察官、漢城駐留の後備歩兵第一八大隊(三個中隊)が実行に当たった。王宮に侵入し、閔姫を殺害し、死体に石油をかけて焼き払った。
三浦公使以下 49名の民間人は広島地裁の予審に、軍人8名は第五師団軍法会議に付された。1896/1、軍法会議は8人全員を無罪とし、裁の予審は三浦らの事件関与を認めたものの、殺害時の状況が不明のため証拠不十分として全員を免訴とした。(235頁)

・反開化派のクーデタにより、国王をロシア公使館に移し、新内閣が樹立された。(「露館播遷」)これによって親日的な開化派は一掃され、日本の影響力は一気に低下し、ロシアの直接の介入を招いた。日清戦争の戦争目的であった内政改革とその背後で進めていた事実上の保護国化は、三国干渉と「露館播遷」によって最終的に挫折する。日清戦争によって日本は朝鮮から清勢力を追い出すことに成功したものの、結局は朝鮮に対する支配権を強めることに失敗し、ロシアの影響力が強まるという最悪の結果となった。(238頁)

・日清戦争に参加した兵力は 24万人、軍夫(臨時雇用の軍属)15万人。ちなみに、日露戦争参加の陸軍軍人 108万人、軍属 15万人。
海軍は、日本海軍の軍艦 28隻、水雷艇 24隻、計4万9000トン に対して、清海軍は、軍艦 28隻、水雷艇 25隻、計8万5000トン。しかし、日清戦争に参加したのは、李鴻章指揮下の北洋水師全部と広東水師の 3隻に限られ、軍艦 25隻、水雷艇 12隻、計4万4000トンだった。(242頁)

・1894/7/23 日本軍が朝鮮軍と交戦して王宮を占領(「日朝戦争」)。7/25 豊島沖海戦(「日清戦争」)。
1895/4/17 の講和条約締結、つづいて三国干渉・遼東半島還付を挟んで、5/8 講和条約批准書の交換。
台湾民主国が誕生して、台湾接収に向かった樺山資紀総督率いる近衛師団と台湾民主国軍および漢族系台湾住民の組織した抗日義勇軍との間で5月末から戦闘が始まった。(「日台戦争」)
日清戦争とはこれらの複合である。(245頁)

・日清戦争後、清は日本に対抗するためロシアに接近し、ロシアは東清鉄道敷設権、旅順・大連租借権、南満州鉄道敷設権を得た。(249頁)

・日清戦争の戦費は2億円で、戦争の前年の1893年度の一般会計歳出の2倍強であった。下関講和条約で日本は3億5600万円を得たので、日清戦争は儲かる戦争であった。(253頁)

 

4. 半藤 一利「日露戦争史」 2012  平凡社

・山本権兵衛海相は、連合艦隊司令長官に東郷平八郎を指名した。幕末の薩英戦争から日清戦争まで最も実戦歴に富む海将たる東郷は、きっぱりと「引き受ける」と答えた後、こう言った。
「万事中央の指図どおり動く。だが、参謀長だけは自分に選ばせてもらいたい。それから開戦となり戦場にあるときは、大方針は別として、その他の駆け引きいっさいは小官に任せてもらいたい。」
山本海相はただ一言答えた。
「それはよろしい。任せる。」(上200頁)

・小村寿太郎外相の指示を受けて栗野駐露公使が無聊をかこっている前蔵相ウィッテを訪ね、「迷惑はかけない、貴殿の話を本国政府の参考のために送りはするが、かならず暗号電信を使うから、ロシア政府に知られる気遣いはない」というと、苦笑いしながらウィッテは答えた。
「貴国の暗号は、貴国が暗号と思っているだけで、他国にとってはだれでもが読める平文ですぞ。心配ないどころの話ではない。」(206頁)

・明治37年元旦における日本の人口は、4854万人、ロシアの人口は4億人であった。(240頁)

・1月6日、ロシアからの第3回目の回答がローゼン駐日公使から小村外相に届けられた。
内容はこれまでの主張をさらに強硬にしただけのものに過ぎない。韓国領土の一部たりとも日本が軍事上の目的にゼッタイに使用せざること、満州を完全に日本の利益権外におくこと、などなど、譲歩のカケラも見出すことはできなかった。(245頁)

・1月8日夜、イタリアのゼノア港より、2隻の装甲巡洋艦が出港した。アルゼンチンより買い求めた春日と日進である。両艦の回航員を日本から送る時間的余裕はない。戦端が開かれてしまっては日本回航は不可能になる。
ロシア海軍もそれを承知している。一隊はポートサイドに先回りして待ち、別の一隊は日本の両艦が出港するのに合わせて、見えつ隠れつ同行し、いつでも拿捕ないし撃沈できる手筈を定めている。ゼノア港には、1隻のロシア軍艦が常泊し、警戒の目を光らせている。
回航の責任を負うのは、日進がフランス公使館付武官、春日は駐独海軍武官の鈴木貫太郎中佐、英国民間会社が請負った。
日本士官は数人だけで、イギリス人、イタリア人など8カ国人によって動かされていた。どうにか航海に耐えるという程度で、装備はほとんど完成していない。電線工事など航海中に完成させようというのである。
案の定、両艦がゼノア港を出て間もなく、ロシア軍艦3隻が姿をあらわし、不気味に接近しながら先行する。
ところが、地中海を航行し、マルタ島近くに達した時、突如、イギリスの大巡洋艦(1万4000トン)ともう1隻が近ずいてきて、露国艦隊と日進、春日のちょうど真ん中に割り込み、三国の軍艦が一列になって地中海を東航する形になった。英国艦は、日進・春日に乗り込んだ124名の英国人を保護する名目で、実はイギリス海軍の威力をもって、日本の軍艦を保護したのであった。
その保護はポートサイドで一層具体的になった。同港の石炭も艀もみな英国のものだ。露国艦隊が石炭積みを依頼しても艀は全部日本に予約されているというので後回しにされ、先ず日本の2隻に積み込んで出港させ、それから悠々取り掛かるという合法的援助を与えてくれた。露艦の大半はそこで引き返し、3隻がアデンまでついてきたが、遂に帰ってしまった。英国軍艦はコロンボ沖で豪州に行くからといって別かれていった。(252頁)
実は2隻の巡洋艦の保護を、林駐英公使がイギリス政府に予め依頼していた。ところが、英国外相は「日英は同盟はしていても戦争には局外中立である、ご依頼の件はお断りする」と答えてきていた。ところが2日後に、「わが巡洋艦2隻が同じ時にアジアに向かって同航の途にのぼります、時節柄、ロシアの軍艦と間違いなきよう念のためお知らせする 」とイギリス政府から言ってきていた。(303頁 注19)

・2月4日夜、伊藤博文は、金子堅太郎を自邸に呼びよせた。
「アメリカに行ってもらいたい。今小村外相に命じて、駐露の栗野公使に国交断絶を通知せよとの電報を発した。
この戦いが1年続くか、2年続くかわからんが、いずれにしても両国の間に入って調停する国がなければならなぬ。イギリスはわが同盟国だから嘴は出せぬ。フランスはロシアの同盟国であるから又しかり。ドイツは日本に対してはなはだよろしくない態度をとっている。頼むところはアメリカ合衆国のみである。君がルーズベルトとかねて懇意のことは吾輩も知っているから、直ちに渡米して大統領に会ってそのことを依頼し、またアメリカの国民にも日本に同情を寄せるよう尽力してもらいたい。
僕は本日の御前会議の終った後、陛下から伊藤はわが左右を離れては困る。この日露戦役中は伊藤をわが左右に置いて、すべてのことを相談するから、海外へ行くことはあいならぬ、というご沙汰があった。
この戦いについては、一人として成功すると思うものはいない。陸軍でも海軍でも大蔵でも、今度の戦いで日本が勝つという見込みを立てているものは一人としてありはしない。ことここに至っては、国を賭して戦うの一途あるのみ。ゆえに君も僕と手を握ってこの難局に当たってもらいたい。」(273頁)

・同じ汽船で、もう一人重大使命を背負って横浜から日本をあとにした人がいる。日本銀行副総裁の高橋是清である。随行するのは秘書役ただ一人。
児玉参謀次長は、対露戦争の戦費を約8億円と見積もっていた。その戦費は、国民への増税と英米からの借款でみたすという方針である。政府は高橋に、その外債募集という大仕事を託したのである。政府が高橋に示した緊急の募集内容はとりあえずつぎのようなものであった。
「年内に一度でできなければ二度でも差支えないから1億円だけはぜひ募債するように努力せられたい。なおこの戦費は1年と見積もっているが、これは朝鮮からロシア軍を一掃するだけの目的であって、もし戦争が鴨緑江の外につづくようであったなら、さらに戦費を追加せねばならない」
当時の為替比率からいって、1億円を外債募集するというのは、1千万ポンドを募債することになる。開戦直前における日本の正貨準備は、1億1600万円に過ぎなかった。(258頁)
緒戦の圧倒的な勝利で戦時財政の前途にはじめて光明を見出した。わが政府の希望した公債1千万ポンドのうち500万ポンドだけは、英国側銀行で引き受けることとなった。(265頁)

・日本は戦争終結まで5回にわたって外債募集を実施する。高橋副総裁の奮闘の甲斐もあって、戦費集めの難事業に見事に成功する。「戦時中数回にできた外債は額面8千200万ポンド(概算8億2千万円)であった。すなわち戦費の半額以上は外債によって賄われたのである。それだけ外国から軍需品その他の物資を輸入しえたるがゆえに、国内経済にも国民生活にも窮屈を感ぜしめずにすんだのである。」(中17頁)

・旅順要塞への第一次総攻撃は、大失敗をもって終わった。消耗された砲弾 11万7700発、小銃弾 3500万発。戦死 5039人、戦傷 1万823人。その中でも、第九師団第七連隊の損害率は84%、第十一師団第四十四連隊のそれは88%。ロシア軍の死傷は約1500人。(186頁)

・陸軍総司令官のクロパトキン大将は、遼陽会戦での作戦は持久防衛であると、はじめからきめていた。攻撃軍は防衛軍の2倍以上の戦力がなければうまくいかない、という戦理もある。攻勢をとらず堅固な既設陣地に拠って、攻めてくる日本軍に損害を与えつづけ、ロシア軍が絶対優勢なことが確認されないかぎり決戦は避ける。不利となれば素早く退却する。ただし皇帝陛下の機嫌を損ねないために、退却を押しだすようなことはしない。そう麾下の全軍に通達していた。(193頁)

・遼陽会戦について「明治天皇紀」9月4日の項
「両軍の戦局は、まさにこの決戦をもって、一段を画すべしと為せり。而して我が軍のこれに迫るや行軍休養の遑あらず、激戦奮闘数昼夜にわたり、その参与せし、戦闘総員約 13万4500、砲 470余門、死傷 2万3500余、全軍の5分の1を失う。敵の兵力約 22万4600、砲 650余門にして、その損害詳かならずといえども、約2万に上れり。」(222頁)

・第三軍からの報告を受けて仰天したのは大本営(東京)である。陸軍部も海軍部もともに愕然となる。旅順攻撃は、港内の敵艦隊を撃滅するのが最重要の目的であることを第三軍はさっぱりと忘れてしまっているのではあるまいか、全要塞の攻略が目的にあらず。しかも艦艇撃沈のために大そうな苦労をして送りとどけた二十八センチ榴弾砲も、要塞の砲撃にだけ使用するつもりらしい。大本営は黙ってみていられなくなった。
「二〇三高地を攻略すべし」
この電報に対し、第三軍は返電する。
「同高地を占領しても旅順要塞は陥落せず。わが軍は要塞陥落に努力せんとす」(304頁)

・「9/27、わが海軍は海鼠山上に望楼を設けた。これに備えつけたる巨大なる望遠鏡によれば、旅順港内の大半は見得べく、敵艦上の水兵すらも点々と指摘することができ、一大パノラマを見るの観がある」
さっそく海軍陸戦重砲隊にくわしく港内の状況を知らせて、9/28 より砲撃を始める。着弾点がずれれば海鼠山の望楼よりすぐに修正の指示が送られる。砲撃は陸軍の総攻撃直前の 10/18 まで続けられた。海鼠山上の海軍観測所の記録は、目を疑いたくなるほど堂々たる砲撃成果を残してくれている。
旅順港内にひそむ残存の5戦艦がすべて命中弾をうけている。
ロシア側の戦史によると、28日に戦艦ボベーダは5発、戦艦セヴァストポリも3発。29日にボベーダ、ペレスウェートに各1発、セヴァストポリに3発。30日にはペレスウェートに4発、ボヴェーダに8発、10月2日またしてもセヴァスストポリに9発、それもすべて二十八センチ榴弾砲の20キロの砲弾で、各艦はもう廃艦同然となった。(325頁)
ロシア旅順艦隊が、「浮かべる鉄屑」となっている事実を、日本の大本営も満州軍総司令部も察知することはなかった。さらにつづく旅順要塞攻略作戦とは一体何であったのか。ほとんど言葉を失ってしまう。(328頁)

・「すでにして二〇三高地の占領確実となり、観測所の構築なるや、わが砲兵はただちにこれによりj構内を瞰制し、この(5日)午後2時敵の艦船に砲撃を開始す。これにより市街および内港に集まるわが砲火はますます猛烈をきわめ、戦艦ボルターワに命中せる二十八センチ砲弾は、甲板を貫き、弾薬庫を炸裂して火災を起こし、つづいて浸水上甲板に達し・・・」「明治天皇紀」
今や遅しと待ちに待っていた二十八センチ巨砲(5日には4門、6日からは8門)と陸戦重砲隊の重砲は、港内の敵艦をめがけて射ちに射ちまくる。観測所からは開通した電話通信で、精密jな弾着修正の情報が送られてくるから、これまでの目隠ししたような無闇な発射とはまったく違って、砲手も勇気リンリンとなっている。
ロシア旅順艦隊はここに全滅した。(374頁)

・「第三軍の攻城開始よりここに(旅順開城)至るまで月を閲すること七、わが将卒の死傷 5万9400余人、うち死者 1万5400人を算せり」(明治天皇紀)
ちなみに、消費した砲弾は 32万発、小銃弾は 4780万発。(下7頁)

