東洋

A. 中国 史記

1. (荊軻)「刺客列伝」

秦王政 (のちの始皇帝) の暗殺に向いて

「風 蕭々として 易水寒し
  壮士 一たび去って 復た還らず」

 

2. (項羽)「項羽本紀」

・鴻門の会見

項羽と項伯(項羽の叔父)は、東面して上座につき、范増は、南面して二座についた。沛公(劉邦)は、北面して三座に座り、帳良は、西面して下座についた。
范増は、しばしば項羽に目配せをし、盃を上げて決心をうながすこと三度であったが、項羽は、黙然として応じなかった。
范増は、座を起って外に出て項壮(一門の若者)を呼び、「君主は憐れっぽい性質だから、お前が入って長寿を祝し、祝酒が終ったら、一さしお見せしようと剣舞を舞い、はずみに沛公を撃って、その場で殺せ。」
項壮が剣を抜いて舞うと、項伯もまた剣を抜いて舞い、常に身をもって沛公をおおいかばい、項壮は撃つ機会がなかった。帳良は起ってはんかいを呼んだ。はんかいは、剣を帯び盾をひっさげて幕を引き開き、西向きに突っ立って目をいからせて項王に言った。
「かの秦王は虎狼の心を持ち、いくら人を殺しても殺し足らぬごとくして、天下は秦にそむいた。(楚の)懐王様は、真っ先に秦を破って咸陽に入る者を王にしようと言われ、沛公は最初に秦を破って咸陽に入り、宮室を封鎖し、軍を覇上に返して大王を待った。功績のある者を殺そうとは、亡秦の続きであって、大王のために惜しむところである。」
項羽は返答ができず、ただ、「まあ坐れ。」といった。
はんかいは、帳良について座り、沛公は厠に起った。
沛公は、帳良を残して馬を駆って覇上に逃げ去った。
帳良は、座に帰って言った。「大王には沛公をお咎めになるおぼしめしのようなので、逃げて独り帰り、もはや覇上に着いた頃でしょう。」
范増は、沛公の贈ってきた璧を叩き壊して言った。「ああ若僧(項羽のこと)は、ともに図るに足りない。項羽の天下を奪うものは必ず沛公だ。わが一族は、そのうち彼の虜になるであろう。」

 

・垓下の歌

力は山を抜き 気は世を蓋うも
時に利あらず 騅(すい)逝(い)かず
騅の逝かずは 如何すべき
虞や 虞や なんじを如何せん

 

3. (劉邦)「高祖本紀」

高祖(劉邦)亭長を以って県の為に徒(人夫)をう山(始皇帝陵を作っていた。)に送る。徒、多く道より亡(に)ぐ。自ら度(わた)るに、到る比(ころ)(現地に着く頃には)、皆、之を亡(のが)れんと。豊西の澤中に到り、止まりて飲す。夜、すなわち送る所の徒を解き縦(はな)ちて曰く、「公等、皆去れ。吾も亦た此れより逝(さ)らん」と。徒中の壮士、従わんと願う者十余人あり。

 

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B. 中国 唐詩

1. 王翰(?-?)

・涼州の詞

葡萄の美酒 夜光の杯
飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す
酔うて沙場に臥す 君 笑うこと莫かれ
古来 征戦 幾人か回(かえ)る

 

2. 王之渙(695-?)

・かんじゃく楼 (黄河辺にあった高楼)に登る

白日 山に依りて尽き
黄河 海に入りて流れる
千里の目を 窮めんと欲し
更に上る 一層の楼

 

・涼州の詞

河 遠く上(のぼ)る 白雲の間
一片の孤城 万仭(ばんじん)の山
羌笛 何ぞ須(もち)いん
揚柳 (送別)を怨むを
春光 度(わた)らず 玉門関

 

3. 孟浩然(689-740)

・義公(禅僧)の禅房に題す

義公 禅寂に習い
宇(庵) を結んで 空林に依る
戸外 一峰秀で
階前 衆がく(谷) 深し
夕陽は 雨足に連なり
空翠(くうすい)(雨に流されたあとの庭の木々の緑)は庭陰に落つ
蓮花の浄きを 看取せば
方(はじ) めて不染の (清澄な) 心を知らん

 

4. 王維(699?-761)

・田園楽

桃の紅は 復(また) 宿雨を含み
柳の緑は 更に 春烟を帯ぶ
花落ちて 家僮 未だ掃わず
鶯啼いて 山客 猶 眠る

 

・鹿柴(ろくさい)

空山 人を見ず
但(た)だ  人語の響きを聞く
返景(はんえい)(夕陽) 深林に入りて
復た照らす 青苔の上

 

・香積寺に過(あそ)ぶ

香積寺を知らずして
数里 雲峰に入る
古木 人径無く
深山 何処の鐘
泉の声は 危石に咽ぶ
日の色は 青松に冷かなり
薄暮 空潭(くうたん)の曲(くま)(淵のほとり)
安禅(禅僧)毒龍(煩悩)を制(おさ)う

 

・ 渭城の曲

渭城の朝雨 軽塵を潤おす
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む 更に尽くせ 一杯の酒
西のかた陽関を出ずれば 故人無からん

 

5. 李白(701-762)

・黄鶴楼に孟浩然の広陵に之(ゆ)くを送る

故人西のかた 黄鶴楼を辞し
烟花  三月 揚州に下る
孤帆の遠影 碧空に尽き
唯見る 長江の 天際に流るるを

 

・春夜洛城に笛を聞く

誰が家の 玉笛ぞ 暗(やみ)に声を飛ばす
散じて春風に入って 洛城に満つ
此の夜 曲中 折柳(送別の歌) を聞く
何人か起こさざらん 故園(望郷) の情

 

・早(つと)に白帝城を発す

朝に辞す 白帝 彩雲の間
千里の江陵 一日にして還る
両岸の猿声 啼いて住(や) まざるに
軽舟 已(すで)に過ぐ 万重(ばんちょう) の山

 

(注)北魏の地理書「水経注」(527年ころ)に、「朝に白帝を発して暮に江陵に到る。その間、千二百里。奔に乗り風を御すると雖も、以て疾しとせざるなり。林は寒くして谷川は粛なり。常に高猿の長嘯あり。空谷に伝響して、哀転久しくして絶ゆ。」とある。

 

・ 子夜呉歌

長安 一片の月
万戸 衣をうつ声
秋風 吹いて尽きず
総て 此れ 玉関の情
何れの日か 胡虜を平らげ
良人(りょうじん)遠征を罷めん

 

6. 杜甫(712-770)

・石壕の吏

暮れに投ず 石壕村
吏有り 夜 人を捉(とら)う
老翁 牆(かき) を踰えて走り
老婦 門に出でて看る
吏の呼ぶこと 一に何ぞ怒れる
婦の啼くこと 一に何ぞ苦しめる
婦の前(すす)みて詞(ことば)を到すを聴けば
三男(だん)は ぎょう城のまもり
一男(だん)書を附して至る
二男(だん)新たに戦死す と
存する者は 且(しばら)く 生を偸み
死する者は 長(とこしえ)に已めぬ

室中 更に人無く
惟(ただ) 乳下の孫有り
孫に母有りて 未だ去らざるも
出入するに  完裙(着る物) 無し
老嫗(う) 力 衰えたりといえども
請う 更に従いて 夜 帰せん
急ぎ 河陽の役に 応ぜば
猶 しん炊(すい)(飯たき) に備わるを得ん と

夜 久しくして  語声絶え
泣いて幽咽(ゆうえつ)するを聞くが如し
天明(朝) 前途に登るとき
独り 老翁と 別る

 

・登高

風は急に 天は高くして猿の嘯くこと哀し
渚は清く 沙は白くして 鳥の飛び廻る
無辺の落木(落葉)は 蕭々として下ち
不尽の長江は こんこんとして来たる
万里 秋を悲しみて 常に客(たびびと)となり
百万の多病 独り台に登る
艱難 苦(はなは) だ恨む 繁霜の鬢
潦倒(ろうとう)(老い衰える)新たに停む濁酒の盃

 

・秋興

玉露 凋傷(ちょうしょう)す(枯らす)楓樹の林
巫山巫峡 気 蕭森
江間の波浪 天を兼ねて(天にとどくほど)湧き
塞上の風雲 地に接して陰(くも) る
叢菊 両たび開く 他日の涙
孤舟 一えに繋ぐ 故園(望郷) の心
寒衣(冬着) 処処 刀尺(とうせき)(繕う)を催す
白帝城 高くして 暮砧(ぼちん)(夕暮れのきぬたの音)急なり

 

・旅夜、懐しさを書す

細草 微風の岸
危檣(きしょう)(高い帆柱) 独夜の舟
星垂れて 平野闊 (ひろ)く
月湧いて 大江流る
名は あに 文章にて著(あらわ)れんや
官は 応(まさ)に 老病にて休むべし
飄々何の似たる所ぞ 天地の一沙鴎(おう)(かもめ)

 

7. 岑参(しんしん)(715-770)

・胡笳の歌

君(顔真卿)聞かずや 胡笳の声 最も悲しきを
紫髯(しぜん)緑眼の 胡人 吹く
之を吹いて 一曲 未だ了らざるに
愁殺す 楼蘭征戍(じゅう)の児(じ)
涼秋八月 粛関の道
北風吹き断つ 天山の草
崑崙山南 月 斜めならんと欲す
胡人 月に向かって 胡笳を吹く
胡笳の怨み 将に 君を送らんとす
秦山 遥かに望む 隴山の雲
辺城 夜夜 愁夢多し
月に向かって 胡笳 誰か聞くを喜ばん

 

8. 張継(?-?)

