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フランスの文学

A. 近世

1. ラ・ファイエット夫人(1634-93)「クレーブの奥方」(1678)

「お姿を見れば守り通さねばならぬ気持ちも崩れてしまうであろうから、お会いする危険に身を晒したくないのだけれども、それを無礼とお思いにならないで下さい。ご自分が殿のものになりたいという気持ちとご自分の務めと安らぎとは相容れぬものであるということが分かってからというもの、浮世のほかのくさぐさのことには興味を失った故に、この世のことは永久に捨ててしまったとお知り下さるよう、今はもう来世のことばかりを思う身で、ただ願うのは、殿もご自分と同じようなお気持ちになっていただきたい、とのことでした。」(川村克己訳)

 

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B. 近代

1. 「フランス革命史」(ミシュレ) 1853

・1970年「ロベスピエールは、ジャコバン党の中で、原則の人となる。党人たちが、原則と利害、権利と状況とを妥協させようとするたびに、ロベスピエールの持ち出す抽象的、絶対的な権利にぶつかった。彼らの英仏折衷の立憲的解決は、彼のフランス製の普遍的な理論を、「社会契約論」通りのルソーの理論を提示した。彼らは動き回り、彼は不動。彼らは代言人のように見え、彼は哲学者、権利の聖職者であった。」

「人民の支持は、不動のロベスピエールに集中してゆき、議員からは無視されても、傍聴席の拍手喝采を受ける。」

 

・ルイ16世の処刑
国民公会の賛否

ルイ16世の有罪 全員(棄権37)
国民投票の要否 不要  400
必要  300弱
死刑賛成 387
追放または留保つき死刑賛成 334
死刑の執行猶予 賛成 約300
反対  400弱

 

2. 「マリー・アントアネット」(シュテファン・ツワイク)1932

(最後の手紙)「愛する妹(ルイ16世の実妹)よ。いま死刑の判決を受けてきました。貴女の兄上に再びお目にかかることができるというだけです。兄上の最後の瞬間に習いたいと思っています。
かわいそうな娘よ。娘に手紙を書いても所詮は手に届かないでしょう。この手紙でさへ貴女に届くかどうか分からないのですから。
愛する妹よ。息子を許してやって下さい。貴女が娘と息子にお示しになった愛情と親切を、分かってくれるときがきっと来ると信じています。
私には友がありました。私が最後の瞬間まで彼らのことを忘れずにいたということだけでも、せめて彼らが知ってくれたらと思います。
さようなら、さようなら。貴女と哀れな愛児たち。今はただ宗教上のお勤めを残すだけとなりました。」(ここで切れる。)

 

3. 「ジョセフ・フーシェ」(シュテファン・ツワイク)1929

1759

ナントの船乗りの子として出生。20~30才神学校教師。

32-35才 国民公会議員(ジロンド党-国王死刑に賛成-地方派遣議員として反教会反ブルジョアの急進派-「リヨンの散弾虐殺者」(3ヶ月で2000人虐殺)-ジャコバン党総裁-ロベスピエールの演説により党除名-議員落選)
3年の極貧生活
40-43才 総裁政府の警務大臣-ナポレオン統領警務大臣。
45-50才 ナポレオン皇帝の警務大臣。公爵。3年の浪人。
56才 ナポレオン100日天下の警務大臣。総裁。
57才 ルイ18世の警務大臣-フランスからの追放。
61才 イタリアで客死。

 

4. ナポレオン

・1812年の手紙「妻(マリ・ルイズ)よ。この都(モスクワ)にはエリゼ宮にも劣らない贅を尽くしてフランス風に飾った550の宮殿と、兵営と、病院があったのだ。ところが、火が2週間前からこの都を焼き尽くしているのだ。市民の小さな家はすべて木造なのでマッチのように燃える。」

・セント・ヘレナにて、「それにしても、わが生涯はなんというロマンであろう。」

 