・秋山参謀が想定する7段の攻撃計画の第4ないし第5段の攻撃が実行されるのは、どうしても鬱陵島から竹島付近の海域となる。竹島が日本領土でないとすると、他国の領海内で勝手にドンパチをやらかすことになり、国際公法の明らかな違反となろう。
1月28日付の桂太郎内閣の閣議決定 
「島根県人中井養三郎の請願により従来リャンコ島と呼称されていた島を「他国に於て之を占領したと認むべき形跡」がないのでリャンコ島を「竹島」と命名し島根県所属隠岐島司の所管と定める。」(94頁)

・奉天会戦の戦闘参加人員は 24万9800名で、死傷 7万28名。ロシア軍は戦闘参加 30万9600名で、死傷 6万93名。損害の比率は似たようなものながら、クロパトキンが最初から意図していたとはいえ、その影響するところは日本陸軍のほうが遥かに痛烈というほかない。(146頁)

・24日午後2時15分、連合艦隊司令部から東京の軍令部に電信
「敵は北海方面に迂回したるものと推断し、連合艦隊は 12海里以上の速力を以て北海道大島(渡島)に移動せんとす」
これを受け取った軍令部は驚愕した。そもそも津軽海峡の防備計画は軍令部の担当であり、敵艦見ゆとなったときには、第三、第四水雷艇隊によって海峡全体にいっせいに連携機雷を浮遊させ、敵艦隊の通過を妨害し、少なくとも海峡を抜けでるのを1日ぐらい送らすことのできる訓練を何度も何度も繰り返し、自信を強めていた。その丸一日のかんに、対馬海峡からかけつけてきて、連合艦隊はウラジオストクの前面の海域に展開できることであろう。軍令部はそう考えて、連合艦隊には悠然と対馬海峡にて待機してもらえばよし、と願っていた。(222頁)

・ポーツマス会談の23日の会議の詳報がワシントンに達すると、ルーズベルトの態度がなぜか急激に変わった。なお巨大な賠償金に日本帝国が固執していると大統領は思いこんだのである。さっそく金子公使を呼んで、厳しい口調で大統領はいった。
「今日までの戦いの結果で、日本は国威を世界に輝かし、戦う前にロシアに要求していたことより多大の土地と諸権益を得ている。それなのに、金銭のために講和談判を決裂せしむる行動にでていることを、私はきわめて遺憾に思っている。」(363頁)

 

5.  樋口一葉 「たけくらべ」 1895(一葉23歳 翌24歳没) 

・何を女郎め、頬桁たたく。姉の跡つぎの乞食め、手前の相手にはこれが相応だ、と多人数のうしろより長吉、泥草履をつかんで投げつければ、ねらい違はず美登利が額際にむさつき物したたか。

・祭りは昨日に過ぎて、其のあくる日より美登利の学校へ通ふことふっと跡たえしは、問ふまでも無く、額の泥の洗うても消えがたき恥辱を、身にしみて口惜しければぞかし。

・初々しき大島田、結ひ綿のやうに絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲のさし込、総つきの花かんざしひらめかし、何時よりは極彩色のただ京人形を見るやうに思はれて、正太はあっとも言はず立止りしまま

・美登利打しほれて口無く、姉さんの部屋で今朝結って貰ったの。私は厭やでしょうが無い、とさし俯向いて往来を恥じぬ。

・美登利はかの日を始めにして生まれかはりし様の身の振舞、用ある折は廓の姉のもとにこそ通へ、かけても町に遊ぶ事をせず、友達さびしがりて誘ひにと行けば、今に今にと空約束はてし無く、さしもに中よしなりけれど正太とさへに親しまず、いつも恥ずかし気に顔のみ赤めて、筆やの店に手踊の活発さは再び見るに難く成ける。

 

6. 夏目漱石

「それから」

・「これから先まだ変化がありますよ」
「ある事は承知しています。どんな変化があったってかまやしません。私はこのあいだから、・・・このあいだから私は、もしもの事があれば、死ぬつもりで覚悟をきめているんですもの」
「あなたにこれから先どうしたらいいという希望はありませんか」
「希望なんか無いわ、なんでもあなたの言うとおりになるわ」
「漂泊・・・」
「漂泊でもいいわ。死ねとおっしゃれば死ぬわ」
「このままでは」
「このままでもかまわないわ」
「平岡君は全く気がついていないようですか 」
「気がついているかも知れません。けれども私もう度胸をすえているから大丈夫なのよ。だっていつ殺されたっていいんですもの」
「そう死ぬの殺されるのと安っぽく言うもんじゃない」
「だって、ほうっておいたって、長く生きられるからだじゃないじゃありませんか」

 

「門」

彼らは人並以上に睦まじい月日を変わらずに今日から明日へと繋いで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時に自分たちの睦まじがる心を、自分で確と認めることがあった。その場合には必ず今まで睦まじく過ごしたその歳を遡って、自分たちが如何な犠牲を払って、結婚を敢えてしたかという当時を憶い出さない訳には行かなかった。彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐の下に戦きながら跪いた。同時にこの復讐を受けるために得たこの幸福に対して、愛の神に一弁の香を焚く事を忘れなかった。彼らは鞭たれつつ死に赴むくのであった。ただその鞭の先に、凡てを癒やす甘い蜜の着いている事を覚ったのである。

 

7. 与謝野晶子(1878-1942)

(みだれ髪)(晶子22才)

「くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪 かつ おもひみだれ おもひみだるる」
「髪五尺ときなば 水にやはらかき 少女ごころは秘めて放たじ」
「清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人みなうつくしき」

 

(恋衣)

「金色のちひさき鳥のかたちして 銀杏ちるなり夕日の丘に」
「鎌倉の御仏なれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな」

 

(山川登美子の死)

「背とわれと死にたる人と三人(みたり)して もたい(棺)のなかに封じつること」

 

(パリへ)

「三千里 わが恋人のかたはらに 柳のわたの散る日に来(きた)る」
「恋するにむつかしきこと 何のこる 三千里さへ一人にて来し

 

(寛の死)

「取りて泣く 隣の閨(ねや)にさしのぶる 十七の子の細き手の指」

 

(病)

「死も忘れ 今日も静かに伏してあり さみだれそそぐ柏木の奥」

 

8. 斎藤茂吉

(赤光)

「死に近き母に添い寝 (そひね)のしんしんと 遠田(とほだ)のかはず天に聞ゆる」
「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にいて 足乳(たらちね)の母死にたまふなり」(白き山)

「ながらへてあれば涙のいづるまで 最上の川の春ををしまぬ」
「彼の岸に何をもとむるよひ闇の 最上川のうへのひとつ蛍は」
「最上川逆白波のたつまでに ふぶくゆふべとなりにけるかも」
「全(まった)けき鳥海山はかくのごと からくれないの夕ばえのなか」

 

9. 童謡

西条八十

「唄を忘れた金糸雀(かなりや)は 象牙の舟に銀の櫂(かい)月夜の海に浮べれば 忘れた唄をおもいだす」(大7)

 

加藤まさを

「月の沙漠をはるばると 旅の駱駝(らくだ)がゆきました 金と銀との鞍置いて 二つならんでゆきました
さきの鞍には王子様  あとの鞍にはお姫様 乗った二人はおそろいの 白い上着を着てました
朧(おぼろ)にけぶる月の夜を対の駱駝はとぼとぼと 沙丘を越えて行きました 黙って越えて行きました」(大12)

 

10. 岡本 かの子(1889-1939)

岡本太郎の手紙

「ぼくは、いはゆる宗教と称せられるものと純粋な芸術との間に大きな溝があると思ふのです。芸術家にとっては芸術しかなく、それは道徳でもなく非道徳でもないのです。これからの芸術家は、芸術を信ずればよいので、神仏を信ずるのではないと思ひます。
芸術家はあくまで革命的でなければならない。創造的でなければならない。
お母さん。あなたはそんな芸術的でいながら何をくよくよ迷っているのです。
芸術は宗教も道徳も越えたところの、切実な現実を現わすのです。」

 

かの子の手紙

「このごろ気がゆるんでしまって、太郎に(パリから)帰って来てもらはうかと思ひ出してしまったの。
よそへ行けば仲のよい親子を見るし、うちで何かしていても、もう世間態や名誉心はあんまりなくなり、内面的に楽しく暮らしたいのよ。ときどき喧嘩しても、いっしょに芸術を楽しんだり、いっしょに貧乏したりするほうがいいものね。一生懸命働いて何が楽しみに暮らしてるんだかわからなくなったよ。
このまま五年も十年も別れてりゃ君は三〇才にもなってよその人みたいになるしナア。日吉台へうちたて君あすこに住んで、どうだね。おヨメナンカもらはなくてもよいよ。無理にそんなこといはないよ。日本に住むだけで結構さ。君どう?けふはこれでおしまい。」

 

11. 種田 山頭花(1882-1940)

うしろすがたの しぐれていくか(昭6)
鉄鉢 (てっぱつ)の中へも 霰(あられ)(昭7)
しめやかな山とおもえば 墓がある(昭7)
いちりん挿の 椿いちりん(昭8)
風が吹きぬける ころりと死んでいる(昭9)

 

12. 西 条八十(1892-1970)

「蘇州夜曲」(昭和15)

君がみ胸に  抱かれて聞くは、
夢の舟歌    鳥の歌、
水の蘇州の  花ちる春を、
惜しむか、 柳がすすり泣く。

花をうかべて   流れる水の、
明日のゆくへは 知らねども、
こよひ映した   ふたりの姿、
消えてくれるな  いつまでも。

髪に飾ろか   接吻 (くちづけ)しよか、
君が手折りし  桃の花、
涙ぐむよな    おぼろの月に、
鐘が鳴ります  寒山寺。

 

「越後獅子の唄」(昭和25)

笛にうかれて   逆立ちすれば
山が見えます   ふるさとの
わたしや孤児 (みなしご) 街道ぐらし
ながれながれの  越後獅子

今日も今日とて  親方さんに
芸がまずいと叱られて
撥 (ばち) でぶたれて 空見上げれば
泣いているよな  昼の月

ところ変われど 変わらぬものは
人の情 (なさけ) の 袖時雨 (そでしぐれ)
ぬれる涙で  おさらばさらば
花の消えゆく  旅の獅子

 

13.池澤夏樹編 「近現代詩歌」 2016 河出書房新社

短 歌   種村弘 選 

 

   与謝野鉄幹 (1873~1935)

    君なきか若狭の登美子しら玉の  あたら君さへ砕けはつるか (1910)

 

   山川登美子 (1879~1909)

    髪ながき少女とうまれしろ百合に 額(ぬか)は伏せつつ君をこそ思へ (1905)

    窓にさすこがねの色の夕映(ゆふばえ)を えも見ず額(ぬか)に氷するかな (1972)

 

   三ヶ島葭子 (1886~1927)

      鈴ふればその鈴の音を食はぬとするにや あはれわが子口あく (1934)

  

   坪野哲久 (1906~1988)

    母のくににかへり来しかなや炎々と 冬涛圧(お)して太陽沈む (1939)

 

   中条ふみ子 (1922~1954)

    遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ (1955)

 

   馬場あき子 (1928~)

    夭死せし母のほほえみ空にみち われに尾花の髪白みそむ (1977)

    

   小野茂樹 (1936~1970)

    あの夏の数かぎりなきそしてまた たつた一つの表情をせよ (1968)

 

俳 句  小澤實 選

 

   高濱虚子 (1874~1959)

    流れ行く大根の葉の早さかな (1937)

 

   増田龍雨 (1874~1934)

    奉公にある子を思ふ寝酒かな

 

   永井荷風 (1879~1959)

    下駄買うて箪笥の上や年の暮れ(1938)

    五月雨に雀のぞくや勝手口 (2013)

 

   杉田久女 (1890~1946)

    谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま(1952)

 

   芥川龍之介 (1892~1927)

    炎天や切れても動く蜥蜴の尾 

 

   山口青邨 (1892~1988)

    羅(うすもの)の下きびしくも縛したり (1977)

 

   水原秋櫻子 (1892~1981)

    滝落ちて群青(ぐんじょう)世界とどろけり (1954)

 

13. 半藤 一利「昭和史」2004 平凡社

(張作霖爆殺)(昭3)首謀者は関東軍参謀の河本大作大佐であることもはっきりしてきた。何人かの中国人に彼が機密費を渡し、もっとも金に困っていそうな阿片中毒の男二人を使って列車を爆破させたように装わせ、同時にその二人をも殺した、またやらせた中国人は奉天から逃がした、というような経緯が明らかになってきた。
天皇独白録「田中義一首相は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいという事であった。私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で言った。」
陸軍による関係者の処分案を聞いた天皇は、再び田中首相を呼び寄せ、一体どういうことなのか、これで済むと思うのか、お前は辞めるように、と今度ははっきり告げた。
田中首相は逃げるように辞去し、総辞職をし、この後、すぐに亡くなった。
天皇独白録「こんな言い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えている。聞くところによれば、もし軍法会議を開いて尋問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると言ったので、軍法会議は取りやめということになったと言うのである。」
「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した。」(39頁)

 

(柳条湖鉄道爆破)
(昭5)作戦計画はまことに明確だった。満鉄の鉄道を爆破する。そうすれば、関東軍司令部条例第3条により、関東軍は合法的に出動できる。肝心なのは線路爆破を完璧な隠密行動にしなければならないということである。
午後10時20分、柳条湖付近の鉄道が爆発した。板垣征四郎は瞬時を置かず飛び出し、「張学良軍の攻撃である。奉天城、北大営を攻撃せよ」と断固として命令を下した。すべては独断であって大元帥の命令なしで下したのだから、厳密にいえば「統帥権干犯」、陸軍刑法に基づけば死刑である。ここに満州事変は始まった。
関東軍としては、敵は満州全土をあわせれば20倍以上いるから、朝鮮軍に出てもらわなければどうにもならない。軍隊を国境を越えて動かすには、大元帥の命令がないとできない。金谷参謀総長がお願いにいくが、拡大反対の天皇は「まかりならん」の一点張り。
朝鮮軍の立派なひげをはやした林銑十郎司令官がここでも独断で越境命令を出した。兵隊1万人以上が一気に鴨緑江を越えて満州に入った。大元帥陛下の命令なくして軍隊を動かしたというのは大犯罪で、これも陸軍刑法に基づけば死刑である。
若槻首相は、「なに?すでに満州に入ってしまったのか。それならば仕方ないじゃないか」と言ってしまった。このひとことが閣議を決定し、「朝鮮軍を放っておくわけにはいかない。予算として時別の軍事費を出す必要がある」ということになった。(75頁)