・楓橋夜泊

月落ち 烏 啼いて 霜 天に満つ
江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇 城外の寒山寺
夜半の 鐘声 客船に到る

 

9. 杜牧(803-853)

・江南の春

千里 鶯鳴いて 緑 紅に映す
水村 山郭 酒旗の風
南朝 四百八十寺
多少の 楼台 煙雨の中

 

10. 李煜(りいく)(937-978)

五代十国の南唐の3代目最後の君主
北宋に亡ばされべん京(開封)に幽閉され2年後毒殺された。金陵(南京)を偲んで

 

・「烏夜啼」

言ばも無く 独り西楼に上れば
月は鉤(かぎ)の如く
寂寞たり 梧桐しげる深き院(にわ)の 清秋を鎖(とざ)せる
たち剪りて断たれず
理(とと)のえて還(ま)た乱るるは
是れぞ 離れの愁い
別に是れ一般の(一種の)滋味の 心頭に在り

 

・「虞美人」

春の花 秋の月 何時か了(きわ)まる(極まることはない)
往時 知んぬ 多少(いくばく)ぞ
小楼に昨夜 又も東風
故国(金陵の都)は 回首するに耐えず 月明の中
ちょうらん(欄干)玉砌 (ぎょくせい)(石畳) 依然として在るに
只た是れ 朱顔(自分の紅顔) のみ改まりぬ
君(自分)に問う 都 (す) べて幾多の愁い有りやと
恰(あた)かも似たり
一江(長江)の春水の
東を向(さ)して流るるに(絶えることがない)

 

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C. 中国 近代

1. 「蒋介石秘録」サンケイ新聞社 昭60

・中国国民党第一次全国大会(1924年)で重要なことは、「連ソ容共」政策が具体的に滑り出したことである。このため、中央執行委員(24人)の中には李大釗ら、中央執行委員候補(17人)の中には、毛沢東ら中共党員の名が見える。
もう一つは黄埔軍官学校の創設である。蒋介石は、陸軍軍官学校校長(広東省総司令部参謀長を兼務)に任命された。スタッフの中には 葉剣英(教授部副主任)、周恩来(政治部副主任)など、共産党分子が早くも混入していた。(上356頁)
ソ連から帰国したとき、中国国民党がすでにソ連との連携に踏み切っているのを見て不安を覚えた。しかし、孫文はソ連との連携に自信を持っていた。
「中国共産党の分子を中国国民党の指導下に置き、本党の統一した指揮を受けさせることによって、中国共産党の階級闘争が、わが国民革命の進行を妨害するのを初めて防ぐことができる。もし、われわれの北伐がひとたび勝利をおさめれば、三民主義も実行可能になる。そのときになって、共産党がわれわれの国民革命を破壊しようと思っても、勢い不可能となろう。まして、ソ連は中国の革命について、本党を唯一の指導的政党として承認しており、共産党員に本党に加入し、指導に服従するよう勧めている。」(上376頁)

 

・1925年 国父・孫文は北京で死去した。数えで60歳、死因は肝臓ガンであった。
軍官学校の教導団は国民革命軍に改組され、第一ないし五軍のうち、蒋は第一軍の軍長に任命された。(400頁)

 

・蒋介石は、北伐を建議した。
「北方で国民軍が北京、天津を退却すれば、中国の情勢の変化は迅速かつ重大となる。たとえば、奉天軍が北京・天津を占領すれば、日本の中国での勢力は、ますます強固となる。英国はまた湖北、河南における呉佩孚を助けるだろう。孫伝芳は江蘇、浙江に居座っているが、英国は孫にも呉と結ぶことを迫るだろう。列強は北方の国民軍を片づけたあと、必ず広東、広西の革命根拠地に干渉してくる。その期限は3ヶ月から半年までである。」
この建議は中央の受け容れるところとなり、蒋は、軍事委員会主席に推挙され、国民革命軍総司令に任命された。
北伐に向かう国民革命軍の総兵力は、8軍約10万人、このうち動員できる兵は5万人程度に過ぎなかった。ほかに8艦からなる海軍艦隊と3機からなる空軍飛行隊があった。これが持ち駒のすべてである。
これに対する北洋軍閥は、25万と称する呉佩孚の部隊が、河南、湖北、湖南、四川、貴州に展開。孫伝芳は20万の兵力を擁し、江蘇、浙江、安徽、福建、江西の5省を抑えていた。さらに張作霖は東北三省、直隷(河北)、山東に合わせて35万の兵力を配置していた。(416頁)

 

・5/1 国民革命軍第一軍団は、山東省済南に無血入場した。敵の張宗昌軍はすでに済南を放棄していた。2時間後に熊本から出動して来た日本軍第六師団、約3000人が同市内の商業地域に総司令部を置いた。わが国の主要都市の一つを、日本軍が占領したような屈辱的状況に、わが将兵はいきり立った。
激しい機関銃の速射の音が響き、「済南事件」の幕が切って落とされた。日本と中国とが、正面から軍事衝突した初めての事件であり、日中の長い戦争の序幕となった。日本軍の銃撃は全市に広がった。
日本軍の意図は、革命軍を南へ撤退させることにあった。 革命軍が北京を奪えず、北伐が失敗すれば、華北に割拠する北洋軍閥は日本軍の保護の下にますます勢いを伸ばし、華北一帯を日本の操縦下に置くことができる。
4日夜、蒋は、城外にいる革命軍の大部分には、黄河を渡り北方への進軍を継続するよう命令した。残りの部隊も秘かに渡河させた。
それでも、この事件で中国の男女 3254人の死者が出た。
この事件は中国の民衆の反日機運を決定的なものにし、昭和時代の日中関係を火薬と血にまみれたものとする最初の一里塚となった。(480頁)

 

・張学良は、延安で周恩来と極秘に会見し、「共同抗日」を実現するよう張学良が蒋を説得することを合意した。
東北軍の督励のため南京から来ていた蒋は、張学良の求めに応じ、1936/12/4、軽装のまま少数の従者を連れただけで、西安に行った。12/12 東北軍は蒋を拘束した。張学良は、国共共同して抗日に当たることを進言したが、蒋は拒否した。
毛沢東の意見は、「殺蒋抗日」であったが、指示を求められたスターリンは、中国の共産軍が政府軍とまともに一戦をまじえることによって、壊滅的な損害をこうむることに恐れた。スターリンは、4日午後、中国共産党に「連蒋抗日」政策をとり、10日以内に蒋を釈放せよ、との指令を出した。

 

12/22 突然宋美齢が部屋に入ってきた。自分の生死はとっくに度外視してきたが、これからは、妻の安全を考えなくてはならなくなった、と思った。
しかし、宋美齢の行動はすばやかった。張学良と会い、もう一人の「重要人物」(周恩来といわれている)に会った。事態は一挙に動き、監禁14日目の12/25、宋美齢とともに、南京へ帰ることになった。
西安の飛行場には、なんと張学良が、人夫に自分のトランクをもたせてどうしても同行したいと言って、ついてきた。
軍法会議は、張学良に対し、徒刑10年、公権剥奪5年の判決を下した。蒋の要請により、刑の特赦を受けたが、その身柄は軍事委員会の厳重な管理下に置かれることになった。現在はかっての第二夫人と結婚して台北市郊外に住んでいる。(下171頁)
西安事件によって、共産党はスターリンの指導の下に、国民党に「帰順」する姿勢を見せた。1937/1、政府軍は掃共戦を中断した。
共産党が政府の要求に従って「帰順」を誓約したのは、2/10、国民党第五期三中全会にあてた電報によってである。
前提条件として
(1)内戦の停止、
(2)政治犯の釈放、
(3)各党、各界、各軍の代表会議の招集、
(5)対日交戦の準備。
それが受け入れられれば、四つの約束をする。
(1)武装暴動の停止
(2)ソビエト政府と紅軍は国民政府と軍事委員会の指揮下に入る。
(3)特区政府地域では、普通選挙による民主制の実施
(4)地主の土地没収政策の停止、である。(186頁)