5. 「ナポレオン戦線従軍記」(ヴィゴ・ルション)

・1796年ボナパルト・イタリア遠征軍最高司令官は、「容貌、態度、身なりのいずれをとっても、われわれを惹きつけるものがない。小柄、貧弱、青白い顔、大きな黒い服、やせこけた頬、こめかみから肩まで垂れている俗に犬の耳という長い髪。彼は、ブルーの上着を着て、淡い褐色のフロック・コートを着ていた。」

・ 1801年「私が目にしたパリは、あちらに立派な宮殿があると思うと、こちらはあばら屋の群れ、見事な通りが果てしなく続くと思うと、それ以外はむかつくほど汚く、道は降り続く雨で泥だらけで、しかも悪臭を放つ。白日の下に晒されたパリを目のあたりにして、私のパリに寄せる幻想は、跡形もなく消え失せた。」

・1811年スペイン戦線にて、「私は、剣を手にして死体だらけの戦場にいた。一人のイギリス軍の軍曹が、私が負傷しているのを知らずに、なんとか槍の一突きを見舞おうとしていた。この戦いを側で見ていたイギリス軍の士官が私にフランス語で言った。「もうこれまでですね、おひとりですし。降伏することをお勧めします。」「私も降伏する気でいるんです。ほら サーベルをお渡しします。」先程の軍曹は、私が重症を負っているのを知ると、大変申し訳ないことをしました、といって、兵を呼び自ら介抱しようとして、イギリス軍野戦病院に運び、治療した。」

 

6. スタンダール(1783~1842)

「赤と黒」1830

・「その犯行は、人々の耳目を驚かせたが、凶悪ではなかった。かりに凶悪だとしても、犯人は、とても美青年であった。彼の素晴らしい出世が瞬く間に終わりを告げたこと、それが人々の心をさらに動かした。「死刑になるでしょうか」と女たちは、知り合いの男に尋ねた。答えを待つ女たちの顔は、真っ青だった。」(サント・ブーブ)

・「思い切って彼女の方をを見ると、マチルドは、小さなテーブルの上に自分と向かい合うようにジュリアンの首を据え、その顔に口づけをしていた。」

・「マチルドは、人知れず、ただ一人黒い幕をたらした馬車に乗り、愛した男の首を膝の上に抱いて運んだ。」

・「レナ-ル夫人は、約束を守り、自分の命を自ら絶とうとはしなかった。しかし、ジュリアンの死後3日目に子供たちを抱きしめながら、息絶えた。」

 

7. 鹿島昇「ナポレオン三世」 講談社学術文庫  2004

・ナポレオン三世となったルイ・ナポレオンは、クー・デタから1年半後の1853年オスマンをセーヌ県知事に据えた。
「皇帝は、私に1枚の地図を示された。その上には、皇帝ご自身の手で工事の緊急度に応じて、青、赤、黄、緑の4色に、開通すべき通りが塗り分けられていた。皇帝はただちに着工するよう私にご命令されたのである。」

・一人の為政者が、ただ自分の頭の中の考えから出発して、都市計画を完全にやりとげてしまった例として、ナポレオン三世のパリの大改造は、ほとんど空前絶後の例といっていい。その要因は、
(1)ウージェーヌ・オスマンという類のない能吏を得たこと。
(2)住民自身が大改造やむなしと思うほど、人口過密、交通渋滞、貧困、非衛生、暴動などが山積みになっていたこと。
(3)住民やジャーナリズムの反対を抑えつけるのに十分な警察力と軍事力を持っていたこと。
(4)マネーが循環し、公債の大量発行と土地買収が容易になったこと。
(5)改造されたパリを歓迎する中産階級が勃興したこと。

・それから1870年の辞任まで17年に及ぶ「オスマン時代」が始まり、パリはその間に大変貌を遂げることになる。

・オスマンのパリ改造は、たんに街を造り替えたばかりでなく、新しい階級を生み、新しい習慣行動を作り出す。この意味でオスマンは豪華絢爛たる第二帝政の社会それ自体の生みの親となったともいえるのである。