 

(リットン調査団)
結果だけからいうと、日本にかなり好意的というか、必ずしもに日本が悪であるとは決めつけなかった。満州国の独立は今後の問題として残るもののまったく全否定ではない、というように日本にとって酷な報告ではなかった。ただし11月16日までに満州国から日本軍はいったん撤退したほうがよいと要求した。10月12日、国際連盟理事会はそれを決議した。
連盟は、2月24日の総会で、日本軍の満州撤退勧告を42対1で採決した。松岡洋右全権大使は長い国連脱退演説の後退席した。(109頁)

 

(二・二六事件)
(昭11)本庄武官長日記「朕が股肱の老臣を殺戮す。かくのごとき凶暴な将校らは、その精神においても何の恕すべきものありや。」
「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん。」
「自殺するならばかってにさせるがいい。かくのごとき者どもに勅使などもってのほかのことである。」(167頁)

 

(広田弘毅内閣)
二・二六事件が収まった後、岡田内閣は総辞職し、広田弘毅内閣が発足する。二・二六事件後の新しい体制を整えるという大事なところでやったことは、 とんでもないことばかりである。
第一に、20数年ぶりに復活した「軍部大臣現役武官制」、
第二に、日独防共協定の締結、
第三に、「北守南進」の政策を決めたこと。以後日本の目は南へ南へと注がれるようになった。それはいずれ英米とぶつかるということだった。
第四は、「不穏文書取締法」の制定。少しでも反政府的あるいは反軍部的なものは即、取り締まられる状況になった。(170頁)

 

作家野上弥生子
が昭和12年の年頭の新聞でこう書いている。
「・・・たったひとつお願いごとをしたい。今年は豊年でございましょうか、凶作でございましょうか、いいえ、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても、大地震があっても、暴風雨があっても、・・・コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように・・・」(179頁)

 

(盧溝橋事件)
現在でも、真相はわからない。昭12/7/7 午後10時過ぎ、盧溝橋付近で、日本の天津駐屯の一個大隊が夜間演習をしていたところ、西の方でやはり夜間演習をしていた中国軍から数発の銃弾が撃ち込まれてきた。
午前3時半ごろまた銃弾が撃ち込まれ、連隊長牟田口廉也大佐は「敵に撃たれたら撃て。断乎戦闘するも差し支えなし」と抗戦命令を出した。旅団長に知らせず独断で、ただし、河辺昭三旅団長はあとで同調したらしい。
両軍少し後ろへ下がることにして、9日午前2時、いったん停戦協定が成立した。
ところが牟田口連隊長は10日朝、第三大隊に第一大隊を加え、中国軍主力が配置されていると思われる宛平県城に向かって前進を始めた。旅団長がやってきて睨みつけたが、何も言わなかった。
早くも11日、近衛首相は、朝鮮と満州から2個師団、さらに内地から3個師団を送ることを決定する。ものすごい速さでの決断である。
近衛首相は最初から「中国一撃論」的態度だから、事態は拡大の一途。上海から戦闘が始まり、大軍を送りこんでやっとこ撃破すると、中国軍は首都南京へ後退していき、日本軍は追撃に追撃を重ねる。北部では中国共産軍と日本軍が戦う全面戦争になる。日本としては、首都を落とせば勝利であるという古典的な戦争論のもと、とにかく南京目指して進撃していった。(192頁)

 

(南京虐殺)南京虐殺について、いちばん公平と思われる記録によると、

通常の戦闘による中国軍将兵の戦死者(戦傷病死を含む) 3万人
中国軍将兵の生存者(渡航、釈放、収用、逃亡など) 3万人
中国軍捕虜・便衣兵などへの撃滅、処断による死者 1万6000人
一般市民の死者 1万5760人

中国が言うように30万人を殺したというのはあり得ない話である。当時、南京の市民が疎開して30万人もいなかったし、軍隊もそんなにいるはずはない。(195頁)

 

(中国共産党軍)
共産党軍は、徹底した「逃げ」の戦術をとる。朱徳将軍が発案した3原則は、「敵進我退、敵駐我騒、敵退我追」
さらに中共軍は「空室清野」(家を空にして食料を隠す)、「両平三空」(人と飲み物と食べ物の三つを隠す)の二大戦略を民衆に徹底させたから、日本軍が入って行くと家の中は空っぽで、食べ物など何もない。(197頁)

 

「蒋介石を相手にせず」
という声明(昭13)について近衛は、戦後書かれた本でこう書いている。
「この声明は非常な失敗であった。余自身深く失敗なりしことを認むるものである。」(203頁)
当時の参謀次長は、「普通は強硬なるべき統帥府(参謀本部)がかえって弱気で、弱気なるべき政府が強硬なのは実に奇怪に感じられる。こうなってしまうと1日も早く戦いをやめたいと思うのに、政府は支那を軽く見、満州国の外形だけを見て楽観したるためなり 」という手記を残している。

 

(三国同盟)
昭15/9/15 日本海軍首脳が三国同盟を決めたまさにその日、ドイツ空軍がロンドン上空で大打撃を受けた。
ドイツは戦闘機 700機、爆撃機 400機と全力でロンドン総攻撃にかかる。イギリスは、動ける全ての戦闘機 300機を集めて迎え撃った。この大反撃で、英空軍は完璧にドイツ空軍を叩きのめした。
チャーチル英国首相は、「これほど多くの国民が、これほど少数の人から、かくも多大な恩義をこうむった戦いは前代未聞である」と、イギリスを救った 300人の戦闘機乗りに感謝を述べた。(292頁)
9/19 日本では儀式的な御前会議が開かれ、三国同盟を国策として決定したが、その2日前ヒトラーは、イギリス本土上陸作戦の先陣をきるはずの最強部隊に、直ちに東方に移動すべし、という決定を下していた。つまり英本土上陸作戦を完全に放棄し、次の目標をソビエト侵攻に代えたのだ。(298頁)

 

昭14
アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告し、翌 15/9には、第一の行動として屑鉄を全面的に輸出禁止とした。次は誰が考えても石油である。(304頁)

 

昭16/3~4月 松岡外相は、ヒトラーとスターリンを訪問した。
ヒトラーは三国同盟を祝い大歓迎し、盛んにシンガポールを攻撃するよう勧めた。スターリンとの間では、話がトントンと進んであっと言う間に、世界中の誰もが予想してなかった日ソ中立条約が調印された。松岡はさらにいい気分になって、中立条約ではなく不可侵条約にしてもらいたいと希望したが、モロトフ外相は「そこまで結びたいのなら南樺太と千島列島を返してくれないか」と言い出した。結局中立条約に落ち着いたが、5年間という珍しいほど長い有効期間で調印された。
調印後の小さなパーティで、スターリンは日本大使館付の海軍武官に近づき、「これで日本は安心して南進できますなあ」と声をひそめて言ったという。(325頁)

 

昭16/6/22、ナチス・ドイツがソ連に侵攻を開始した。
日本政府への予めの知らせもなしに。三国同盟の締結の時の目的であった「日独伊ソの4国が提携して米英に当たる」などという日本の夢は、まさにこの瞬間に雲散霧消し、いまやソ連は米英陣営の一員となった。
これを聞いた松岡外相は、「断乎としていま、ソ連を攻撃しよう」と言い出した。(330頁)

 

(日米交渉)
アメリカは、昭15/10頃から日本の外交暗号の解読に成功していた。日本がドイツやイタリア、ワシントンの大使館に打電した秘密電報はすべて傍受解読されていた。
7/25、アメリカは、日本の在米資産をを凍結、8/1 石油の対日輸出を全面禁止。

 

(ハル・ノート)
コーデル・ハル国務長官「回想録」から、「ついに傍受電報に交渉の期限が明記された。日本はすでに戦争機械の車輪を回し始めている。11/25 までに我々が日本の要求に応じない場合には、アメリカとの戦争も辞さないことを決めているのだ。」
11/2 6午後5時、ハルはアメリカの最終的返事を提出した。その内容は、

1、中国及びインドシナから日本軍と警察の完全撤退
2、日米両国政府は中国において重慶政権以外の政権を認めない
3、日米両国政府は中国における一切の治外法権を放棄する
4、第三国と締結した協定を、太平洋地域の平和保持に衝突する方向に発動しない(375頁)

 

(開戦)
天皇は近衛の答弁に納得せず、杉山参謀総長と永野軍令部総長を宮中に呼び出した。近衛はその時のやりとりを手記に残している。
天皇「日本に事が起これば、陸軍としてはどれくらいの期間で片付ける確信があるのか?」
杉山「南方方面だけは3ヶ月で片付けるつもりであります」
天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸軍大臣だぞ。あの時、陸軍大臣として、事変は1ヶ月くらいにて片付く、と言ったように私は記憶している。しかしながら4ヶ年の長きにわたり、まだ片付いていないではないか」
杉山「支那は奥地が開けており、予定通り作戦がうまくゆかなかったのであります」
天皇「なに?支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。いかなる確信があって3ヶ月と申すのか」
永野「今日の日米関係を病人にたとえれば、手術するかしないかの瀬戸際にきております。手術をしないでこのままにしておけば、だんだんに衰弱してしまうおそれがあります。手術をすれば、非常な危険があるが、助かる望みもないではない」(356頁)

 

12/5
ドイツ軍は、モスクワまでわずか30キロの地点で、ソ連軍の猛反撃に会い退却を開始。吹雪の中を追い立てられて後退に後退を重ねた。ドイツがソ連を倒すという芽は全くなくなっていた。そんなこととはつゆ知らず日本は、12/8、戦争に突入した。(376頁)

 

(ミッドウェー海戦)
昭17/6/5、日本の空母4隻対アメリカの空母3隻の戦いとなったミッドウェー海戦は、今度は見事にアメリカの奇襲攻撃を受けて、日本の4隻が全滅し搭乗員の多数が戦死、一方アメリカは1隻を失っただけという、大敗を喫した。 当時日本には9隻の航空母艦があったが、正規空母は6席だけ、あとの3隻は商船改造のもので、防御は弱く、積んでいる飛行機数も少ない。そのうち4隻が海の底に沈んでしまった。
南雲司令官は敵艦隊の待ち伏せはないものと信じ込んでいた。連合艦隊からくどいように言われていた「敵機動部隊の出現を予期して、搭載機の半数は即時待機の態勢にしておくように」という指示を、あっさりと無視していた。だから、偵察機からの「敵艦隊発見」からなんと2時間近くも攻撃隊が発進できない不手際をおかすのである。(402頁)

 

(ヤルタ会談)
昭20/4の8日間、ヤルタでルーズベルト、スターリン、チャーチルが会談する。日本については、中立条約のため太平洋で参戦していないソ連の日本への攻撃を、ルーズベルトが強く要求した。スターリンはこう答えたという。「私たちもそのつもりである。そのかわり、樺太の南半分と千島列島をソ連に返す、大連港を国際港とする、旅順港をソ連に供与する、南満州鉄道をソ連が租借する。奪われた権益を復活するという希望が満たされるなら、国民に対日参戦が国家的利益であることを了解させることができると思う。」
ドイツの降伏後、準備期間をとって3ヶ月後にソ連が対日参戦することを決めた。
ドイツは5/7に降伏、ソ連は約束通り、8/9 に日本に攻撃を開始した。(441頁)

 

(戦死者)

ガダルカナル島 戦死 8200人、 餓死又は病死 1万1000人
アッツ島 戦死 2547人、捕虜 29人
ニューギニア 病死を含む戦死 15万7000人
タラワ島 戦死 4690人、捕虜 46人
グアム島 戦死 1万 8400人
サイパン島 戦死約3万人、市民の死亡 1万人、捕虜 900人
インパール作戦 戦死 3万5000人、傷病者 4万2000人
インパール作戦の一部としてビルマの東、
中国本土の拉孟騰越
戦死 2万9000人、生存者1人
ペリリュー島 玉砕で戦死 1万650人、捕虜 150
フィリピン全域 戦死 47万6800人、生存 13万3000人
硫黄島 玉砕し、戦死 1万9900人、捕虜 210人
沖縄 戦死 10万9600人 (中学生や女学生など義勇兵を含む)、市民の死亡 10万人、捕虜 7800人

日本本土空襲による死者は、日本全国で 29万9485人、236万戸の家が灰や瓦礫になった。
8年間にわたる日中戦争の死者は、満州事変と上海事変も入れて、41万1610人(「日ソ1週間戦争」の戦死約8万人も含まれているようである。)
戦争が終わってしばらくは、日本の死者は合計260万人といわれていたが、最近の調査では約310万人とされている。
特攻作戦によって「志願によって」という名目で、ただし半分以上は命令によって参加し死亡した人は、海軍 2632人、陸軍 1983人。
これだけの死者が20年の昭和史の結論なのです。(498頁)

 