ところが毛沢東は 9/26 にはもう裏切っていた。朱徳が第八路軍をひきいて陝西省北部から前線に出動するに当たって、第八路軍の幹部を集めて講演し、「中日の戦いは本党の発展の絶好の機会である。我々共産党の基本政策は、全力の7分を自己の勢力の拡張に、2分を国民政府との対応に、1分を抗日にあてる。」と述べた。(229頁)

 

・1945/8/10 午後7時50分ごろ、日本のポツダム宣言無条件受諾が、東京からの国際放送(英語)によって伝えられた。
日本の降伏当時、中国(東北三省を除く)、台湾、澎湖、ベトナム北部に配置していた軍隊の総数は、128万3240人に上る。華北32万余、華中29万余、南京・上海33万余、広東13万余、台湾16万余であった。(上18頁)
日本人の引き上げ問題について、軍人120余万人、民間人など90万人の全員が、戦後の混乱の中で、わずか10ヶ月のうちに本国へ帰還できている。

 

・ヤルタ会談で、スターリンは、日本への参戦に条件を持ち出した。すなわち「南樺太と千島列島の返還」「大連、旅順の取得」「南満鉄道などの運営・使用権の取得」「外蒙古の独立」などである。すべて中国の主権にかかわる問題であった。しかし、ルーズベルトはスターリンに譲歩して、これを認めた。
1945/6/11 ソ連の中華大使ペトロフから重要会見の申し入れがあった。
ペトロフは、中ソ交渉のための先決5条件なるものを示した。
(1)旅順港の租借を回復し、ソ連の海軍根拠地を作る。
(2)大連商業港を国際化する、とともにソ連の同港における優先権を保証する。
(3)中東鉄路と南満鉄路については、中ソ合弁の会社を組織し共同使用する。
(4)蒙古人民共和国(外蒙古)は現状維持とし、独立国家とする。
(5)樺太南部と千島列島はソ連に帰属する。
もし蒋介石主席がこれらの基本条件に同意するなら、ソ連は中ソ友好同盟条約を締結するための交渉を開始する用意がある。」
この5条件は、ヤルタ密約そのままである。中華民国がヤルタ密約の内容を伝える「公文」に接したのは、この時が初めてであった。(41頁)
6/27 宋子文行政院長をモスクワにやりスターリンと交渉させた。
6次にわたる第1回会談では、中国は外蒙古問題について、人民投票によることを条件に譲歩し、スターリンもまた、旅順に「租借」という用語を使わないなど、お互いにいくつかの点で折り合った。
ここでスターリンがボツダム会議に出席するため、一旦、中断。第2回会議に入ったのは8/8。すでに、原爆が広島に投じられ、同日夜には、ソ連もまた、日本に宣戦を布告することとなる。
最後の最後までこじれたのは、
(1)外蒙古の境界線
(2)南満州鉄道局局長の人選、
(3)旅順港の管理。
ソ連は参戦と同時に、東北地方に大量の軍隊を投入し、中国領深く進入し始めていた。日本が敗れたのち、これらの軍隊をいつまでも止まらせておくことは、東北地区を共産軍の手に引き渡すのに等しい。
中華民国としては、涙をのんで前項の(1)(2)について譲歩せざるを得なかった。
モスクワで中ソ友好同盟条約に調印したのは、日本降伏という時間切れ寸前の 8/14夜であった。(上60頁)

 

・「スターリン元帥は、日本敗戦後、3ヶ月以内にソ連軍隊を撤退するという一節を「東北三省に軍隊を進入させる協定」に加えることに応じなかった。しかし、3週間以内に撤退を開始するとは声明した。宋院長が、撤退完了までどのくらいの時間が必要かをただしたところ、スターリン元帥は2ヶ月以内に完了できると答えた。宋院長はさらに、3ヶ月以内に必ず完了できるかどうかをただしたのに対し、スターリン元帥は最大3ヶ月あれば撤退完了には十分であると答えた。(署名)」(61頁)
しかし、ソ連は東北三省から3ヶ月以内に撤退するどころか、東北三省をそっくり共産軍の手に渡し、国民政府に対する反乱を助長した。
共産軍がソ連の手を経て日本軍の武器を入手したことを、1967/9 タス通信が公式に承認した。主な内容は、歩兵銃70万、軽機関銃1万1千、重機関銃3千、大砲1800、迫撃砲2500、戦車700、飛行機900などである。共産軍はこれによって武装し、わが中華民国に反逆したのである。(83頁)

 

・8/15「ポツダム宣言」受諾を一般国民に告げる天皇の放送に1時間先だって、蒋自ら重慶中央放送局のマイクを握り、中国および全世界に演説した。
この中で8年間にわたって受けた苦痛と犠牲を回顧し、これが世界で最後の戦争になることを希望するとともに、日本人に対する一切の報復を禁じた。「不念旧悪」(旧悪を念ぜず)、「与人為善」(人と善をなす)の「人の道」を強調したこの放送は、のちに 以徳報怨」(徳をもって怨みに報いる)の言葉で呼ばれ、中華民国が敗戦国日本に対処する基本的信念となった。(下407頁)

 

・日本軍が侵略した区域は、東北四省を始め、河北省から広東、広西まで22省に上り、爆撃などの被害を受けなかったのは、新疆、チベット、外蒙など辺境地域だけだった。
この間、戦闘は大会戦22回を含め 3万8931回に達し、331万1419人の将兵が死傷した。非戦闘員の戦傷も842万人を超えた。
1952年 中華民国は日本との平和条約で、在外資産没収を除き、すべての賠償請求権を放棄した。
中華民国が受けた損害はまさに天文学的数字に達し、肉親を失った人々の悲しみは、大金をもってしてもあがなえない。しかしここで多額の賠償を取り立てることは、戦後の日本の生命を奪うに等しい。赤色帝国主義が日本を狙っている今、多額の賠償負担によって日本を弱体化するような措置は避けなくてはならない。アジアの安定のためには、日本が強力な反共国家であってくれなくてはならないのだ。(下410頁)

 

・中国に対し、米国は戦争終結後から、日本への派兵を要請してきていた。1946/6には1万5000人を派遣することが本決まりになっていた。しかし、この派兵は、直前になって中国の決断により、中止となった。
その理由は、ソ連の日本占領の野心を封じるためだった。もし中国軍が日本に進駐すれば、ソ連はこれを言いがかりにして赤軍を進駐させようとするに違いない。
当時、東北に居座ったソ連は、占領下の北朝鮮で赤化カイライ政権工作を行い、次は日本を目指していた。ソ連に日本占領の口実を与えてはならなかった。(下413頁)

 

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D. 中国 現代

1. ユン・チアン(張戎)「ワイルド・スワン」1991

・1962年はじめ、共産党幹部7000人を集めて開かれた会議(七千人大会)で、毛沢東は、「飢饉は七分が天災で、三分が人災であった。」と発表した。そのとき劉少奇国家首席が、「いや天災三分、人災七分だ。」と口をはさんだ。ついその場のはずみで口をすべらせたような言い方だった。会議に出席していた父は、戻って来て母に、「劉少奇同志は、まずいことになるぞ」と言った。

・1973年春、鄧小平が復権し、国務院副総裁の地位につた。病を得た周恩来首相の後継者となったのである。私は、ぞくぞくするほどうれしかった。鄧小平の復権は、文化大革命の流れが逆転しようとしている確かな兆候のように思われたからだ。鄧小平は、破壊よりも建設をめざす指導者であった。

 

2. 主治医の見た-「毛沢東の私生活」李志綏(スイ)1994

・私は、22年間、毛主席の側にあってほとんど毎日彼とともに暮らし、あらゆる会合にも、あらゆる旅のおともをした。

・1959年「廬山会議」。車がいざつづら折りの山道を下っていくと、私の緊張感はもうゆるみ始めた。私は、内部抗争で分裂しかけている党をあとにしたのだった。中国と党への夢はたたきつぶされていた。私が抱く毛沢東像も、がたがたに崩れ去っていた。たったひとつの望みといえば、自分を救うことであった。廬山から遠ざかっていけばいくほど、胃の痛みは減じた。廬山でなかなか寝つかれなかったのに、飛行機が飛び立つやいなやぐっすりと寝込んでしまった。