・実質的にフランスのために伯父以上の業績を成し遂げたナポレオン三世の遺骸は死後130年を経ても、イギリスからフランスへの移送が計画されたこともない。
 第二帝政がなければ、果たして、フランスが近代国家の仲間入りができたかさえ疑わしいというのが、歴史家の間で定説になりつつあるのに、この仕打ちはあまりにむごいと、言わざるをえない。
ナポレオン三世こそは「評価されざる偉大な皇帝」なのである。

 

8. ビゼー(1838~75)

 

8-1. 「カルメン」(1875初演)

・序曲

 

1幕

・(ハバネラ)「恋はいうことを聞かない小鳥
飼いならすことなんか誰にもできない
いくら呼んでも無駄 来たくなければ来やしない
おどしてもすかしても なんにもならない。

 恋はジプシーの申し子さ 掟なんか知ったことじゃない
 好いてくれなくてもあたしから好いてやる あたしに好かれるとあぶないよ!」

 

2幕

・「響きも鋭く 鈴を打ちならせば
その不思議な音楽につれて ジプシー女が立ち上がった。
タンバリンが調子をとれば 狂おしく掻き立てる
ギターに合わせて いつもの歌 いつものルフラン
ラララ ラララ」

・(闘牛士の唄)「この乾杯のお返しをさせてください。
なぜって みなさん 軍人さんと闘牛士とは うまが合うもの、
どちらも戦いが楽しみだから。
闘牛場は満員 お祭りの日 闘牛場は満員 上から下まで、
見物人は我を忘れて大騒ぎ そのどよめき!

トレアドール、 構えはいいか! だが忘れるな 戦いながら忘れるな
黒い瞳がお前を見てるぞ 恋がお前を待ってるぞ。」

 

3幕

・前奏曲

・「あたし 貴方を迎えに来たの!
遠くの藁ぶきの小さな家で 絶え間なく祈りながら
貴方のお母様が、 泣いているのよ。
ホセ 一緒に来て頂戴!」

「もうひとこと言わせて! 最後の一言。
お母様は今日か明日かの命なの。
死ぬ前に一目 息子に会いたいと願っているのよ。」

 

4幕

・前奏曲

 

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C. 現代

1. 「パリは燃えているか」ラリー・コリンズ、ドミニク・ラピエール 1964

1941年7月21日、ヒトラーは、三点からなるパリ防衛の最初の命令を下した。「第1に、パリのセーヌ川にかかっている橋にはすべて地雷を仕掛け、破壊準備をすること。第2に、パリの産業を麻痺させること。第3に、動員可能な人員資材のすべてをパリの新司令長官コルティッツの下に派遣すること。」
「パリが破壊されたからってどうというのだ。連合国の空襲は、この瞬間にもドイツの諸都市を破壊しているではないか。」

8月17日、コルティッツは、西部戦線司令長官クルーゲ元帥から命令を受けた。「本官は、パリに対して準備されている破壊と攻撃開始を命令する。」

8月21日(日)の新聞(「ル・パリジャン・リベレ」、「リベラシオン」、「デファンス・ド・ラ・フランス」)の第1面には大見出しが踊った。「バリケードへ。」

連合軍のパットン将軍は、次のように言い捨ててベッドに帰ってしまった。「第1に、連合軍の目的はドイツ軍と戦うことであって、パリを占領することではない。第2に、レジスタンスは命令を受けずに一斉蜂起したのであるから、その結果もレジスタンス自身が耐えるべきである。第3に、連合国軍自体、燃料不足に直面しているのでパリに補給する責任を引受けることはできない。」