(東京裁判)
A級戦犯は28人、うち陸軍軍人が 15人、それも参謀本部関係はきれいに除外されている。海軍はたった 3人。外交官 5人、文官 2人(星野直樹、賀屋興宣)そのほか平沼麒一郎、木戸幸一、大川周明(途中で精神障害により排除)
児島襄「東京裁判」の推定によると、死刑の票のあった 11人の戦犯についていうと、判事11人のうち、豪、ソ連、仏、印は、いずれも死刑なし。英、中国、フィリピン、ニュージーランドは11人の被告につき全員死刑。米、カナダ、オランダの判事が広田、嶋田、木戸、大島、荒木につき票が割れ、広田が死刑、他の4人は終身刑となった。
松井石根は南京虐殺の責任で死刑か。
大島浩は三国同盟時の駐独大使で終身刑。
板垣征四郎はシンガポール華僑虐殺事件の責任で死刑か。
フィリッピンでの虐殺行為は本間雅晴と山下奉文がBC級戦犯としてマニラで絞首刑。 その参謀長だった武藤章がここで死刑。
木村平太郎がビルマ派遣軍司令官として英国捕虜を殺した責任で死刑。
満州については当時の在満特務機関長だった土肥原賢二が死刑。
死刑の7人のほか、2人が裁判中に病死{松岡洋石、永野修身)。
懲役刑などを受けた者のうち5人(梅津、東郷、小磯、白鳥、平沼)が巣鴨で病死。
準A級戦犯の裁判は取りやめとなった。(岸信介、笹川良一、児玉誉士夫、鮎川義介、辻政信など)
BC級戦犯については、5702人が告訴され、裁判の後 948人に死刑が執行された。これは国別で裁いたもので、イギリスとオランダが一番多かった。(下238頁)

 

14. 岡 義武「近衛文麿」 1972 岩波新書

(第1次内閣)

・満州事変以来中国に渦巻くにいたった反日・抗日の空気は、関東軍を中心とした華北分離工作の推進によってますます高まり、そのような情勢を背景に、昭12(1937年)夏北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍はついに衝突、戦火を交えるにいたった(7/7)。近衛内閣の成立から約1ヶ月後のことであった。一たびこの事件が発生すると、すぐ杉山陸相は内地から3個師団を現地に出動させることを閣議で提議したが、近衛はこの提案を抑えた。その後も両軍の間に衝突が繰り返される有様であったので、陸相は5個師団、差当り3個師団の派兵を閣議で強硬に要求するにいたった。近衛は、このとき陸相の要求に譲った。(62頁)現地における交渉はもつれ、 両軍の衝突がまたも起こるにいたったとき、近衛内閣はさきに決定した3個師団の華北派遣を急ぎ実行に移すことにした。それをきいた現地の支那派遣軍(天津軍)は、中国軍にに対して総攻撃を開くにいたった。忽ちに永定河以北の京津(北京・天津)地方を占領した(7/29)。(64頁)

・上海方面から退却するにいたった中国軍に対するわが方の追撃は、その後続行されたが、やがて軍中央部は松井石根上海派遣軍司令官の意向に押されて、その追撃は南京をめざして続けられることになった(12月)。(77頁)

・板垣の新陸相就任後まもなく陸軍は漢口作戦、ついで広東作戦を決定して、それらを実行に移し、戦火はますます拡大し続けた。
板垣を陸相に据えることによって事変収拾に陸軍を積極的に協力させようという近衛の期待は、全く裏切られた。(90頁)

・10/27 には、いわゆる武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)を攻略した。この武漢作戦の完了により、わが国がこれまで続行してきた侵攻作戦は大きな段落に到達した。それは、中国の主要都市が挙げて日本軍の手に掌握されるにいたったからだけではない。ソ満国境においてソ連に備える上からも、中国において戦線をこれ以上拡大していくことは、もはやわが国の軍事力の上からもきわめて困難となったからである。けれども、漢口の陥落に先だって重慶に避退した国民政府(重慶政府)は屈服して和を乞うような気配を一向に示さなかった。(92頁)

・近衛の組閣から幾許もなくして勃発し、ついに日中間の全面戦争へと発展した日中事変を近衛はどのようにみていたのか。後に執筆した彼の手記から推測することができよう。すなわち、少壮軍人たちが満州事変以来推進してきた方向はわが日本として辿るべき「必然の運命」であった。何故ならば、わが国周辺には「列国経済ブロックによる経済封鎖の態勢」がすでに動きつつあり、このままで行けば、海外市場は失われ原料も獲得できなくなり、国家経済の存亡が問題となる。この暗雲を貫くように起ったのが満州事変であった。「満州事変に続く支那事変が遂に大東亜共栄圏にまで発展せねばならなかったのも、同じ運命の軌道を辿って居るのである」としている。近衛は、このように満州事変、日中事変、大東亜共栄圏というわが国の対外的進路を当然必至のものとして肯定している。彼の立場は「英米本位の平和主義を排す」以来の主張の線上にあったのである。(102頁)

 

(第2次内閣)

・外相は松岡洋右、陸相は東条英機を指名した。

・近衛は三国同盟を締結したことに対する自己の責任について後年種々の弁明を行っているが、彼が戦後にまとめた手記の中で、斎藤内閣下における国際連盟脱退は天皇の御意志によるものでも斎藤首相独自の考えによるものでもない。「軍の圧迫の前に止むなく譲ったのは、余の三国同盟締結と同様なものである」と述べている。(127頁)

・日中事変はすでに3年余にわたりながら未だに収拾されず、人命の犠牲はもはや甚大に上っていた。また、大東亜共栄圏の建設を標榜し、またさきに三国同盟を結んだわが国にとって国際情勢は前途険悪、いよいよ容易ならぬ様相を呈しつつあった。さらに国内においては、政党は解散して大政翼賛会がつくられ、それによって立憲政はもはや奇形化され、また連年に及ぶ戦時経済の下で民衆は日常生活物資の不足にますます苦しみつつあった。(135頁)

・独ソ開戦は、わが国内に実に巨大な衝撃を与えた。陸海軍はこの機会に南部仏印に進駐すべきことを強硬に主張した。これに対して松岡は、独ソ間の戦争はドイツの勝利を以て短期間で終結すると考えられるとし、わが国は速やかにドイツと共にソ連を打つべきであり、本来ソ連を嫌っているアメリカは、その場合参戦することはないであろうとした。統帥部はこの際断乎南部仏印進駐を行うべきことを主張した。近衛は「統帥部がやられるならば、やる」と発言し、決定した(6月)。(160頁)

 

(第3次内閣)

・外相を松岡から豊田貞次郎海軍大将に代えた。
新内閣は南部仏印進駐を実行に移した(7/28)。ローズヴェルト大統領は在米日本資産の凍結を命じ(7/25)、イギリス、蘭印も同様の措置をとった。アメリカはさらに対日石油輸出を全面的に停止した(8/1)。わが国は、所要石油の大部分を輸入に依存しており、しかも、その5分の4はアメリカに仰いでいた。この報復措置を近衛も軍部も全く予想していなかった。
幣原喜重郎は戦後以下のように記している。近衛公に求められ会ったところ、南部仏印に出兵することになり、一昨日船は出港した、といわれた。そこで自分は、それならば未だ先方に着いていないのだから、船を台湾かどこかに引戻して待機させることはできないか、といったところ、近衛公は、この出兵はすでに御前会議で決定したことなので、覆すことはできない、といった。自分は、それならば断言するが、これは大きな戦争になる、といった。それをきいた近衛公は、驚愕した。自分は必ず戦争になるから、できれば船を引返させ、台湾かどこかの港に止めておいて、日米交渉にに全力を挙げてほしい。しかし、日本軍がすでにサイゴンかどこかに上陸したのならば、日米交渉はもはや無益であるから取り止めたらよいでしょう、といった。(164頁)
石油の問題は、海軍を中心にかえって対米強硬論を急激に高まらせることになった。7/31に永野軍令部総長は上奏して、日米の国交調整ができず且つ石油の供給減を喪失するということになれば、石油の貯蔵は2年分しかなく、戦争になれば、それは1年半で消費されてしまう。それ故に、開戦するならばこの際に開戦したい。ただしその場合の勝算は覚束ない旨を述べた。(166頁)

・近衛は東条に向かって述べて、日中事変については自分に重大な責任がある。しかも、事変が未だに収拾されていないところをさらに前途見通しの立ちえない大戦争に入ることは、いかにしても同意できない。この際一時屈し、撤兵の形式をとってアメリカの言分を立てて日米戦争を回避すべきである。しかし、東条は、この際アメリカに屈すれば、アメリカはますます高圧的になり、とどまるところがないであろう。撤兵問題についても名を捨てて実を取れといわれるが、軍の士気の上からそれは到底同意しえないと反論し、話し合いはまたも対立のままに終わった。(188頁)

・木戸は、近衛内閣の及川海相または東条陸相のいずれかに政局を担当させるほかはない、と考え、近衛の意見を尋ねた。近衛は、この際は陸軍の統制が先決問題であり、もしこれが乱れたら日米交渉も何も滅茶滅茶となる。それゆえに、東条に組閣させるのがよいであろう。この二三日来の東条の話から推察すると、東条も必ずしも即時開戦論とも思われず、天皇から御沙汰でもあれば必ず考えると思う、と述べた。(192頁)

 

(戦後

・近衛はマッカーサー元帥を訪れ次のように述べた。 皇室を中心とする封建的勢力と財閥は、軍国主義者と結託して今日の事態をもたらしたのではない。彼らは常に軍閥に対するブレーキの役割を担ってきたのである。満州事変以来軍閥や国家主義者が急進的な国内革新を叫ぶようになったが、彼らの背後には「左翼分子」の働きかけがあった。そして、「左翼分子」は軍閥を利用して日本を戦争に駆り立てたのである。今日の破局は軍閥にたしかに大きな失望を与えたが、「左翼勢力」にとってはまさに会心のことである。そこで、今もしも軍閥および国家主義者とともに封建的勢力および財閥などの既成勢力を一挙に除去するならば、日本はきわめて容易に「赤化」するであろう。日本を民主国家にするには「軍閥的勢力」を排除しなければならないが、一方には封建的勢力および財閥を残し、漸進的方法により民主主義を育成しなければならない。(216頁)

・近衛は 11/22 付で栄爵排辞の上奏文を奉呈した。この文で、近衛は、昭和12年勅命により内閣を組織して間もなく盧溝橋事件の勃発に遭い、「臣は力を尽して事件の拡大せざらんことを望みたるも、寸毫の効果なく、禍乱は遂に全支に及び、両国の間埋むべからざる溝渠を生ずるに至れり」とし、昭和15年再び組閣の大命をうけたが、当時自分は日米の国交調整を行うことによって太平洋の平和を維持するとともに日中事変を解決しようと考えた。そして、昭和16年の日米交渉は「臣が公的生活の一切を捧げて千段の努力を傾注したる所」であった。しかし、国内の政治情勢のためにこれを実現できず、職を辞せざるをえなくなった。(225頁)

 

14-1. 川田稔「昭和陸軍全史 1(満州事変)」2014 講談社現代新書

・昭和4年田中内閣が総辞職した後、政権に就いた浜口雄幸内閣は、外務大臣幣原喜重郎、大蔵大臣井上準之助、陸軍大臣宇垣一成だった。
政権についた浜口は、外交において、ロンドン海軍軍縮会議への参加、中国関税自主権の承認など、対米英協調と日中親善を軸とする国際的な平和協調路線を推し進めた。
満蒙政策については、田中内閣は、満蒙を特殊地域とみなし、国民政府の勢力がそこに及ぶことを認めないスタンスだったが、浜口はかねてから、国民政府による満州を含めた中国全土の統一と統治を、積極的に容認する姿勢だった。(51頁)

・昭6/9/18 午後10時過ぎ、奉天近郊の柳条湖付近で、日本経営の南満州鉄道線路が爆破された。
首謀者は、関東軍の板垣征四郎高級参謀、石原莞爾作戦参謀。爆破そのものは小規模に止まり、レールの片側のみ約80センチを破損したが、直後に急行列車が脱線することなく通過している。
関東軍は19日中には満鉄沿線の南満主要都市をほとんど占領した。(5頁)
一般に国外派兵の決定には、陸相・参謀総長のみならず内閣の承認が必要とされており、そのうえで天皇の裁可と奉勅命令の下達を必須としていた。また閣議においてそのための経費支出が認められなければならなかった。(114頁)
21日夕刻、関東軍は吉林に入った。満鉄沿線外には条約上駐兵権を有さず、権限を超えた出兵だった。
これに応じて、林朝鮮軍司令官は、独断で越境を命じ部隊は満州に入った。天皇の許可なく軍司令官が部隊を国外に動かすことは、重大な軍令違反であり、陸軍刑法では死刑に相当するものだった。(121頁)
翌22日、若槻首相は、意外にも、すでに出兵した以上は仕方がない、として容認姿勢を見せ、閣議でも 朝鮮軍の満州出兵に関する経費の支出を決定し、首相はその結果を上奏した。かくして、朝鮮軍の独断出兵は、事後承認によって正式の派兵とされたのである。
関東軍の吉林独断派兵は、それほど問題にならず、軍中央によって事後承認され、政府も容認した。長春・吉林線は、いわゆる満鉄培養線で、中国国有鉄道ではあるが、満鉄の借款による日本側利権鉄道であった。(126頁)

・10/8 軍中央の許可なく、石原ら関東軍による錦州爆撃が行なわれた。旧奉天省西部の錦州には、奉天を追われた張学良政権が暫定的に政府を置いていた。この爆撃は、それまでの日本政府の事件不拡大、漸次撤兵という国際的な言明を裏切ることになり、若槻内閣と国際社会に衝撃を与えた。(177頁)

・一般にはあまり知られていないが、関東軍など出先の軍司令官は、天皇に直属しており、陸相のみならず、参謀総長といえども彼らを指揮命令する権限を持っていなかった。(194頁)

・昭6/12/13、犬養毅政友会内閣が発足。陸軍大臣は荒木貞夫、参謀次長は、真崎甚三郎。南・金谷など宇垣派は、陸軍中央要職から一掃された。
それまで陸軍の実権を掌握していた宇垣派は、政党政治に協力的で、その外交路線である国際協調を重視していた。だが、新たに陸軍の実権を握った一夕会と真崎ら佐賀派は、政党政治を評価しておらず、その満蒙政策に見られるように、国際協調に第一次的な優先順位を与えていなかった。一夕会は、陸軍の組織的な政治介入が必要だとする姿勢であった。この時点から陸軍の性格が大きく変わることとなる。大きな政治的発言力を持ち、太平洋戦争への道を主導していく「昭和陸軍」はここから始まるといえる。(230頁)