・人垣ができていた。ほとんどが党中央書記処の下級幹部である。党中央警備団の将校や兵士も見守っていた。劉少奇に少しでも救いの手をさしのべようとする者はいなかった。劉少奇と夫人の王光美は、群衆の真中に立たされ、書記処のスタッフにこずかれ、蹴られ、なぐられたりしていた。国家主席のシャツは、ひきさかれ、肌がはだけ、ボタンもいくつかもぎとられていた。人々は、彼の頭髪をつかんで引きずりまわした。よく見ようと近づいたとき、劉少奇は、つかまれた両の腕を背中にねじあげられ、腰から前かがみの「ジェット式」として知られる姿勢をとらされた。しまいにその上半身を倒し、顔が地面にふれそうなところまでぐいぐいおしつけて蹴る。平手でなぐりつける。それでもなお、警備団の警備兵たちは、介入しようとしない。私は、見るにしのびなかった。劉少奇はすでに70才に近く、しかも我々の国家主席ではないか。

・私に執筆を決意させたのは、妻のリリアンであった。 妻は、昏睡状態におちいる直前、私どもの子や孫たち、それに続く世代のための記録として書くように強くすすめたのである。 私は本書のために自分の生涯をささげたようなものだ。神経外科医になるという私の夢はつぶれ、新中国への望みもうちくだかれた。 私は、医師としての生涯を、毛沢東と中華人民共和国にささげたが、今の私には、国家もなければ家もない。故国では歓迎されざる人間となっている。 私は、リリアンと自由を愛する人々のために、そして深い悲しみのうちに、本書を執筆した。 毛沢東の独裁体制が人々に与えた恐るべき結果の記録として、そしてその下で生きた善良かつ有能な人々が生きのびるために、 いかに自分の良心にそむき、理想を犠牲にすることを強いられたかという記録として、本書が語りつがれることを私は願ってやまない。

 

3. 「文化大革命十年史」厳家祺・高皋1995

・1966年8月23日午後、北京の紅衛兵は、北京市文化局の責任者や著名な作家老舎など30余名を各々の首に 「黒い仲間」、「反動的学術権威」、「牛鬼蛇神」などの札を下げて、全員をその場で「陰陽頭」に剃り、何人かの頭に墨汁を浴びせた。 炎暑の季節、67才の作家老舎は殴られて頭から血を流し、その場に昏倒した。 二日目の明け方、披露困憊し、傷だらけになった体を引きずって家に帰ったときすでに気息奄奄の状態になっていた。老舎は、未明、太平湖に身を投じた。

・11月10日、北京師範大学の200名余りの紅衛兵が山東省曲阜で「孔家店徹底撲滅大会」を開き、孔子の墓石を砕き、孔子像を壊し、第76代目の子孫の棺を開けて屍を衆目に晒した。師範大学の紅衛兵が1ヶ月滞在した間に数千年にわたって保存されてきた中国の貴重な文化財は破壊し尽くされた。

・文革は、最終的には劉少奇を打倒することが目的であった。劉少奇は、国家主席として中国に8年もの長きにわたって立っており、彼を打倒するには、その障害になりそうなあらゆる高級幹部を打倒しなければならなかった。

・周恩来の一生は、毛沢東に忠誠を尽くした一生であった。毛沢東の政策が正確であれ誤りであれ、常に執行者となった。林彪と江青が権力抗争に明け暮れていたときですら、周恩来は全国の経済運営に心を痛めていた。もし周恩来が打倒されれば中国の混乱した局面は収拾がつかなくなってしまうことを毛沢東は良く理解していた。しかし毛沢東は、林彪の死後も、周恩来の権力と影響力が増大することを決して許しはしなかった。
周恩来の死後、人々の周恩来への哀悼と賞賛は事実上、文革への抗議であった。毛沢東への直接の批判と反対は、直ちに、「反革命」とされてしまい、「生命の危険に身をさらす」ことになりかねなかったため、人々は周恩来に対する哀悼と賞賛という方法で江青、張春橋らに抗議したのであった。毛沢東も「周恩来礼賛」がすなわち「毛沢東批判」であることを充分承知していた。

・80年代初期、毛沢東の妻・江青を裁判にかけたとき、中国の庶民は誰もが、文化革命のそもそもの責任は、「林彪・江青の両反革命集団」ではなくて毛沢東本人であることを知っていた。80年代始めには、毛沢東は、人々には「五人組」と呼ばれていたのである。

 

4. 「マオ-誰も知らなかった毛沢東」ユン・チアン(張戎)・ジョン・ハリディ2005

・張作霖爆殺は、一般的には、日本軍が実行したものとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際には、スターリンの命令に基いて、ナウム・エイティンゴン(のちにトロッキーの暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものという。

・張学良は、ソ連に対して、中国共産党と同盟する用意があること、蒋介石の渋っている対日戦線布告をする用意のあることを、はっきり伝えた。そしてそれと引き換えに、自分が蒋介石に代わって中国の支配者になるための後押しをしてほしい、と求めた。

・スターリンの狙いは、日本を中国の広大な内陸部へおびきよせ、泥沼にひきずりこむこと、それによって日本をソ連から遠ざけることであった。

・蒋介石は、日本に降伏する気はないものの、戦線布告をする気もなかった。現実的に見て、中国に勝ち目はなく、日本と対決すれば中国の破滅に繋がると考えていた。そこで蒋介石は、降伏するでもなく、全面戦争に出るでもないどっちつかずの態度に出た。それが可能だったのは、中国が途方もなく大きく、また日本が徐々にしか侵略してこなかったからだ。

・モスクワは、蒋介石に首肯させる方法を知っていた。いまこそカードを切るチャンスだ。周恩来は、蒋介石に、ご子息は帰国するでしょう、と告げた。スターリンからこの約束を受け取ると、蒋介石は、ようやく共産党の要求に応じる姿勢を見せ、周恩来に、「南京に直接交渉に来てよい。」と言った。このときを境に、中国共産党は、公式に「共匪」でなくなり、国政の場で政党として扱われることになった。

・1950年、金日成からスターリンへ重ねて要請があった。中国の解放がまもなく完了するから、この次は、韓国の解放だ。金日成は、「スターリンと会うのが無理ならば、毛沢東と会うつもりだ。毛沢東が中国内戦の終結後に、こちらを支援してくれると約束した。」と強調した。

・大躍進と大飢饉の4年間(1958-61)で、5800万近い人が餓死又は過労死した。劉少奇は、大飢饉が終息する前の段階ですでに、3000万人が餓死したことを、ソ連大使に話している。

・飢饉が最悪だった1958-59の2年間で、穀物だけでも700万トンが輸出されている。これが人道主義的に分配されれば、おそらく一人の餓死者も出さずにすんだはずだ。

・毛沢東は、劉少奇および七千人大会に出席した党幹部たちに対する復讐を決意した。数年後、毛沢東は、文化大革命という名の大粛清を開始した。江青がはっきり指摘したように、毛沢東は、「七千人大会の遺恨を文化大革命で晴らした。」のだ。毛沢東の狙いは、遺恨を晴らすことだけではなかった。この幹部たちを粛清して新しい幹部と入れ替えることであった。

・スターリンは、KGBというエリート組織を使って粛清をおこない、犠牲者は、刑務所や強制労働収容所など大衆の目に触れないところに速やかに連行されていった。対照的に、毛沢東は、暴力も辱めも衆人注目の中でおこなうよう指示し、部下に直属の上司を拷問させるという方式で、迫害にかかわる人間の数を増やしていった。

 

5. 「周恩来秘録」高文謙2007

・1976年1月8日、周恩来が世を去ると北京の市民は、続々と天安門広場に集まり、周恩来を泣き、国家を泣き、そして自分を泣いた。遺骨を残さないという遺言を知ると、さらに泣いた。文革以来の社会に積み重なってきた抑圧への不満と反抗心が、周恩来を悼む旗の下に集まり、その中から「周を悼み、鄧(小平)を擁護し、江(青)を討ち、毛(沢東)にあてつける。」という言葉が浮かび上がってきた。

 

6. 「鄧小平伝」ツォン・シャオロン1995

・1979年 鄧小平の改革は、まず農村から始まった。その象徴は、人民公社の解体である。人民公社の所有していた土地その他の生産財を農家に請け負わせ、人民公社の集団経営から、勤労意欲を呼び起こすため「農家生産請負制」の自主経営に転換するものであった。
同時に改革開放の突破口として経済特区を設けた。1980年から広東省のしんせん、珠海、すわとう、福建省のあもいなどが指定された。
1981年から工業企業では利潤請負制が試行され、1983年から1986年にかけて、企業の国に対する利潤納付制から税金納付制への転換がなされ、1987年から国有企業で経営請負責任制が取り入れられた。1992年以降、企業の自主経営権はさらに拡大され、市場経済のもとでの企業経営を方向づけた。

 

7. 江沢民 2001年共産党創立80周年記念大会演説「三つの代表論」

(1)「社会主義市場経済」への移行が進められ、市場メカニズムの中での経済成長と民衆の生活向上を目指す。

(2)インターネットに代表される情報化時代の文化など「先進的な文化の方向」をリードする。

(3)1部の階級でなく「最も広範な人民の利益を代表」する。

 