コルティッツは、スウェーデン総領事ノルドリンクに言った。「もし自分がこの命令のうち一つでも遵守していたら、パリはすでに廃墟と化していたろう。ドイツ国防軍最高司令部から再三にわたって督促されたし、ヒトラーからは、たとえパリの大部分を犠牲にしてもいいから暴動を鎮圧するために決定的措置をとれ、とたえずせかされている。」
「現在この命令の実行を阻止しうるのは、連合国軍の早急な介入のみである。」
彼はナチスの用箋に一筆認めた。「大パリ司令官は、スウェーデン総領事ノルドリンクがパリを去り、ドイツ軍戦線を越えることを許可する。」
コルティッツは、外交官を戸口まで送って行って、「早くいらっしゃることです。あと24時間、いや48時間くらいしかないでしょう。そのあとはここでどんなことが起こるか、私には保証できません。」

「もしパリが敵の手に落ちるのが避けられないのなら、パリに入って敵軍が廃墟と化した荒野しか見出せないように破壊してしまえ。」「私は、パリを全滅させるために必要な命令を与えていた。パリを破壊するため特別工兵部隊を派遣した。この命令は実行されたのか。」「ヨードル(参謀総長)、私は知りたい。パリは燃えているのか。この瞬間パリは燃えているのか。」

8月26日、ヨードル参謀総長は、モーデル西部戦線総司令官を電話で呼び出したが留守であったので、シュパイデル副官に言った。「総統は V1号とV2号のロケットによるパリ攻撃を即刻開始せよ、と命じられている。」
副官は、パリが陥落した現在、この命令は常軌を逸していると判断してこれを総司令官にとりつがないことにした。1週間後シュパイゲルはゲシュタポに逮捕された。

 

2-1  中島さおり「パリの女は産んでいる」(ポプラ文庫 2008)
「なぜフランスでは子どもが増えるのか」(講談社現代新書 2010)

・フランスの労働人口の49%は女性(2008)。
25~49歳の女性の8割が働いている。子供のいない女性では9割、子ども2人で75%、3人以上でも5割が働いている。

・パリでは9割のお産が硬膜外麻酔による無痛分娩。フランス全体では6割に落ちるのは、地方では産科麻酔専門医が不足しているから。麻酔医の費用は全額保険の対象。

・対外受精(カップル外の精子を受けることも、カップル外に卵子を提供することも入る。)は、年間4万件。保険の対象になる(日本では1回で3~40万円)。代理母は、認められていない。

・1982「自由意思による妊娠中絶法(シモーヌ・ヴェイユ法)」以後現在では、中絶費用の80%は保険が負担。

・普通のピルのほか、モーニングアフター・ピル(性行為の翌日に内服すれば75%の確率で受精卵が着床せず流れる。)は、薬局で買える。
中絶ピル(ごく初期の中絶には外科手術をせず内服。)は、医者の処方により可能。日本ではいずれも使用されていない。

・出生前診断(羊水穿刺)は、保険で可能。35歳以上の妊婦には勧められ、ダウン症状であることが確認されれば、医者は中絶を勧めるようである。

・パリの平均出産年齢は、31歳。
1972から下がり続けた出生率は、1994に底打ちし(1.68)、2004には1.90、現在では2.1。(日本では2009に1.31)。この間30代、40代の出産が飛躍的に増えたから、出生率を押し上げたのは高齢出産によることは明らか。

・第1子の56%が婚外子 (日本では1.9%)。これはフランスでは事実婚が多いということ。

・フランスでは産休は、2人目までは16週、3人目は26週。家族手当は1万5000円から3万6000円に上がる。

・フランでは3才児からの就学が100%、しかも公立校に通えば基本的に無償、公立校(75%)はいたるところにある。

・公立で教育を受ければ、ほぼ無償で高等教育まで行ける。

・2008年のフランスの結婚率は1000人に対し4.7組 (2007年の日本で5.7組)
25~29才で結婚しているのは26.8%、同棲は41.5%。

・「21世紀に入ってからのフランスの出生率の順調な安定ぶりは、半世紀以上にわたる家族政策が、子どもを持つ家庭への支援、低所得層の下支え、女性の仕事と家庭の両立支援と、多面的に「子どもを持つことができる」環境を整えてきた成果であるといえよう。」