・荒木陸相下の陸軍中央は、関東軍の要請に応じ、本土・朝鮮から満州に兵力を増派。翌年1/3 錦州を占領、2/5 ハルピンを占領。またチチハルも占領下にあった。ここに日本軍は、満州の主要都市をほとんどその支配下に置くこととなった。(232頁)

 

14ー2 同「 同 2 (日中戦争)」2014 同

・1936年の二・二六事件と永田鉄山の暗殺後、武藤章が陸軍中央における統制派の中心となった。
石原莞爾は、統制派のメンバーではないが、非皇道派系一夕会員で、陸軍内で満州事変の主導者として声望が高く、作戦課長として、事実上参謀本部をリードする存在となった。
この武藤・石原らを中心としてする陸軍の圧力により、同年5月、広田弘毅内閣下で軍部大臣現役武官制が復活する。
大正初めに陸相任官資格は、それまでの現役武官から、予備役、後備役にまで拡大されていた。それが再び現役武官に限定されることとなったのである。武藤ら陸軍省軍事課の起案によるもので、この制度は、陸軍が政治的影響力を行使する有力な手段となった。(9頁、121頁)

・1937年(昭12)、日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起こる。このころ武藤は陸軍中央に復帰し、参謀本部作戦部長に就いた石原のもとで作戦課長となった。
石原は、事態不拡大、現地解決の方針を示し、現地の日本軍に拡大防止を指示した。
だが、武藤作戦課長は、石原とは異なる姿勢だった。南京政府は全面戦争を企図している可能性があり、この事態には「力」をもって対処するほかない。それには華北の兵力を増強し、状況に応じて機を失せず「一撃を加える」必要がある、と考えていた。(10頁、174頁、185頁)
内地師団派遣中止を主張する石原と、派遣実施を迫る武藤が対立。「君がやめるか私がやめるか、どっちかだ」(石原)、との言い争いにまで至った。下僚でありながら武藤は、上司である石原の意向と徹底的に争ったのである。(12頁、195頁)
この後も石原は戦線不拡大方針を堅持しようとするが、戦線拡大を主張する武藤や田中との抗争に敗れ、関東軍に転出する。こうして日中戦争は拡大していった。だが武藤らの予想に反し、中国国民政府は容易に屈服せず、戦争は泥沼に入っていく。(14頁)

・この頃ソ連は、すでに革命後の混乱を収拾。第一次五ヵ年計画を終え、軍事生産関係の工業生産力は革命前を凌駕しており、さらに第二次五ヵ年計画にとりかかろうとしていた。また、当時の満鮮駐留日本軍と極東ソ連軍の装備状況をみると、1933年で、飛行機日本軍 130機に対してソ連軍 350機。戦車日本軍 100輌に対してソ連軍 300輌だった。その後両者の格差は急速に拡大していく。(35頁)
1935年当時のソ連極東兵力は 14個師団、飛行機 950機、戦車 850輌。日本の在満鮮兵力は、5個師団、飛行機220機、戦車 150輌だった。(125頁)

・8/9、上海で海軍の陸戦隊員2名が中国保安隊に射殺されるという事件が起こった。上海の日本人居留民は3万人、それを保護する海軍陸戦隊の兵力は 4000名に過ぎなかった。翌10日、海軍は巡洋艦4隻、駆逐艦16隻、陸戦隊 3000名を上海に急行させた。
13日の閣議で、陸軍3個師団の派兵が決定された。
14日、中国空軍による上海日本艦隊への空爆により米内海相の姿勢は一変し、対中強硬論に転換し、南京攻略をも口にするようになった。(215頁)
中国側は、上海近郊を首都防衛の重点地域として、中央直系の精鋭部隊を中核に兵力を集中させていた。上海派遣軍は激烈な反撃を受け、損害が続出した。戦場は、双方の機械化兵器による殺戮と白兵戦が入り乱れ、極めて凄惨な状況となった。(217頁 )

・9/2 近衛文麿内閣は、華北・上海での対中戦闘の本格化を受けて、それまでの「北支事変」を改め、「支那事変」と呼称することを閣議決定した。(226頁)
関東軍は、東条英機参謀長のもと本格的にチヤハル省に侵入。8/27、省都の張家口を占領した。その後も関東軍は、綏遠省・山西省方面に進撃を続け、華北での作戦を北京・天津地域に限定しようとした石原らの当初の意図は、この方面から崩れた。
8/25 近衛内閣の五相会議で宣戦布告は行わないことが決定された。(近衛首相、杉山元陸相、米内海相、広田弘毅外相、賀屋興宣蔵相)おもにアメリカの中立法の発動を回避するためだった。日本は戦争遂行に必要な機械類や戦略物資の多くをアメリカからの輸入によっていたが、中立法は交戦国へのそれらの輸出を禁じていたからである。中国側もアメリカの援助を期待しており、中立法への配慮から宣戦布告を行わなかった。(228頁)
石原は、武藤・田中らの拡大派との抗争に敗北し、陸軍中央を去った。転出した関東軍で東条英機参謀長との確執が生じ、そして東条陸相期の1941(昭16)、予備役に編入され、陸軍から去った。(231頁)
参謀本部が現地軍に対して強硬な手段をとりえなかったのは、陸軍中央に戦争指導方針をめぐって対立があったからである。石原辞任後も河辺作戦課長や多田参謀次長は戦線の拡大には慎重なスタンスを維持していた。だが、田中軍事課長や下村作戦部長ら幕僚の多くは、中国軍に決定的な打撃を与えるまでは戦線の拡大もやむをえないとの強硬な姿勢だった。(256頁)
近衛内閣や陸軍省は、南京陥落後における蒋介石政権の弱体化を予想し、講和条件の拡大や交渉自体の打ち切りを主張した。
一般には、統帥権の独立を背景に参謀本部が常に強硬派で、これに対し内閣・陸軍省は慎重だったとのイメージが強い。だが、この頃は、逆に、内閣・陸軍省が強硬で、参謀本部はむしろ慎重だったのである。
「普通は強硬なるべき統帥府がかえって弱気にて、弱気なるべき政府が強硬なりしは奇怪に感ぜらるるも、真実なり。」(多田駿手記)
(264頁)

 

同「同 3 (太平洋戦争)」2015 同

・現地指導のため派遣された富永作戦部長は、独断で仏印攻略準備の参謀総長指示を発し、強引に武力進駐を実施しようとした。明らかな越権行為だった。だが、9/22、仏印当局との合意が成立、細部の協議に入った。しかし、現地軍は、23日、またもや独断で越境しフランス軍と交戦状態に入った。戦闘は25日まで続いたが、この間、もともと強硬姿勢だった富永作戦部長は、現地軍による武力進駐を制止しなかった。この事件により富永作戦部長は更迭され、田中新一が作戦部長に就任した。(84頁)

・1941年3月中旬から下旬にかけて、陸軍省戦備課長による物的国力判断の報告がなされた。そこで、2年程度の短期戦なら南方武力行使は可能だが、石油の供給継続、輸送船舶等の観点から対英米長期戦の遂行には不安があるとの判断が示された。(南方を占領したとしても)(107頁)

・田中作戦部長の考えは、「独ソ戦に対しては、その戦局の帰趨明らかに至るまで待機し、ソ連崩壊の兆を見るに至って、北方解決のため好機に乗じ武力行使に出ることが必要である。もし独ソ戦が持久状態に入ったならば依然として待機すべきである。」(165頁)
これに対し、武藤ら軍務局は、ソ連は、その広大な領土と豊富な資源、一党独裁による強靭な政治組織などから、容易には屈服しないだろうと判断していた。(170頁)
6/14 独ソ開戦に伴う当面の方針として、陸軍省部間で意見調整がおこなわれ、次の合意がなされた。
1、独ソ開戦の場合でも、対仏印・タイ施策は促進しその経済圏を確保する。
2、枢軸陣営の勝利が明らかになれば、南方武力行使を行う。
3、独ソ戦の推移が日本に極めて有利に進展すれば、武力行使によって北方問題を解決する。
4、米国参戦の場合、三国同盟義務順守。武力行使の時期方法は自主的に決定する。(176頁)

・一般には、陸海軍首脳部・幕僚は、アメリカの対日石油全面禁輸を全く予期していなかったとされている。事実、多くの当事者が、そのような回想を残している。(206頁)

・ルーズベルトは、日本に対して北進阻止のための最大限の圧力を行使することを決意し、アチソンらによる対日石油全面禁輸の措置を容認した。(9月上旬段階でも、日本はなお満州16個師団態勢を維持していた。)
そのことは、ルーズベルトやハルが懸念したように、日本の対米開戦の危険をはらむものだった。にもかかわらず、この時、ソ連軍の崩壊をくい止めることがルーズベルトにとって喫緊の課題であった。
日本軍による北進の脅威が去れば、ソ連は極東軍を対独戦の大幅な強化にあてることができる。それは当時のソ連にとって死活的な問題と判断された。
実際、アメリカの対日戦準備は、田中の予想したように、フィリピン基地の整備や重爆撃機の配備などがまだ完了しておらず、未完成の状態だった。にもかかわらず、対日戦の危険をはらむ、石油の対日全面禁輸に踏み切ったのは、それだけアメリカ政府の、独ソ戦におけるソ連崩壊への危機感が強かったといえよう。(223頁)

・10/14、閣議が開かれ、東条陸相はこう主張した。
「(中国からの)撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。」満州国をも危うくするもので、朝鮮統治も動揺する。これまで多くの戦死者、負傷者を出しており、国民にも多大な負担をかけている。「駐兵により事変の成果を結果づけることは当然である。」(295頁)

・10/17、重臣会議が開かれ、木戸内大臣のリードで、後継首班に東条陸相を奏薦。木戸は昭16/11 付手記にその顛末を次のように書いている。
「今日海軍の態度より推して対米開戦は容易に決し難しと認めらるるところ・・・9/6の御前会議の決定は・・・敢然再検討をなすの要あるべきは勿論なりと信ず。要するに、海軍の自信ある決意なき限り国運を賭するの大戦争に突入するは最も戒慎を要するところなるべし。東条陸相も余の意見には全然同感にして、9/6の御前会議の決定は癌にして、海軍の自信ある決意なくして此の戦争は出来ざるなり、と迄述べられたり。
少くとも 9/6の御前会議の決定を一度白紙に返すことが今日なすべき最小限度の要求なのであるが・・・今回大命を拝して組閣するものは、陛下の思召を真に奉載して、軍部殊に陸軍を充分統率すると共に、陸海軍の協調をも完全に為さしむることが肝要である。・・・余は以上の理由を以て東条陸軍大臣を推選し、多数の同意の下に奉答したのである。」
しかし実際には、木戸の選択は、海軍の態度変化によって彼の予想と願望を裏切り、まさに裏目に出たといえよう。(300頁)

・6/8、木戸内大臣はこの日の日記に次のように記している。
「軍部より和平を提唱し、政府之によりて策案を決定し交渉を開始するを正道なりと信ずるも、我国の現状より見て、今日の段階に於ては殆ど不可能なり・・・
よって従来の例より見れば、極めて異例にして・・・恐懼の至りなれども、下万民の為め、天皇陛下の御勇断をお願い申上げ・・・戦局の拾収に邁進するの外なしと信ず。」(406頁)

 

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15. 孫崎亨「日米開戦の正体」2015 祥伝社

・太平洋戦争における死者は、厚生省の発表によると 310万人余(内軍人軍属 230万人、沖縄住民を含む在外邦人 30万人、内地での戦災死者 50万人)。
国富(国の正味資産の総額)被害は、総計約653億円。
全国の直接的物的被害総額 386億円。仮に、日銀の卸売物価指数の倍率でみると、最近値(1995年)で全国約10兆円。
繊維工業の敗戦時の設備能力は昭和16年末の20~40%台、化学工業のそれは35~60%台に縮小した。「資料・太平洋戦争被害調査報告」中村隆英、宮崎正康編 東大出版会

・昭16/9/2の(統帥部と国務部との間の)連絡会議で次のように戦争方針が決定された。
「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途として戦争準備を完整す」
永野軍令部総長がその提案理由を次のように述べた。
「日本は各般の方面に於いて特に物が減っている。・・・
これに反し敵側は段々強くなっている。時を経れば、愈々足腰立たぬ。・・
到底外交の見込みがないときは、早くしなければならぬ。今ならば勝利のチャンスがあることを確信するも、このチャンスは時と共になくなるのを恐れる・・・
敵に王手と行く手段はない。然し王手がないとしても、国際情勢の変化により取るべき手段はあるだろう。要するに軍としては、極度の窮地に陥らぬ時期に起つこと、開戦時期を我方で定め先制の利を占むることが必要であり、これにより勇猛邁進する以外に手がない。」
この決定が9/6の御前会議の決定となった。(108頁)
「天皇は特に発言し、明治天皇御製「四方の海 みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を読み上げて、「余は常にこの御製を拝唱して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めているものである。」と仰せられた。満座蕭然、しばらく一言も発するものなし」(近衛日記)

・日露戦争終結の翌年1906年(明39)4月に西園寺首相が満州を極秘で視察。その帰国を待って、伊藤博文は「満州問題に関する協議会」を開催。場所は首相官邸5/22。出席者は、伊藤、西園寺、山県枢密院議長、松方正義、大山、井上、寺内正毅陸軍大臣、斎藤実海軍大臣、阪谷芳郎大蔵大臣、林董外務大臣、桂太郎、山本権兵衛、児玉源太郎参謀総長の計13名。この会議で伊藤と児玉が真正面から対立する。伊藤は言う。
「余の見る所に依ると、児玉参謀総長等は、満州に於ける日本の地位を、根本的に誤解して居られるようである。満州方面に於ける日本の権利は、講和条約に拠って、露国から譲り受けたもの、即ち、遼東半島租借地と鉄道の外には何物も無いのである。・・・満州は決して我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。属地でもない場所に、我が主権の行わるる道理は無いし・・・満州行政の責任は宜しく清国に負担せしめなければならぬ。」
しかし、その翌年の1908/9/25、第二次桂内閣は次の閣議決定をする。
「帝国が現に満州に於いて有する地歩は永く現在の状態を将来に持続する・・・・万一の事変に際し威圧を加ふるの止むを得ざる場合に処するの準備を怠らさる」
伊藤が暗殺されたのはその1年1ヶ月後である。(176頁)