8. 「日中逆転 膨張する中国の真実」日経新聞社編2010/6

・2009/3/末にテレビ、携帯電話、エアコンの世帯普及率は100%を超えた。

・中国乗用車市場のブランド別シェア(2009)

フォルクスワーゲン 16.5%
現代(韓国) 9.7%
GM 9.0%
トヨタ 7.8%
ホンダ 6.6%
日産・ルノー 6.2%
奇瑞(中国) 5.7%
比亜油(同) 5.1%
浙江吉利(同) 3.8%
中国第一(同) 3.5%

・2009年の製造業の利益

国有企業 7514億元
民営企業 6849億元
外資企業 7511億元

・人民銀行は、中国の中央銀行だが、国務院(政府)の下部組織という位置づけ。最終的な決定権は、温家宝首相にある。

・「民主集中という名の下で事実上、共産党の一党体制が続く中国。一度何かが決まれば迅速で効果的な対策が打たれる。2008年秋に打ち出した4兆元の景気刺激策はその真骨頂で世界を驚かせた。しかしいったん走り出すと、ブレーキをかける役回りは誰も演じたがらない。」

・2009年10月の建国60周年祝賀大会
「一大国家行事の開催に当たり、中国当局が敷いた未曾有の警戒態勢は、中国が抱える社会矛盾の根深さと、農民や少数民族の不満暴発に対する中国指導部の強い懸念をかえって際立たせる。」

・2008年12月300人余りの中国の学者・作家らが、共産党による一党支配の廃止や三権分立、言論の自由などを求めた声明「08憲章」をインターネットで公表した。起草の中心人物 劉暁波は、公表の直前に拘束され、2009/12に懲役11年の実刑判決を受けた。

・中国では2009年を通じて不動産価格が大幅に上昇した。同年12月の価格は 前年同月比7.8%上昇。統計に出てこないが、北京市や上海市などの高級住宅価格は、1年間で5割近く上昇したとされる。

 

9. 丸川知雄「中国なしで生活できるか」PHP研究所 2009/11

・日本の輸入依存度は14%である。そのうち中国からの輸入額は、日本の国内総生産の2.9%に過ぎない。

・輸入しているものの中身は、食品でいえば、タケノコ、緑豆、ハチミツ、ハマグリなど大したことはない。アメリカが主たる輸入先である小麦やトウモロコシの方が、輸入が止まったときの影響は大きい。

・中国から輸入している製品のうち、最も多いのは電気機械、次いで機械。これらは国際的な相互依存の中で作られている。例えばノートパソコン。組立ては中国だが、その部品は、アメリカ、日本、韓国、台湾など。衣服も最終的な縫製は、中国だが、デザインは、日本、生地は日本、イタリアということもある。

・日本の中国からの輸入が増えると同時に、日本から中国への輸出も増えている。中国からの輸入の増加は、日本の工業を衰退させるのでなく、日本の工業を盛んにする側面があるのだ。
だから日中の外交関係が今後悪化したとしても、中国が日本への輸出を突然禁止することや、逆に日本からの輸入を禁止することは、まずあり得ない。そんなことをすれば、中国の産業にも大きな打撃となるからだ。

・中国国内では、食品の安全を脅かす問題が数多く発生しているのは事実である。しかし、特に日本に輸出する食品となると、中国の生産者も細心の注意を払っているのは間違いない。なぜなら、日本の厳しい検査で不合格となり輸出できなくなったら、元も子もないからである。

 

10. リチャード・マグレガ-「中国共産党-支配者たちの秘密の世界」草思社 2011/6

・中国共産党が権力を保持できているのは、レーニンの戦略をそのまま採用しているからだ。中国は過去30年間改革を続けてきたが、党はその間ずっと国家の手綱を握り、生き残りのための三つの柱-人事管理、メディア、軍-を完全に支配し続けてきたのだ。

・2009年半ばで党員数は7500万人。全国民の12人に1人である。

・「わが国の党は神のようなものだ。目に見えなくとも、あらゆる場所に存在する。」

・2007年の中国共産党第17回全国代表大会の舞台に並んだ9人(政治局常務委員)の登場してくる順番は、2012年までの5年間の指導部の序列を決めるのだ。
公的な政治から締め出されている一般市民にとって皆ほとんど初めて見る顔である。これらの政治局の中枢であるメンバーが再び勢ぞろいして公の場に現れることはまずないであろう。儀式は10分ほどで終了した。

・中国共産党の中央委員会は約370人から成る。中央政府の上級官僚、各省や直轄庁のトップ、軍役人、一部国有大企業のトップ、チベットなどの少数民族代表。
中央委員会の選抜によって決められるのが25人ほどの政治局。政治局によって選出されるのが9人の常務委員である。

・中国には約15万人の弁護士が登録されているが、その3分の1の4万5000人が共産党員だ。弁護士事務所の95%に党委員会が設置されており、そこで弁護士の給与査定が行われる。

・裁判所の判決に党が介入するのに苦情をいったところ、党ではこれを指導と呼ぶのだといわれた。

 

(国営企業)

・鄧小平の方針を要約するとシンプルだ。党は、改革開放を進めると同時に中央政府の政治権力を強化する。党は、国有財産を直接所有しないが、それを管理する役職の人事権を持つ。経済を発展させるには、党の政治委員が直接管理していた国有大企業の根本的改革を行い、企業内の政治委員の役割を制限する。国は自ら稼いで生き残らなければならない、というものだ。

・1993年以降の10年間の内に、国有企業の労働者5000万人を解雇した。中央が管理する都市部の国有企業で働く労働者数は、ピーク時の7600万人から2800万人まで減少した。

・朱鎔基が1997年の党大会で明らかにした方針は、「大を捕まえ小を放す」というものであった。エネルギー、鉄鋼、運輸、電力、通信といった戦略的大企業は、党と国家が引き続き支配する。赤字の小企業は、売却するか、地方政府の管理に任せる。この方針は今でも生きている。

・90年代には、どのようにして企業をつぶれないようにするかが党の課題であった。21世紀に入った頃には、再構築された企業は、すっかり巨大化し、 利益を上げ野心を抱くようになった。いまや問題は、どのように彼らの手綱を引くかとなったのだ。

 

(党の人事管理)

・党中央組織部が 党内の人事を管理している。
党はこの10年間縁故主義より能力主義を重視しようと努力してきた。中央の要職に就く前に、各地で様々な職務を経験させ、それに合格した者だけを北京に呼び戻すという伝統的な方法だ。

・2004年、中央組織部は、国内の3大国有通信会社たるチャイナモバイル、チャイナユニコム、チャイナテレコムのトップを入れ替えると発表した。このうち2社はすでに海外に上場しており、残る1社も上場の準備をしていた。

・会社を経営するのは役員会であるという考えは、中国では現実には起こらない。役員人事を振るのは党である。
党からみれば、企業間や政府機関内の人事交替は、同じシステム内での異動に過ぎないのだ。
2009年には国有航空会社のトップを一夜にして入れ替えた。通信会社のトップもその後数回交代させられている。

・党中央組織部は国有企業ほぼ50社のトップを選ぶ責任が与えられている。

 

(人民解放軍)

・中国では建軍当初から、軍の将校の地位を一人が指揮官、もう一人が政治委員が占めるという二重の統率システムとしていた。
いまや将校となるには、共産党員であると同時に専門的軍事技術がなければ出世できない。
台湾の独立の動きを阻止するために軍備を増強することは、軍にとって政府から予算を引き出すために最も説得力のある手段だった。
胡錦濤は、再統一について触れない。経済を強くすることによって自分の立場を強めっている。彼にとって、台湾問題は急務ではない。
台湾が正式な独立をあきらめる代わりに、胡錦濤は半永久的に再統一の期限を切らないということだ。

 

(上海)

・上海は、社会主義的繁栄を誇示するための展示物として開発されたものだ。摩天楼に感嘆する観光客のほんどは、その建物の多くが市営企業によって建てられたものであることを知らない。上海は、多くの観光客が信じているような自由市場ではなく、党の理想の象徴なのだ。

 

(地方)

・中国の都市の多くは、靴下、ワイシャツ、ズボン、革製品というように一つの製品に特化し、そうすることによって世界的規模の製品販売を押し進めた。
中国成長の謎を解く鍵は、地方同士の熾烈なビジネス競争だ。
地方の党委員会の書記は、その管轄区域内においては独裁的ともいえる権力を握っている。

 

(鄧小平)

・雇用を生み出す原動力として民間企業を奨励する一方で、強大になりすぎたときには手綱を引く。企業家の党員資格を認める一方で党に刃向かう企業家を威圧する。
活発な民間経済だけが共産主義体制の破綻を防ぐということに鄧小平がいち早く気づいたことは中国にとって幸運であった。
20世紀末の中国における純粋な民間部門の規模、つまり政府との提携や関係の全くない企業の割合はきわめて小さく、全工業生産高の20%程度に過ぎない。