 

2-2  高崎順子 「フランスはどう少子化を克服したか」2016 新潮新書

  ・ フランスでは毎年9月、その年に満3歳に達する子供たちが一斉に、「保育学校」に入学する。ここはフランス国内のすべての子供が入学できる週4日半・3年制の学校である。義務教育ではないものの教育費用は無料、入学率はほぼ100%となっている。(7頁)

    この国で生活する3歳児、4歳児、5歳児なら誰でも通うことができる。無償の学校、教材や文房具はすべて学校から支給される。フランス全土に1万5000校あり、約250万人、つまり3~5歳児の人口のほぼ全員が通っている。市町村はどれだけ人数が増えようとも、希望のあった子供たちをすべて入学させねばならない。(162頁)

  ・ 赤ちゃんの誕生後、サラリーマンの父親には3日間の出産有給休暇がある。拒んだ雇い主には罰金があり、 取得者はほぼ100%。フランスでの出産入院は通常3泊4日程度なので、経過がよければ妻の入院中の時間を丸々一緒に過ごし、退院にも同行できる。この3日間がお父さんトレーニングの第一歩。入院中に助産師指導で進められるスケジュールは、父親の来院時間に合わせて組まれていく。

    出産有給休暇の後は、11日連続の「子供の受け入れ及び父親休暇」がある。労働法と社会保障法が定めた制度で、正しく運用しなかった雇い主には罰則もある。2012年には新生児の父親の約7割が取得したという。取らない3割は時間に融通のきく自営業者が中心で、公務員の9割は取得したという。給与は国の社会保険から支払われる。

    フランスの助産師は、上級の医療専門職。フランスでは、高校卒業後、医師や薬剤師・歯科医志望者と同じ学校で初期医療教育を1年間うけた後、選抜試験を突破して助産師学校に入学、そこで4年間の専門教育を経て、助産師資格を得る。出産は9割以上が病院で行われ、そのうちリスクの少ない出産は助産師が担当する。(36頁)

  ・ フランスの無痛分娩率は世界トップである。 2015年のデータでは帝王切開以外の出産(経腟出産)の80%が硬膜外麻酔で行われた。麻酔費用は全額国の医療保険の負担となっている。

   母親アシスタントの認可取得者は45万人以上で、実際に活動しているのは32万6000人。(119頁 1993年シモーヌ・ヴェイユが再び健康省大臣になり、翌年分娩用麻酔を全額、国の医療保険の負担とした。その後、1995年には妊婦の54%が無痛分娩で出産し、2003年には75%、2010年には81%、となった。無痛分娩が普及していくにつれ麻酔医の数も増えた。(60頁)

    日本では無痛分娩の普及度は低く、お産全体の3%にも満たない。日本で普及率の上がらない理由には、麻酔医の不足も挙げられている。現在無痛分娩を選択できる産科・産院でも、その多くが予約制で、前もって分娩日を決め、その日に合わせて陣痛促進剤などを使って計画的・人工的に行うしかない。しかも硬膜外麻酔は保険対象外で、産院によって10万~数十万円の追加料金がかかる。(64頁)

     ・ 3歳未満については保育園より「母親アシスタント」がより多くの児童を受け入れている。国家免状はないが、開業のためには、自治体主催で無料の60時間研修(1日6時間・週5日・計2週間)を受けることが必修。加えて、母子保護センターによる複数回の訪問と面接で審査が行われる。最大4人までの受託可能児数は審査により決定される。開業から2年以内に再度60時間研修を受け、有効期間は5年間。更新には再申請が必要。

    現在、認可取得者は45万人以上で、実際に活動しているのは32万6000人。(119頁)

 

 

 

 

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