・1931/9/18 柳条湖事件が起こった。
9/21 中国国民政府は国際連盟に提訴。
9/30 理事会は次の決定を出した。「日本政府は日本軍隊を鉄道付属地域内にひかすため、出来るだけ早期に撤兵することを希望するとの日本政府の声明を了承する。」
しかし、9/20 には建川参謀本部第1部長は、「満蒙の支那本部よりの独立、わが国の適当と認むる政府の擁立」の意見具申をし、参謀本部第1部長代理、第2部長、次長、陸軍省軍務局長、次官が協議し、参謀総長から「承認する」という電報が、現地にいる建川に送られた。
9/26 閣議において若槻首相は、「日本軍が満州政権の擁立に関与することは絶対好ましくない」と発言し、その内容が陸相から参謀総長へ、さらに関東軍司令官に対して、陸相から「軍は絶対に関与すべきでない」との電報が出されていた。
にもかかわらず、9/30、参謀本部では「満州事変解決に関する方針」を決定。第一目標として「満蒙を支那本部より政治的に独立せしむる為独立政権を設定し、帝国は裏面的に此の政権を指導操縦して彼より進んで帝国に信倚せしむる如くし」としている。(284頁)

・1932/1/8 天皇は、参謀総長を宮中に呼び、関東軍への「勅語」を下賜した。
「さきに満州に於て事変の勃発するや自衛の必要上関東軍の将兵は果断神速寡克く衆を制し速に之をさん討せり・・・勇戦力闘以てその禍根を抜きて皇軍の威武を中外に宣揚せり朕深く其の忠烈を嘉す」(300頁)

・リットン調査団報告書に基づき国際連盟側は、満州国を認めない、日本軍の満鉄付属地への撤退を迫る、との態度を崩さなかった。1932/2/24 国際連盟臨時総会は採決を行い42対1(日本)、棄権1(タイ)。日本代表は一斉に退場した。(316頁)

・関東軍による熱河作戦は、1933/2/23 に開始された。3月上旬には長城に達したが、さらに中国軍を長城線付近から駆逐しようと、4月になると河北省へと侵入を開始した。4/18 天皇は新侍従武官長になっていた本庄繁大将を呼び、「関東軍に対し、その前進を中止せしむべき命令を下しては如何」と下問した。だが、再度、長城線を越えた。天皇はこれに憤慨した。
「元来参謀総長が熱河に軍を進むべきを請ひし時、関内に進出せざること・・・を条件として許可したるものなり。一旦総長が明白に、余の条件を承はり置きながら、勝手に之を無視したる行動を採るは、統帥上よりするも穏当ならず」(324頁)

・1905/9/5 に締結された日露講和条約(ポーツマス条約)を確認しておこう。
「日露両国は、遼東半島租借権が効力を及ぼす地域以外の満州より全然且つ同時に撤兵すること」
「前記地域を除く満州全部を清国専属の行政に還附すること」
「日露両国は、清国が満州の商工業を発達せしむが為列国に共通する一般の措置を執るに方りこれを阻害せざることを互いに約す」(404頁)

・1941/2/26、内閣情報局は各総合雑誌に対し執筆禁止者のリストを交付した。それには、清沢洌、矢内原忠雄、馬場恒吾、田中耕太郎、横田喜三郎、水野広徳等が含まれている。(430頁)

 

16. 半藤一利・加藤陽子「昭和史裁判」文芸春秋 2011

半藤  戦後日本の歴史教育では、軍人が悪い、とりわけ陸軍が悪かったということになっていたが、私はいろんな軍人に会い政治家の話を聞き、調べていく過程で、必ずしもそうではないということがだんだん見えてきた。太平洋戦争への道のりを考えれば、軍人だけではなくて政治家や外交官も、実際問題として相当責められて然るべきであるとの思いが実は強いのです。(9頁)

 

(広田弘毅)

加藤  悪名高き軍部大臣現役武官制の復活、これ以降、軍部の政治介入が容易になったとされているが、首相の広田は、陸軍からの強い要請に応じるのと引き換えに「次の陸軍大臣は三長官である陸軍大臣、参謀総長、教育総監の推薦で決める」という従来のやり方を廃止し、首相自身が陸相を選任できるよう改めたいと提案して、寺内寿一陸相から内諾を得ている、といっている。
半藤  広田が宇垣や寺内に言ったことは何の役にも立っていない。これは、広田の弁解でしかないのではないかと私は思う。(28頁)

<統帥権>

(解説)明治10年の西南戦争を起源として山県有朋の発案により制定された参謀本部条例の第5条には「親裁の後直に之を陸軍卿に下して施行せしむ」とあり、軍事に関する限りは、天皇直属の参謀本部長が司る。つまり総理大臣さえもその限りでは天皇に直属する参謀本部長命令に従うという制度。(30頁)

半藤  初代駐日中国大使は、広田に日中親善の三原則を示した。
(1)相互に完全なる独立を尊重する
(2)真正の友誼を維持する
(3)一切の事件は平和的、外交的手段によって解決する。しかも、あろうことか排日行為の取り締まりという対日譲歩までが含まれていた。
南京政府の方からこれだけ折れてきているのに、対する返事がなんと広田三原則。思わず、ああ、と叫びたくなる。

 

「広田三原則」

(解説)昭和10年、時の岡田圭介内閣は国民政府が提示した三原則に合意を与えず、独自に対中国政策を決定、これを国民政府に示した。中国側による排日の徹底的取り締まり、満州国の黙認、共同防共というものであった。これがいわゆる広田三原則。(44頁)

加藤  蒋介石が、昭和20年の勝利以降一番思い出したくないのは、きっと昭和9、10年の対日外交でしょう。
蒋介石はすごく怖かったと思う。昭和9、10年に蒋介石が売国的と言われかねない行動をとってたことに注目が集まれば、国共内戦の大義としての、蒋の正当性が失われてしまう。(47頁)
加藤  たしかに1930年代の4年半。外務大臣として3年半、首相で11ヶ月送ったということは、広田の責任はやはり大きいかな。近衛が自殺してしまった後なら、文官で誰よりも責任が重いのはやはり広田弘毅になってしまう。(50頁 )
半藤  もう一つ広田が陸軍に屈したと思ったのは、2千人だった支那駐屯兵を、中国への通告なしに一挙に5千人に増やしてしまった。組閣から僅かひと月後のこと。これが日中戦争の導火線になる。(51頁)
半藤  広田がやった三つの悪いことのひとつとして、いつも挙げているのが、広田内閣の「国策の基準」。

(解説)広田内閣発足から5ケ月、昭11/8/11に閣議決定された。冒頭第1項には「東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展する」と南北併進が掲げられた。

半藤 「ソ連極東兵力に対して、開戦初頭一撃を加える」そして「在満兵力の増強」、これは陸軍。「米海軍に対し、西太平洋の制海権を確保するにたる兵力整備」「南洋方面への漸次的進出」、こっちは海軍。(54頁)
加藤  広田が南京事件で責任を厳しく問われた背景には、南京事件について広田が知っていたという電報が明るみになったということがある。また、トラウトマン工作で広田が頑なだったことは、「北平大使館記録」、参謀本部側の史料があって、そこから明らかになってしまっている。(58頁)
半藤  昭13/1/13 国民政府からトラウトマン大使に、日本の条件は範囲が広範すぎるからもっと詳細な内容が知りたい、という申し入れがあった。
加藤  翌14日の閣議で広田外相は「中国側に誠意なしとの結論に達した」と述べた。 翌15日の連絡会議では、陸軍の参謀次長の多田駿が政府に対して交渉継続を激しく主張する。ところが外相広田は「単なる遷延策だ、交渉を継続してもその成果の見込みはない」などいって、この日もまた強硬に突っぱねた。(61頁)
半藤 「国民政府を対手とせず」の声明のあとすぐに、中華大使に帰朝命令が下り、駐日大使も引き上げてしまう。このとき外交交渉が完全に放棄されて、泥沼の長期戦の幕が切って落とされた。(74頁)

 

(近衛文麿)

半藤  近衛は遺書で「僕は支那事変以来、多くの政治上の過誤を犯した」と自ら認めているが、その失敗の責任は余りにも大きい。天皇はこれを許さないのです。私も許さない(笑)。
加藤  昭和天皇も許さなかったであろうし、同時代の政治家も許さなかったでしょう。広田弘毅の場合、文官の近衛さんが生きて法廷に出たとすればあるいは絞首刑にはならなかったかもしれない。(109頁)
半藤  結局、近衛さんのやったことはなにかっていうと、「国民政府を対手とせず」ですよ。
加藤  そうですね、5月ぐらいには決定的な失策だったことがわかる。(135頁)
半藤  イギリスは一時、ほんとうに負けそうだった。バスに乗り遅れるなという有名な言葉があって、あの言葉を私たちは簡単に、三国同盟を早く結んだ方がいいという意味で捉えているけれども、実は裏の思惑があった。ドイツがイギリスに勝ったあと、ヨーロッパはともかく、東南アジアのイギリス、オランダの植民地にドイツの手が伸びてくる。これはまずいぞ、と。(149頁)
加藤  東部ヨーロッパというのは実に残酷な所で、ドイツが来ようがソ連が来ようがどちらが来ても大変さという点で変わりがない。オーストリアの一番東側にガリツィアという地方がある。ここはロシアとハンガリーの間に挟まれた地域で、かつてユダヤ人とウクライナ人とポーランド人が共存していた。しかし、第一次大戦でオーストリア帝国が消滅すると、ユダヤ人の彷徨が始まった。
そして、第二次大戦となって、ソ連がこの地域に侵攻して来る。ウクライナ人はロシア系だからソ連にとって親近感があり、ポーランド人は、当時ドイツと戦っていたので、ソ連としては邪険にできない。結局、ここでも殺されるのはユダヤ人だった。二つの大戦が終わったとき、ガリツィア地方では、昔であれば支配階層であった銀行家、弁護士、医者などのユダヤ人だけが抹殺されて終る。
戦後は民族交換を行って、ウクライナ人居住区とポーランド人居住区とに綺麗に分けた。消滅したのはユダヤ人だけ。(158頁)
加藤  蒋介石が日本との最後の戦闘を終えるときに、一番強く要求したのは日清戦争以降、日本が奪ってきた領土と国境を返すことだった。蒋介石にとって戦争の責任者の断罪などどうでもいい。中国における日本人の個人の私有財産を含む日本の現有財産、あれをとにかく置いていってくれればいいと。それがいかに大きかったかということだと思う。(163頁)

 

(松岡洋右)

・13歳で、父が破産したため親戚を頼って渡米。苦学して18歳でオレゴン大学に入学。22歳で帰国。外交官試験を受け、24歳で外交官に。41歳で退官、満鉄理事に就任。後、代議士。52歳のとき、国際連盟臨時総会に首席全権として出席、国連脱退演説。60歳で近衛内閣の外相、三国同盟締結、日ソ中立条約締結。66歳のとき東京裁判の判決を待たず、結核で死去。
加藤  三国同盟が締結された昭和15年9月にはドイツのイギリス上陸は近いと見られていた。だからドイツの委任統治領はもとより、英仏の植民地であるインドシナ、マレー、香港をどうやって分け合うかという問題が現実味を帯びてきた。(204頁)
半藤  ドイツに着くと大歓迎を受けたが、これがあまり面白くなかったと、松岡は後に回想している。実に冷ややかなものを感じたと書いている。むしろソ連のほうがよかったと。(216頁)
クレムリン宮でカンペイ、カンペイとやってね。宴会中に鉄道大臣に電話して列車を1時間半止めさせた。ようやくスターリンとはサヨナラして日本大使館で日本人だけで乾杯して駅へ行った。発車15分前になったら、 ヘベレケのスターリンがここに登場。松岡の肩を抱いてもう少し話そうと列車に乗り込むと二人だけでしゃべった、というのです。(218頁)

 

(木戸幸一)

・木戸孝允の孫。学習院 京都大学法学部で近衛文麿と同級生。農商務省から内大臣秘書官長などを経て、昭15年から敗戦まで、一番重要な時期に内大臣として昭和天皇を輔弼した。
東京裁判で6対5で死刑を免れ無期懲役、66歳のとき仮出所、87歳で死亡。(221頁)
半藤  近衛内閣が三国同盟を結んだとき、木戸は西園寺に事前に知らせに行かなかった。木戸は後に西園寺さんが老衰で病弱になっていたからそれを慮って、などと言い訳しているが、この国家の一大事を、当然反対するであろう元老に知らせないってことは怪しからぬことである。三国同盟を西園寺は嫌がっていたし、天皇とて嫌がっていた。(252頁)
半藤  独ソ戦が始まったとき天皇は、これは2年前に独ソ不可侵条約を結んだドイツの完全な条約違反だから、この際日本は三国同盟を廃棄した方がよい、そして対米交渉をうまくまとめた方がいいのではないかと言い出した。そのとき木戸は、これを否定する。
加藤  たとえば牧野伸顕は、国際協調のためなら天皇親政を許容して、首相や外務大臣を呼びつけて意見を表明してもいいと考える。しかし、西園寺と木戸はそうじゃない。
部分的ではあれ、天皇親政のようなものが事実上達成されていた湯浅内大臣期を経て、木戸は元のやり方に戻してしまった。天皇は無答責にしなきゃいけないから、とにもかくにも親政のようなものなどやっちゃダメなんだと。
天皇はそれまで、かなり奔放にいろいろなことを率直に言っていたのが、急におし黙ってしまう。
天皇自身、軍部の暴走を常に抑えようとした人だから、良いことを行なうに当たって、外交大権、統帥大権を行使してどうして悪い、と思われたかもしれない。
天皇イコール大元帥である、天皇は大元帥なのだから、軍人にはむしろ何でも言って構わない、というようなことを西園寺は湯浅内大臣期に言っている。(265頁)
半藤  木戸が大事な時に天皇をミスリードしたというのが 昭16/9/6 の御前会議だった。
加藤  明治天皇の御製を読んだところで、避戦を望む意思の表明としては弱かった。高松宮に「不徹底」だったと批判された。
半藤  これが、まごうかたなき木戸の差し金だった。木戸に向かってまたしても、御前会議の場で自らいろいろ質問してみたいと言っている。ところが木戸は、「せいぜい統帥部に外交工作の成功に全幅の協力をせよという程度に発言は控えて」などと押しとどめてしまう。 天皇はこの助言に従った。しかしねぇ、天皇だって、なにも木戸に言われた通りにすることはないんですよ。(272頁)