 

(毛沢東)

・1980年代前半に党の下した「七割がよく 三割が悪い」という毛沢東評価によって決着がついた。今となってみれば、あの評価は政治的に賢明な判断だった。毛沢東を完全否定していたら、中国社会に多大な悪影響が出ただろう。

 

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E. 中東

1. タミム・アンサーリー「イスラームからみた世界史」2011 紀伊国屋書店

・マムルークとは奴隷のことで、そのほとんどがトルコ系だった。彼らは子供の時に宮廷に連れてこられ、軍事技術全般が仕込まれた。中東の歴史では、マムルークが主人を倒しておのれの王朝を樹立するのは珍しいことではなかったが、バイバルスが体制を確立したマムルーク朝は、それら通常の「王朝」とは趣を異にしていた。
マムルーク朝は真の意味での「王朝」ではなかった。なぜなら、王位継承の原理が世襲ではなかったからだ。スルタンが没するたびに、有力なマムルークで構成されるスルタンの側近グループが、仲間の一人を選んで、新スルタンを推戴した。
エジプトを統治していたのは特定の一族ではなく、新たな実力者の参入によって序列が絶えず更新されるマムルーク軍団だった。これは一種の能力主義であり、この制度はうまく機能した。マムルーク朝の統治のもとでエジプトはアラブ世界の指導的な国になった。(298頁)

 

・1258年(モンゴル族の)フラグがバグダードを破壊した年に、アナトリアの指導的なガーズィーの家にオスマンが生まれた。彼の直近の先祖は中央アジアの遊牧民で、モンゴルの襲撃から逃れてきた 400人ほどの氏族だった。オスマンは、戦闘の季節が巡ってくると部下を率いて国境地帯に出撃し、キリスト教徒と戦って戦利品を分捕った。
オスマン朝(1299~1922)初期の歴代君主は総じて長命で、しかも極めて有能だった。たとえば第三代スルタンのムラト一世は黒海を越えて征服活動を展開し、帝国領土にヨーロッパ側の土地を加える端緒を開いた。

第四代スルタンとなったバヤズィト一世はデヴシルメという制度を創設した。この制度は、ヨーロッパの領土からキリスト教徒の子供を徴用して宮廷に集め、ムスリムに強制改宗させたのち、一流の兵士に育て上げる。これはマムルーク制度の二番煎じだったが、マムルーク制度ではトルコ族の少年がアラブ人かペルシャ人の宮廷で育てられたのに対し、デヴシルベ制度ではキリスト教徒の少年がトルコ人の宮廷で養育された。この制度によって教育訓練された兵士はイェニチェリと呼ばれた。デヴシルメ制度は、スルタンに歩兵を指揮するプロの将校団を提供したのだ。(327頁)

1402年、ティムールとバヤズィト一世はアンカラ近郊で戦った。バヤズィト一世は敗れ捕虜にされ、サマルカンドまで連行され死んだ。ティムールはまもなく病没したが、オスマン帝国は復活したばかりか一層隆盛に向かった。

 
1452年、オスマン帝国はコンスタンティノープルを征服した。第七代スルタンメフメト二世が19才で即位したときにすでに決意していた。オスマン帝国に征服されたとき、イスタンブルの人口は 7万人ほどでしかなかった。非ムスリムは人頭税を納めさえすれば、宗教の自由を認められ、土地その他の財産を従来通り所有できるという、イスラームが古代から適用してきた征服地の統治原理を改めて確立した。あらゆる宗教と民族の人々がイスタンブルに流入した。(334頁)

イェニチェリは結婚することも子供を持つことも禁じられていたので世襲のエリートにはなれなかった。社会のあらゆる階層から将来有望な少年たちを発掘し、彼らに厳しい知的・肉体的訓練をほどこしたのちに、帝国を運営する責任を課すというものだった。当然のことながら、彼らは旧来の伝統的な貴族階級、すなわち武勲によって身を立てた中央アジア出身のトルコ人の子孫からかなりの権力を奪い取った。(349頁)

オスマン帝国は16世紀のスレイマン一世(在位1520~66)の治世に最盛期を迎えた。この時、オスマン帝国はおそらく世界最強の国家だったろう。コンスタンチノープルとメッカを擁し、しかもカイロまで領有していた。史上初めて1人の人間が(宗教的権威としての)カリフと(世俗的権力者としての)スルタンを兼務するようになった。(344頁)

 

・1502年、15歳になったイスマーイールは自らイランのシャーハンシャー(王の中の王)と名のった。「カリフ」や「スルタン」という称号を拒否することによって、アラブとトルコの長年の伝統を否定するとともに、ペルシャ系のアイデンティティーを強調した。 
イスマーイールはさらに十二イマーム派を国教と定めて、近隣諸国と袂を分かった。サファヴィー朝は、アリーが預言者ムハンマドの唯一正当な後継者であると宣言し、アリーの血統に連なる「イマーム」だけが宗教的権威を有すると主張した。
ペルシャ民族主義と一体となったシーア派信条は、この新生帝国のイデオロギー的基礎となった。(351頁)
イスマーイールが27才になった1514年、オスマン帝国セリム一世はサファヴィー朝領土に進入した。オスマン軍は大砲や小銃を持っていた。セリム一世はサファヴィー朝軍を粉砕し、イスマイールを殺す一歩手前まで追い詰め、彼の首都タブリーズを占領した。が、翌年には奪還され、この戦いはオスマン帝国とサファヴィー朝の領土の境界を確定しただけで終結した。この境界は最終的にそれぞれの帝国を継承したトルコとイランの国境となり、今日にいたるまで変わっていない。
このペルシャ人の帝国は、イスマーイールの曾孫で第五代シャーのアッバース一世(在位1587~1629)の時代に最盛期を迎えた。
サファヴィー朝の時代のペルシャでは絵画、とりわけ「ペルシアン・ミニアチュール」(精密に描いた情景や花を幾何学模様で縁取った優美な細密画)の技法が頂点に達した。ムスリムが文字で記されたクルアーンを崇敬することから、カリグラフィー(書)はイスラーム世界における主要な芸術様式となっているが、これもまたこの時期に完成の域に達していた。
サファヴィー朝の独創性は、建築分野で最高度に発揮された。たとえば、オスマン様式の重厚なモスク(周囲にミナレットを配し、ドームを連ねた地味な建造物)とは異なり、サファヴィー朝のそれは優雅で軽快な外観を呈している。壁を装飾する釉をかけたモザイクタイルがちらちら光ると、まるでモスク全体が空中に浮かんでいるように見える。そのため、いかに巨大なモスクであっても、レースと光でできているかに見えるのだ。
1598年、シャー・アッバスは(イラン高原中部の)イスファハーンを新たな首都に定めると、この都市全体をみごとに調和した宝飾品に変貌させる建設計画に着手した。(355頁)

 

・ムガル帝国は富の面でも武力の面でも、オスマン帝国と全く同格だった。今日の世界の人口のおよそ 20%は、かつてのムガル帝国領土に居住している。その領域には現在のアフガニスタン、パキスタン、インド、バングラデシュおよびビルマという5つの国家の全部ないし一部が含まれている。この巨大な帝国を創始したのは「虎」を意味するバーブル(1483~1530)と名乗る男だった。彼の父親は、アフガニスタン北方に位置するフェルガナという小国を統治していた。1495年、12才のとき、父親が死ぬとマーブルがこの国を継承した。18才になるまでに、彼はフェルガナとサマルカンドをそれぞれ2回ずつ、手に入れては失った。
彼は冒険に明け暮れていたときにも、ずっと日記を書き続けていて、日記をもとに晩年に著した回想録「バーブル・ナーマの研究」は、トルコ文学史に残る傑作となった。
ムガル朝の、初期の200年を通じて、たった6人の皇帝が帝国を統治した。そのほとんどが情熱的でロマンチックな芸術家肌の性格で、少なくとも3人は軍事的天才だった。
第三代皇帝アクバル大帝は、この帝国の決定的な弱点を認識していた。それは、圧倒的に少数派のムスリム集団が莫大な数のヒンドウー教徒を支配しようとしていることだった。アクバルは政府のあらゆる官職をムスリムと同じ条件でヒンドウー教徒にも開放した。ヒンドウー教寺院に詣でる巡礼者に課してきた懲罰的な税金を廃止した。クルアーンが非ムスリムに課すと定めてある人頭税も廃止した。
第六代皇帝アウラングゼーブ(在位1658~1707)は、反対に、アクバル大帝が推進した寛容と融合政策の対極を追求した。ムガル朝最後の巨人は冷酷な狂信者であったにもかかわらず、1600年前後の最盛期には、ムガル朝は疑問の余地なく、世界最強の三大帝国の一翼を担っていたのだ。(366頁)