解説 明治憲法では、天皇が統治権を総覧し、内閣総理大臣および各大臣は天皇を輔弼する責任があると定められていた。また総理大臣に特別の規定がなく、天皇の前では各国務大臣と同格とされていた。従って天皇から任命された各大臣が他の大臣と異なった意見を主張した場合、総理大臣には大臣を罷免する権限がないので、その大臣を説得できなければ、各大臣が辞表を書いて内閣が総辞職するほかなかった。(273頁)

加藤  あろうことか、木戸ははっきりと、東久邇宮出馬に絶対反対を明言した。昭和16年10月に東久邇宮が出てきて、対米避戦とそれに伴う中国撤兵を決定したら、中国にいる百万の、現地軍の軍隊が素直に言うことを聞く可能性もあった。それなのに木戸は 宮様に責任を負わせるわけにはいかないなどといって東久邇宮案を潰した。(278頁)
半藤  木戸にとって東条という軍人はさぞかし使い安かったのでしょう。クソ真面目で天皇に対する忠誠は本物。天皇の命令だといえば、東条は自分の言うことを聞くに違いない。つまり木戸は天皇という虎の威を借りて自分が東条をコントロールできると思った。それが東条を選んだ理由だったのでしょう。(279頁)
加藤  昭和19年6月にマリアナ諸島が落ちたとき、絶対国防圏を破られたときに、東条は辞めさせるべきだった。
そうしていたら戦争による死者300万人のうち、9割の人間が死なないですんだ。
半藤  なぜ木戸は昭和20年の2月、天皇がどうしても重臣の話を聞きたいと望んだときに、これを徹底的に阻害し邪魔したのか。 重臣だけではなくて、宮様も。木戸だけが天皇独占である。これは何だったのでしょうか。(290頁)

 

(昭和天皇)

・「統帥権」(解説)明治憲法は、軍隊の指揮・運営についてたった2項目だけで規定している。第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」、第12条の軍隊の編制と予算決定権が天皇にある、という二つ。近代国家にあっては政治が軍を統御するというのが当たり前だが、明治憲法では政治(行政権)にも議会(立法)にも、さらに司法にも軍への関与の権利がなかった。(302頁)

半藤  天皇はどうやら日中戦争そのものはやむを得ないと思っていた。けれど、対ソ開戦のおそれがあるから早く収拾せよと、それを一所懸命言っていたのである。 天皇のみならず軍部や政府の指導者たちには、南進でも北進でも同じ結果を招くとはわかっていなかった。いずれもアメリカの対日硬化という結果を招くということが。(324頁)

半藤  「関東軍特殊大演習」という名の大兵団の派兵を行った。7/13に動員をかけ、7/20 に運輸開始、8月中旬に終了。兵数は現在の30万より70~80万となり、いよいよやるとなったらさらに8師団を増し、在満100万兵となる。大本営参謀の陸軍少佐だった瀬島龍三が策定した「北方戦備」によると、武力行使開始のタイミングは「極東ソ連軍の勢力半減」したときという条件だった。
加藤  この大派兵は、ソ連の昭和20年8月時点での参戦に正当性があるのだという理屈をソ連に与えることになった。日本は大兵団を派兵し、事実上、日ソ中立条約違反を犯したのである、と。
半藤  ソ連は兵力をヨーロッパ方面には動かさず極東に残した。ドイツとの攻防がたいへんなときにではあったが、日本の大動員計画を知って残した。その結果、ソ連国境での戦争は起こさずにすんだわけである。(331頁)

加藤  石油が止められるという事態を、どうして予測できなかったのかと天皇は怒った。8/5に、東久邇宮を相手にそんな愚痴を言うと、「陛下は大元帥で陸海軍を統率しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います」と、逆にたしなめられてしまった。
半藤  石油の全面禁輸はもとより英米の資産凍結令だって、陸軍はまったく予測してなかった。イギリスは若干怒るかもしれないが、アメリカは見過ごしてくれるだろうと。(336頁)半藤 近衛のプランは、日米交渉におけるアメリカからの最重要課題、中国撤兵を大統領に約束し、直接天皇への電信によってそのことの裁可を求めて調印してしまうこと。つまりルーズベルトとさしで会って一気に決着させるというものだった。陸軍が中国撤兵に反対している以上、いくら予備交渉を続けても、政府としてはアメリカの強い要求を容れることはできないから。(340頁)

加藤  元老の西園寺公望が元気な頃、そして牧野伸顕が内大臣の頃までは、とにかく天皇は御前会議を開いては駄目だと。政治的な判断をしてはいけない時代だった。でも湯浅庫兵が内大臣になると、天皇の統帥権的発言を許すようになった。 天皇は、太平洋戦争のそれぞれの作戦指導で、御下問という形で、統帥部の判断を変更することがあったので、天皇「無答責」というのは、太平洋戦争中の国務と統帥については、無理があると思っている。
半藤  天皇は、天皇機関説的な天皇であることと、陸海軍統帥をする大元帥陛下であることを、自身がどの程度認識していたのか、明確に分けて考えていたのか。あるいはごちゃ混ぜにしていたのか。困ったことに昭和史を通してみると、よくわからないときがある。(344頁)

 

17. 日暮吉延「東京裁判」講談社現代新書 2008

・1946/4/3 占領開始後半年の時点で、極東委員会(FEC)は、非公表の「了解事項」で天皇不起訴を合意した。天皇不起訴を「連合国共通の政策」として公的に確定した。オ-ストラリアとソ連も天皇の「免除」に同意したということである。(74頁)

・橋田邦彦元文相、本庄繁元関東軍司令官、近衛文麿元首相は、逮捕に直面して自決を選んだ。(81頁)

・1946/1/19 マッカーサーは、極東軍事裁判所を設置し、極東軍事裁判所憲章を公布した。

(1)対象は「平和に対する罪を含む犯罪」に限る。
(2)平和に対する罪に「宣戦を布告しない戦争」を加え、満州事変や日中戦争も扱う。
(3)マッカーサーが裁判長を任命し、首席検事1名を任命する。検事の場合、アメリカ以外の国は、首席検事を補佐する参与検事だけとなる。
(4)すべての決定は「出席裁判官の過半数」による。
(5)訴訟手続は英米法に準拠する。ただし、証拠に関する法技術的規則に拘束されない。
(6)法廷での使用言語は英語と日本語に限る。(94頁)

・起訴する者について、アメリカは真珠湾のときの東条内閣閣僚を望んだのに対して、英連邦諸国、中国、オランダ、フランス、フィリピンは残虐行為の処罰を欲した。
検事執行委員会の被告選定基準は、
(1)「平和に対する罪」で起訴できる者
(2)各段階と各役職の代表者
(3)確実に有罪にできる証拠がある者
(4)侵略の共謀に積極的に参加した者、または反対すべきときに反対しなかった者。(101頁)

・満州事変の首謀者石原莞爾は逮捕もされず、板垣征四郎が起訴された。石原は予備役に編入されていたし、当時入院中であった。満州事変時の関東軍司令官だった本庄繁は自決していた。関東軍主任参謀の石原中佐でなく、高級参謀の板垣大佐を重視した。中国検察陣は、板垣が満州事変の計画者であるばかりでなく、満州国執政顧問、関東軍参謀長、第五師団長を歴任して「侵略戦争に積極的役割」を担い、「何十万の中国民間人虐殺」の責任者でもあると告発した。(104頁)

・最終的に28被告が確定した。(107頁)
その顔ぶれを見ると、海軍3名に対して陸軍出身者は15名。明らかに陸軍が「共同謀議」を主導した「軍閥の主軸」とされた。
松岡、白鳥、大島は、日独伊三国同盟の責任者として起訴された。
木戸は東条内閣の生みの親であり、5名は開戦時の東条内閣の閣僚であり、重光は開戦後に東条内閣の外相になった。木村、佐藤、武藤は東条に近い。

・「平和に対する罪」は立証の困難がつきまとい、また事後法の疑いがあって、それだけで死刑に処するのには困難があった。「通常の戦争犯罪」で残虐行為の責任を問う方が指導者を死刑にし易かったし、関係諸国の世論を満足させるためにも必要であった。(112頁)

・公判中の1946/6/27 松岡洋右が病死、1947/1/5 永野修身元海軍大将が病死、同4/9 入院中の大川周明を審理除外。(170頁)

・木戸幸一が「英米の裁判は証拠裁判」だから「弁護のやり方」で量刑は変わったと評価し、みずから証言しなかった広田の場合も「事実はこうです、ああですってことはいえるんだから、それをやられただけでも、おそらく死刑にはならなかったと思う」と述べたことが興味深い。(189頁)

・判事11名のうち7名(イギリス、カナダ、ニュージーランド、アメリカ、ソ連、中国、フィリピン)が多数派を構成し、判決文を書いた。
少数派4名(オーストラリア、オランダ、フランス、インド)は決定過程から排除された。
すべての判事が口頭で評議したのは個人の有罪か無罪かの評決と量刑についてだけだった。(240頁)
多数判決の認定は、ニュルンベルク判決の立場に無条件の賛意を示し、すでに不戦条約で侵略戦争は「国際法上で不法」化されたから、侵略戦争を「計画し、遂行するものは犯罪」を犯すことになる、とした。

・土肥原、広田 板垣、松井、武藤、木村、東条の7名が絞首刑。東郷は禁錮20年、重光は同7年、残り16名は終身禁錮だった。(253頁)
確実なのは「平和に対する罪」の全般的共同謀議では死刑にならなかったことである。ニュルンベルクでもそうだった。東京裁判の判事団は「ニュルンベルク・ドクトリン」での有罪を追い求めたが、それで死刑にすることは避けた。従って、死刑の決定要因は「重度の残虐行為」ということになる。
訴因54(残虐行為の命令・許可)と訴因55(残虐行為防止義務の不履行)のいずれかで有罪となったのは10名、そのうち畑、小磯、重光以外の7名が死刑となった。
広田と松井が訴因55だけで死刑になったのは、判決が「日本軍が占領してから最初の6週間に殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上」と認定した南京事件にあった。
広田は「侵略」だけなら終身刑で済んだはずだが、南京事件の時の外相として職務怠慢の責任を問われたから、文官で唯一の死刑となった。もし南京事件時の首相だった近衛が生きていたら、広田と共に、または広田の代わりに、死刑になった可能性が高い。
松井の死刑も南京事件時に中支那方面軍司令官だったからという以外にない。ちなみに武藤章(松井の参謀副長)は「下僚の地位」で「やめさせる手段」もなかったから南京事件に責任なしとされた。
海軍の被告が死刑にならなかった点も注目される。嶋田が終身刑ですんだのは、残虐行為で有罪にならなかったからである。
木村が泰緬鉄道建設での捕虜使役を承認したと判決で認定され、またビルマ方面軍司令官として残虐行為で有罪になったことが重大であり、おそらく英連邦判事が木村の死刑を主張したのであろう。
武藤章についても、軍務局長在任中の行為は終身刑相当だが、スマトラやフィリピンにおける残虐行為で死刑になった。(263頁)

・1947/6/26 現在、A級容疑者は50名が残っていた。有馬頼寧と池田成彬は不起訴釈放されていた。その後、鮎川義介、正力松太郎、真崎甚三郎(教育総監)ら15名、久原房之助、緒方竹虎、徳富蘇峰ら 8名が不起訴釈放され、残りは20名前後となった。
1948/1マッカーサーとキーナンは、A級容疑者 19名のうちBC級で起訴可能な者をGHQに移管し、その他は釈放することを共同提案し、認められた。(294頁)
同10月 GHQは、実際に、豊田副武元海軍大将と田村浩元陸軍中将をBC級で起訴した。前者は無罪、後者は重労働8年に処せられた。(298頁)
同 12/23 の午前0時過ぎ、巣鴨で東条ら7名の死刑が執行された。
翌24日の昼、A級戦犯の容疑者 17名全員(多田駿と本田熊太郎は死亡)が釈放された。(301頁)

・1952/4/28 の講和条約発効時までに 892名が仮釈放され、独立後も拘禁される受刑者は、外地服役を含めて 1244名。(348頁)
ソ連は1949年、抑留日本人のうち約1万名が戦犯容疑者だと声明。そのうち推定約3千名が戦犯起訴された。大方の罪状は、スパイ行為・反ソ行為を問責するソ連刑法58条違反である。
中国共産党の場合、終戦直後、八路軍の「民衆裁判」で日本人の処刑が多数あったと言われるが、中華人民共和国建国後になると、自前の戦犯容疑者 140名に19507/ ソ連から引き渡された容疑者 969名に対して「認罪」「学習」という思想改造をはかった。最後の 1017名は、1956年、「起訴免除、即日釈放」となり、日本に送還された。(367頁)

・木戸幸一は回想する。「巣鴨もね、日本政府が管轄するようになったころからは、実は割合に楽だったよ、家にも帰っていたし。初めのころはやっぱり泊まることだけは認めてなかったな。ところがそのうちに、3、4日泊まっていい、一晩帰ってきて、また明くる日、出ていくなんてことをやっていた。学習院の寮よりずっと楽だ。」(374頁)

・1955年、東京裁判の関係8カ国は、10年服役したA級受刑者を仮釈放することを全会一致で合意。同時に、橋本欣五郎、賀屋興宣、鈴木貞一の仮釈放を決め、残りの4名についても10年服役後仮釈放することが合意された。(376頁)

 

 

18.「あの日・・・」(「ヒロシマ・ナガサキ 死と生の証言」より)日本原水爆被害者団体協議会編  新日本出版社 1995

 