 

・オスマン帝国の終わりの始まりを画するものとして、二つの重大な軍事的敗北がある。もっとも、当時はいずれの敗北についても、トルコ人はほとんど気にかけていなかった。その一つは、1571年のレパントの海戦で、ヴェネツィア、スペイン、教皇庁が結成した同盟艦隊は、オスマン帝国の地中海艦隊を事実上全滅させた。しかし、実際のところ、オスマン帝国は1年もたたないうちに、失ったものより大規模かつ近代的な艦隊を再建した。それから6ヶ月以内にオスマン海軍は東部地中海の制海権を奪還して、キプロス島を占領し、シチリアを攻撃し始めた。
もう一つの軍事的敗北は、1529年、壮麗王スレイマン一世がウィーン占領に失敗したことだった。この時点で、オスマン帝国の版図は最大に達していた。1683年、オスマン帝国は再びウィーン征服を試み、またしても154年前と同様に失敗した。だが、今回は自ら撤退したのではなく、ヨーロッパの連合軍に大敗を喫したのだ。(415頁)

 

・1600年以後、ヨーロッパで三つの巨大な国策会社、すなわちイギリス、オランダおよびフランスの「東インド会社」が相次いで創立された。三社はいずれも個人株主で構成される有限責任会社で喜望峰以東のアジア貿易で利益をあげて株主に還元することを唯一の目的として設立された。いずれも経営の主体は取締役会だったが、各国政府から特許状を授けられ、東方イスラーム圏で独占的に事業を行う特権を与えられていた。(430頁)

 

・セポイの反乱を完全に鎮定すると、イギリスは本性を剥き出し、あわれなムガル帝国最後の皇帝を退位させて追放した。東インド会社は特権のない一民間会社に格下げされ(1858年解散)、イギリス国王がインドの直接支配に踏み切った。それから90年間、イギリス首脳部はインドを「ヴィクトリア女王の王冠を飾る宝石」と見なし、以前にもまして油断なく防御するようになった。(444頁)

 

・世界第一次大戦において、イギリスは事実上ハーシム家、サウード家、ヨーロッパのシオニストに同じ領土を与えると約束した。しかも、その土地にはハーシム家やサウード家以外のアラブたちも現実に住んでおり、彼らは民族主義の高まりの中で、アラブ国家建設への欲求を急激に募らせていた。ところが、その一方で、イギリスとフランスは、これらのグループに与えると約束した領土すべてを両者間で分割支配することに、秘密裏に合意していたのだ。その後多年にわたって、誰が何に合意したのか、何が誰に約束されたのかについて、様々な屁理屈や、修飾語や、否認の言葉が弄された。(543頁)

 

・ムスタファ・ケマル(後に「アタチュルク」(父なるトルコ人)と称された)(1881~1938)は、祖国解放運動を組織して外国の軍勢をすべて駆逐し、1923年、トルコ共和国の誕生を宣言した。
トルコはムスリムが多数派を占める国の中で、政教分離を国是とした最初の国となった。
女性に投票権を与え、公職に就く権利や財産を所有する権利を認めた。
一夫多妻制を禁止し、新郎が新婦に支払う婚資制度に反対し、スイスの民法典に基づく離婚制度の制定を後押しした。
ヴェールやスカーフの着用を禁止し、男のトルコ帽も禁止した。ターバンも顎髭も激しく非難された。
公の場でのクルアーンの朗唱はアラビア語でなくトルコ語で行う。労働者の休日を金曜日から日曜日に変え、宗教学校を閉鎖した。(549頁)

 

・連合国は、イランの国王をナチスと接近したという理由で退位させていた。(国王は南アに亡命しそこで客死した。)イラン国民は大きな希望を胸に選挙を実施し、モサッデク(1880~1967)を首相に選出した。彼は政権を握ると、アングロ・イラニアン石油会社(のちのBP)との契約を破棄して、石油産業の国有化を宣言した。
CIA(国務長官ジョン・フォスター・ダレス)の動きは素早かった。1953年8月末、CIAから資金を受けたイラン軍の一派がクーデターを決行し、モサッデクは軟禁された。CIAは国王の息子を王座に連れ戻し、若きシャーはアメリカとの協定に署名して、イランの石油を「管理する」業務を七大石油会社が合同で作った国際的な石油合弁会社に譲渡した。
このクーデターがイラン国民の心に裏切られたという思いを刻みつけ、イスラーム世界の隅々まで身体が震えるほどの怒りを伝播させたことは、いくら強調してもし足りないだろう。(604頁)

 

・イラクの統治者サッダーム・フセインはスンナ派の世俗的近代主義者で、急進的なイスラーム主義者の不倶戴天の敵だった。1980年、ホメイニーが政権を掌握した直後に、フセインはイランに侵攻した。彼はおそらく、革命に揺れるイランを奪う機が熟したと考えたのだろう。イランの石油を狙ってもいただろう。ホメイニーに脅威を感じてもいただろう。それがいずれにしろ、彼が起こしたイラン・イラク戦争はいずれの国にも破局以外の何物ももたらさなかった。この戦争期間を通じて、アメリカはイラクに莫大な資金と大量の兵器を注ぎ込んでいた。
イラン・イラク戦争は1988年に終結したが勝者はいなかった。
その後の2年間、戦争の痛手から立ち直ろうと画策し、ついに1990年、クウェートの石油を我が物にしようと、この隣国に侵攻して「併合」したのだ。フセインは今度の冒険でもアメリカは自分を支援してくれると思いこんでいたようだ。(624頁)

 

2.ユージン・ローガン「アラブ500年史」 2013 白水社

  ・ オスマン人によるマムルーク帝国征服は、アラブ史にとって大きな転機となった。マムルーク朝の剣士とオスマン朝の銃撃手の間の武力衝突は、アラブ世界における中世の終りと近代の始まりだった。オスマン人による征服はまた、イスラーム勃興以来、アラブ世界が初めて非アラブ人から支配されることを意味した。イスラームの最初の王朝であるウマイア朝は、661年から750年までダマスカスから帝国を支配した。アッバース朝(750~1258年)はバグダードから支配した。969年に創立されたカイロは、1250年にマムルーク朝が出現するまで少なくとも四つの王朝の首都であった。1517年以降、アラブ人は自分たちの地位を外国の首都で制定されたルールに従って取り決められた。(上36頁)

  ・ アラブの州行政官はイスタンプールの中央政府から任命されてやってくるため、アラブ人の土地以外の出身者が多かった。マムルーク人と同様、オスマン人も奴隷の中から新兵を補充するという独自の制度を採用し、主にバルカン半島の諸州から兵士を集めていた。トルコ語では「少年徴集制度」を意味する「デウシルメ」によって、毎年この地方の村からキリスト教徒の少年が徴集された。彼らはイスタンプールに送られ、イスラーム教徒に改宗させられて、帝国に奉仕する訓練を受けた。体力の優れた少年たちは軍事訓練を受けて、「イェニチェリ」(新兵の意)と呼ばれる最強の歩兵軍団に入れられた。頭のよさそうな少年は宮廷に送られ、そこで宮殿や官庁で行政事務に就くための訓練を受けた。オスマン帝国の軍隊や政府内でエリート階級入りするのは、大体においてデウシルメで徴集された者に限られていた。(45頁)

  ・ スルタン・スレイマンはオスマン帝国で最も成功した支配者の一人である。彼の46年にわたる統治(1520~66)の間に、アラブ世界の征服を完了した。1533年から38年にかけてペルシアのサファビー朝からバグダードとバスラを奪回した。イラクの征服は戦略的にもイデオロギー的にも重要だった。

    スレイマンの軍隊は、1530年代から40年代にかけて南下してエジプトからイエメンに達した。地中海西部では、1525年から74年までの間に、リビア、チュニジア、アルジェリアが進貢の義務のある封土としてオスマン帝国領に加えられた。(47頁)

  ・ 18世紀には、オスマン帝国にとってアラブ諸州が生み出す脅威よりも、ヨーロッパの隣国からの脅威の方が目前に迫っていた。オーストリアのハプスブルグ家はヨーロッパのオスマン人の占領地を奪回しようとしていた。1683年までには、オスマン人はウィーンの城門にまで迫った。1699年には、オーストリア人がオスマン人を敗北させ、ハンガリー、トランシルバニア、ポーランドの一部を獲得。オスマン人にとって初めての領土喪失となった。ロシアのピョートル大帝は黒海地帯とカフカス地方でオスマン人に迫っていた。(75頁)