  ・ 広島 女 被爆時12才 被爆距離 1.0キロ

        国民学校校舎木造二階で被爆し、下敷きになり、頭、顔、右目、背中、両手等ガラス片で傷を負わされ、何とか助かり、外へ出ることができた。

    一変した町並みは、死体はゴロゴロ、歩いている人は真っ黒になり、頭の毛は逆立ち、ちぢれ、目の玉は飛び出し、頭がパックリ口を開け、皮膚はズルッとむけてたれさがし、男女の区別さえつかず、何が何だかわからなかった。

    今の戸坂小学校へ着いて、また死体の山にショックを受け、また安心したのか意識不明になり、4~5日眠り続けた。その間2週間家へ帰れなかったので、両親は死んだと思い、校舎の焼け跡から少しづつ骨を持ち帰り、お供えしてくれていた。(16頁)

 

  ・ 広島 女 被爆時16才 被爆距離 1.5キロ

    男の人とも女の人とも見さかいのつかないほどひどいやけどをした方が、「おねえさん、水を下さい」と何回もいった。弁当箱のようなものに汲んであげたら「おいしい、おいしい」といってむしり取るようにして飲んだが、見ていると間もなく死んでいった。

    私は女学校4年生で、学徒動員に出ていて被爆した。ふとよその家の前の鏡に自分の姿が映ったのを見て、姿のあわれなことに驚いて声をあげて泣いた。頭髪は乱れ、着ていた白いシャツは血で染まり茶色、モンペは半分下はなく、上はぼろぼろで下がっている。顔は32か所けがで(後からわかった)、目はつぶれて片方見えなかった。(24頁)

 

  ・ 広島 女 被爆時18才 被爆距離2.0キロ

    三菱広島造船所に挺身隊として行っていた。両親のことが気にかかり、三日目、やっと市内に入ることができた。私の家は大手町3丁目、爆心地から0.5キロのところだった。途中はもう右も左もやけどした人、亡くなった人、どこが顔か口かまったくわからなく、真っ黒にやけただれた人、大きな真っ黒い石と思ったら、それは牛があおむけに目を開けたまま倒れて死んでいた。生きているのか死んでるのか、ただ突っ立っている馬。とにかく道路はしかばねの山だった。川という川にはまっかにやけただれた、風船のように膨れ上がった人間の死骸がいっぱい浮かび上がっていた。

     私の両親を、五日目にやっと見つけることができた。もう人間の炭になっていてどうすることもできなかった。(34頁)

 

  ・ 広島 女 被爆時19歳 被爆距離3.0キロ以上

    家は全部焼失し、父と姉(次女)と甥の行方が分からず、姉(長女)の婚家に住まわせてもらい毎日探しに出かけた。1週間ぐらい通って、父が行っていた家の人に会い、その家で父が亡くなったことを聞き、その屋敷跡から父のものらしいお骨を拾って帰った。姉と甥は私の家の敷地内から見つかった。

    同居させてもらった義兄が、一か月後に原爆症で死亡、一緒に探しに市内に入った姉も、妊娠していた子供が兄が亡くなった後産れたが、100日で死亡。姉も昭和24年ガンで死亡。おばあさんと甥だけが残ったのが、なによりも可哀想だった。(42頁)

 

  ・ 広島 女 被爆時22才 被爆距離1.5キロ

    電車の吊革にぶら下がったまま黒こげになり、腹巻だけ残った男の人。全身赤紫色にピカピカになり、幽霊のように「おかあさん」と言いながら両手を前にして、ふらふらとやっと歩いている女子学生。眼光が大きく空洞になっていた男の人。片手のない人も皮膚が新ジャガのようにチリチリになり、または指の先にボロのように皮膚をぶら下げてやっと河原にたどりついた人。(48頁)

 

  ・ 広島 男 被爆時26才 被爆距離1.0キロ

    五日程過ぎて、岡山、島根との県境に近い陸軍病院分院に移送された。250名ほど移送され、分院となった女学校の屋内体育館がいっぱいになった。

    8月15日の終戦のあとから、今まで元気だった軽傷の患者が次々に倒れ、高熱を発し、下痢を起こし、苦しみ悶えて死んでいった。毎日毎日5名から10名もの死者が出た。

    9月初め、全く絶望視されていた私に回復の兆しが生じ、9月末には歩けるようになって退院した。そのとき分院に生き残った者はわずか5人、実に98%の人が死んでしまった。(62頁)

 

  ・ 広島 男 被爆時18才 入市被爆

   8月7日朝、宇品金輪島に上陸した後、市内を宇品から楽々園まで歩いて行った。途中市内電車が爆風のた線路から大分吹き飛ばされ(10m位)、その電車の中に吊革にぶら下がったままの真黒な乗客が多数いた。

   川を渡るとき電車の鉄橋を渡ったが、所々枕木が燃えていて、もう少しで落ちそうになった。下を見ると、橋桁には材木がまずかかり、その後に次々と死体が流れ着き、ものすごい死体の重なりで、ほとんど裸で、真赤な背や腹を出していた。

   道のそばに一家族と思われる死体があった。ちょうど朝食時だったのだろう、夫婦子供4人の焼死体が丸く輪になって座り、父親がのけぞり、手に茶碗を持っている格好で、腕時計のあとだけ白く他は真っ黒に焼け焦げていた。母親は子供をかばう様に両手を差し出し、小さな二つの黒焦げ死体は母親の方へ両手を差し出す格好で座っていた。(88頁)

 

  ・ 広島 男 被爆時29才 入市被爆

    忘れてならないのは、原爆症のことだ。私は6人の身内をこの急性原爆症で失った。無傷に近い人間が、全身黒斑におおわれ、髪は抜け、血を吐き死んでいった。早いのは1週間に、また1か月以内に亡くなり、そのつど焼け残りの板切れで遺体を焼却した。(99頁)

 

  ・ 長崎 男 被爆時25才 被爆距離3.0キロ

    家族を案じながら、やっと道ノ尾に避難したが、死者と重傷者ばかりで、水を求めるものがほとんどだった。明けて10日防空壕の中にいた妻子が生きていた。親子3人、焼野が原をさまよった。右を見ても左を見ても、黒焦げになった死体が散らばり、男女の見分けもできない人。今にもパンクしそうに、腹をふくらませ、虚空をつかむような姿で死んでいる人。

    かろうじて、三角の実家にたどりついた妻と子供はすぐ発病し、妻の髪の毛はさわっただけで、ぞろぞろと抜け、歯ぐきは溶け、歯は一本もなく抜け落ち、高熱が続き、必死に探した氷も手に入らず、19日子供が、20日には妻が、さようなら、さようならと言いながら死んだ。 妻は20才の若さであった。(148頁)

 

19. 「コレクション戦争と文学」集英社

「日中戦争」2011

 

(1)日比野士朗「呉淞クリーク」初出 1939

・また砲撃が始まった。何処に来るかと見ていると、今度は左側40米ほどの畑の中にだあんと一発爆発した。来るなら来い、という気持である。第2弾はそれよりもも少し近く、20米ぐらいのところに土煙を上げた。第3弾も同じようなところに。そして空がしいんというように鳴ったとおもうと、第4段は10米程の距離に、人間の叫び声を伴ってだあんと土煙を上げた。ざわめきが起った。やられたぞ、やられたぞと叫んで、右往左往する兵隊が見える。担架がのめるように駆けつけた。全身血達磨の兵隊が3、4人、そこの壕から担がれて行った。腹から上が吹っとんでるぞという声が聞こえる。運悪く壕の中で破裂したので、7、8人が一ぺんにやられたものらしい。(157頁)

 

(2)田村泰次郎「蝗」初出 1964

・軍曹、上等兵と一等兵の3人にとって、大量の遺骨箱を鉄道とトラックで目的地まで輸送するとともに、5人の女とその抱え主をそこまで連れていくのも別の任務であった。
途中列車が急停車し、列車の近くで1人の将校が大声で叫んだ。
「命令だ。女たちを降ろせと言ったら降ろせっ」
ここへ来るまでに、開封を出発して間もなく、新郷ともう一箇所、すでに2回も、彼女たちは、引きずり降ろされていた。そのたびに、その地点に駐留している兵隊たちが、つぎつぎと休む間もなく、5名の女たちの肉体に襲いかかった。(481頁)
将校は両手で刀を頭上に振りかぶり、その大上段に構えた二つの拳の下から、
「頼む。な、兵隊たちのために、頼む」

・いま、自分たちの顔や身体に、小さいつぶてのように、つぎつぎとぶつかっている、この体長5センチほどの昆虫の群れは、自分たちと同じように黄河を渡り、何百キロも飛翔をつづけているのか、それとも黄河の北岸や、南岸で出遭った集団とは別の集団なのか、皆目分からなかった。(512頁)

・兵団の戦闘司令部に着いたとき、女2名だけだった。2名の部下も抱え主も女3名も敵機の銃撃でやられた。(523頁)

 

「ヒロシマ・ナガサキ」2011

 

(1)原民喜「夏の花」初出 1947

・水に添う狭い石の通路を進んで行くに随って、私はここではじめて、言語に絶する人々の群れを見たのである。
男であるのか女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫れあがって、随って眼は糸のように細まり、唇は思いきり爛れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼等は横わっているのであった。私たちがその前を通って行くに随ってその奇怪な人々は細い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さい」とか「助けて下さい」とか。(22頁)

・馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて 泉邸入口の方へ来掛った時のことである。西練兵場寄りの空地に、見憶えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行った。嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集まった。見憶えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めている。死体は甥の文彦であった。上着は無く、胸のあたりに拳大の腫れものがあり、そこから液体が流れている。真黒くなった顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでいた。その側に中学生の屍体が一つ、それから又離れたところに、若い女の死体が一つ、いずれも、ある姿勢のまま硬直していた。次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去った。涙も乾きはてた遭遇であった。(29頁)

・火傷した女中の腕はひどく化膿し、蠅が群れて、とうとう蛆が湧くようになった。蛆はいくら消毒しても、後から後から湧いた。そして、彼女は一ヶ月あまりの夜、死んで行った。(31頁)

・今度の遭難者で、頭髪が抜け鼻血が出だすと大概助からない、という説がその頃大分ひろまっていた。頭髪が抜けてから十二三日目に、甥はとうとう鼻血を出しだした。医者はその夜が既にあぶなかろうと宣告していた。しかし、彼は重体のままだんだん持ちこたえて行くのであった。(32頁)

 

(2)大田洋子「屍の街」1945/11記 初出 1950/5

・二、三日前村へ帰ってきたという、この家の遠縁の青年で、銀ちゃんという人ではないかと思った。その人なら、髪が抜け、歯は歯槽膿漏のようにがたがたと頽れ、そのうえ痩せこけて朽木のようだと聞いていた。私が眼もくらむほどびっくりしたのは、言いようもなく不気味は皮膚の色のせいだった。その全身の皮膚は、肺結核の末期の人のような色の上に、もっと絶望的な、不透明な、焼茄子に似た色で塗りつぶされていた。
眼のふちは青いインクを入墨したように隈どられ、唇は灰色に乾いていた。髪は80歳の年寄のようにまばらになり、灰色に変わっている。皮膚の上にはいたるところに、小豆粒くらいの斑点が、薄青く、それから紫や紺色にこびりついていた。
このような症状は、医者からもきいていたし、新聞などでも読んでいた。そうなってしまえば二三日長くて五日しか生きていないと聞いていて、そのような人はもう医者のところでも見かけることはできなかった。(43頁)

・横川駅の手前には海軍病院の救護所が出来ていて、負傷者の群がその天幕を埋めていたが、丁度その前、瓦礫の山の上に、男や女、老人や子供や赤ん坊の死体がかためて積んであった。どんなに死体に見慣れていても、その死体の山こそは眼をそむけないではいられなかった。天幕もなく死体収容所と書いた板切が立っているだけで、かっと光る真夏の太陽に照らしだされた死体の丘には、裸の四肢を醜く開いて空を睨むように死んでいた太った若い女もあった。どの死体も腫れ太って、金仏の肌のようにまっ黒に焼けている。・・・火事で焼けたのでなく青い閃光のために、そしてあの光は直接には熱さは感じなかった ・・・。(137頁)

・1ヶ月経った頃も死体は町の方々に転がっていたというし、いたるところ白骨があったし、嘔吐しそうな臭気は町から町をおおっていたという。蠅はどこへ行っても小豆をまいたようににいて、市中の一部を走っている焼けた電車では、乗客の全身に真黒になるほど蠅はたかり、特に赤ん坊なんぞの顔には大きな黒い蠅が恐ろしいほどよりたかるという。蓋のきっちりしてあるアルミニウムの弁当箱の中にも、蠅は何匹となく入ってご飯の上に死んでいるということだった。(187頁)

・私は1945年の8月から11月にかけて、生と死の紙一重の間におり、いつ死の方に引き摺って行かれるかわからぬ瞬間を生きて、「屍の街」を書いた。
寄寓先の家や、村の知人に障子からはがした、茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらい、背後に死の影を負ったまま、書いておくことの責任を果してから、死にたいと思った。(198頁)

・爆心地から、南に向ってまっすぐ2里の海上にある、金輪島にいた娘が、放射能の閃光の一瞬後、片方の乳房をえぐり取られたという話を聞いていて、これを作品の中に描こうとしても、容易には描き得ない。
もっと近い距離にいた者が、死を免れ、海を隔てた瀬戸内海の小島に、女子挺身隊で働きに行っていた娘が、爆風による硝子の破片で乳房をもぎ取られ、丸い乳房型の血の肉塊が、胸の谷にはみ出て垂れ下がっており、そのあとが暗い空洞になっていたという、このような事実は、ウラニューム爆弾の性格を知らぬ者には、嘘としか思えないであろう。
広島市から北に10里入った山の中の村で、「屍の街」を書き終った時分、台風と豪雨の被害で、1ヶ月も聞けなかったラジオが、ある日ふいに聞こえてきた。そのとき、原子爆弾に関するものは、科学的な記事以外発表できないと言っているアナウンサーの声が、かすかに聞えた。
「屍の街」は23年の11月に一度出版された。しかし私が大切だと思う箇所がかなり多くの枚数、自発的に削除された。影の薄い間の抜けたものとなった。
それ以後そのまま放置されて今日に至った。(202頁)

 

 

 

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