  ・ 1792年にフランス革命戦争が始まると、英国とフランスの敵対関係は再燃した。ナポレオンは、エジプトを占領することによってインドへの海陸ルートを封鎖しようとした。英国はホレイショ・ネルソン提督を任命してフランス艦隊を阻止しようとした。 ナポレオン軍は短時間でエジプトを占領したが、ネルソンの艦隊はフランス艦隊に追いつき、8/1の「ナイルの海戦」でフランスの戦艦2隻を除くすべての船舶を撃沈もしくは捕獲した。(106頁)

   ・ 中東の独立にとって最大の脅威はヨーロッパの軍隊ではなく銀行であった。

    1875年、オスマン帝国中央政府は破産寸前であった。この20年間に、オスマン帝国は16の外国から、総計10億2100万ドルの借財をしていた。それから利子や手数料を差し引くと手取りはわずか2億2550万ドルに過ぎなかった。第二次露土戦争終結のためのベルリン会議で1881年、「オスマン帝国公的債務管理局」が設立された。英国、フランス、オーストリア・ハンガリー帝国、イタリア、オランダとオスマン帝国の7か国からなる会議を率いる同管理局の議長は英仏が交代で務めた。食塩、漁業、絹にかかる税、印紙税、酒税、いくつかの州の租税まで借金の返済に充当された。オスマン帝国の鉄道、鉱山、公共事業などへの自由な参入も認められた。(170頁)

   チュニジア、イスタンプール、カイロの破産で中東の近代化のための改革は一巡して消えた。(171頁)

   ・ 1847年までに、11万人のヨーロッパ人がアルジェリアに入植した。翌年、入植者団はフランス議会への代議員を選出する権利を獲得した。1870年、25万人のフランス人入植者を持つアルジェリアは正式にフランス領に併合され、非ヨーロッパ人住民はフランス国家の臣民(市民ではない)とされた。(188頁)

  ・ ルーマニア、セルビア、ボスニア、ヘルチェゴビナ、モンテネグロ、ブルガリア、マケドニアなどのバルカン半島諸国がオスマン帝国からの独立を求めるようになるのは1830年代である。ヨーロッパ列強は、オスマン帝国内のキリスト教徒をトルコの軛から解放するために支援の手を拡げつつあった。ロシアは、バルカン半島の正教会キリスト教徒とスラブ人の全面的支援を決めた。オーストリアはボスニア、ヘルチェゴビナ、モンテネグロの分離主義運動を利用して自国の領土を拡大しようとした。(189頁)

  ・ ロシアに完敗したオスマン帝国は、1878年のベルリン会議までに押し付けられた条件にほとんどなにも抵抗できなかった。ヨーロッパ列強はオスマン帝国領土の第一次分割に着手した。ブルガリアはオスマン帝国内で自治権を与えられ、ボスニアとヘルチェゴビナは、名目上はまだオスマン帝国領土ではあったが、オーストリアの占領下に入れられた。ルーマニア、セルビア、モンテネグロは完全な独立を獲得した。ロシアはアナトリア東部に領土を拡げた。こうしてオスマン帝国は領土の5分の2と人口の5分の1(その半分はムスリム)を放棄せざるを得なかった。(191頁)

  ・ 1914/11、 オスマン帝国はドイツと同盟を結んで第一次大戦に突入した。オスマン帝国政府は戦闘には加わらず英国もしくはフランスと防衛同盟を結んで領土保全を図りたかった。だが、英国もフランスも三国協商のパートナーであるロシアを敵に回して戦いたくなかった。

    「フサイン・マクマホン書簡」、「サイクス・ピコ協定」から「バルフォア宣言」に至るまでの間に、英国政府は、大シリア圏とメソポタミアの大半について少なくとも二つまたは三つの当事者に同時に与えることを約束していた。

    1919年1月から6月にかけて、勝利した協商国のリーダーたちは100回以上もパリに集まり、敗北したドイツ、オーストリア・ハンガリー、オスマン帝国に課すべき条件について討議した。

    第一次大戦とそれに伴う戦後処理は、400年にわたるオスマン帝国のアラブ世界全土の支配にはっきりと終止符を打った。

    アラブ人が向き合うことになった新時代は、アラブの独立よりもヨーロッパの帝国主義によって進路が決定された。フランスは、北アフリカのアラブ人領土に加え、シリアとレバノンを獲得した。英国は、エジプト、パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの宗主国となった。ヨーロッパの大国は今日われわれが知っている近代中東国家の国境線を画定した。(273頁)

   ・ ペルシャ湾岸地域で最初の大量の石油埋蔵が確認されたのは、1908年5月のイラン中央部だった。英国は、湾岸諸国の首長たちと石油開発の独占権を認める契約を締結し始めた。(277頁)

  ・ パレスチナ委任統治領は、当初、地中海からヨルダン川を跨いで、広大な砂漠の荒野を抜けてイラクの国境にまで広がっていた。1923年、ヨルダン川の東側の土地はトランスヨルダンという別の国家を形成することになった。英国は、また、シリアのゴラン高原の一部をフランス委任統治領に割譲した。これによって、パレスチナは、ベルギーよりも小さい、おおよそアメリカのメリーランド州くらいの大きさになった。

    1882年にはユダヤ人は、巡礼者というよりも移民として続々到着し始めた。ロシア皇帝アレクサンドル三世によるユダヤ人の大量虐殺によって押し出された東ヨーロッパとロシアのユダヤ人が、シオニズムという強烈なイデオロギーに引っ張られてパレスチナに避難した。ムスリムが人口の85%、キリスト教徒が約9%、もとからのユダヤ人は人口の3%を越えてなかった。第一次大戦前にユダヤ人流入の二つの波があり、第一の波は1882~1903で、人口は2万4000人から5万人に倍増した。第二の波は1904~14で、8万5000人に達したと見られる。(310頁)

    ドイツでナチスが政権を奪取すると、ユダヤ人移民がどっとあふれ出した。1932年には1万人、33年には3万人、34年には4万2000人、ピークは35年で6万2000人がこの国に入り、人口の27%近くになった。(316頁)

    英国のピール調査委員会による1937年の報告書は、パレスチナ全土に衝撃を与えた。委員会の提案した解決策は「分離」であった。ユダヤ人は、沿岸部の大半と、ジェズレエル谷とガリラヤのこの国の最も肥沃な農地を含む全領土の20%が割り当てられた。アラブ人に割り当てられたのは、ネゲヴ砂漠とアラヴァ渓谷を含むパレシチナの最も痩せた土地、およびヨルダン川の西岸地区の丘陵地帯とガザ地区だった。ユダヤ人国家に割り当てられた土地からアラブ人を追い出す「強制移住」もありうるとした。

    アラブ人の悲嘆を倍加させたのは、この分離計画が独立したパレスチナ国家を想定しておらず、アラブ人の土地をトランスヨルダンに付け加えるつもりであったことである。(322頁)

  ・ フランスの法律は、アルジェリアを地理的に三つに分け、ヨーロッパ人が比較的多い地域にはフランスの民法が適用され、ヨーロッパ人が少ない農村部には軍部と民政の合同支配が適用され、アラブ人地域は完全に軍部の管理下に置かれた。

    アルジェリア人はフランスの「臣民」であり、軍隊に入ることも公務員になることもできた。しかし「公民権」を取得するには、アルジェリア原住民は自分のムスリムとしての公的身分を放棄し、フランスの個人的身分を規制する法に従って生きることに同意しなければならなかった。これはムスリムにとって自分の信仰を捨てよというのに等しかった。この法律が有効であった80年間に「公民権」を申請したアルジェリア人はわずか2000人であった。(371頁)

  ・1945/7、フランスは、ついに屈服し、軍部と保安部隊による支配をシリアとレバノンの独立政権に移譲することに同意した。フランス軍は1946年にシリアとベイル-トから撤退した。(388頁)

  ・英国のパレスチナに残留する決意は削がれた。1947/9/26、英国政府はパレスチナから一方的に撤退し、委任統治の任務を国連に託す意図を発表した。(399頁)

  ・1947/11/29、国連は、パレスチナ分割案を33対13、棄権10で可決した。

   1947年までに、パレスチナのユダヤ人人口60万人に対し、アラブ人は全体の3分の2に相当する120万人だった。ハイファのように、アラブ人が多数を占める多くの町や市がユダヤ国家に割り当てられた。名目上はアラブ国家であるヤッファはユダヤ人国家に囲まれて孤立していた。さらに、アラブ人はパレスチナ全土の94%と耕作可能な土地の80%を所有していた。パレスチナ・アラブ人は自分たちの国を切り裂いて半分をユダヤ人にやって5000エーカーのの尾tt例、それらは5エーカーを限度として濃さ悪人に再配分された。しまう国連と協議するのを拒否した。(400頁)

   ・ エジプトの「自由将校団」は、土地改革を行い、個人の土地所有を200エーカーまでに制限する法律を制定させた。およそ1700人の大地主が自分の土地を政府に徴用され、30年債で償還されることになった。エジプトの地主エリートから没収した土地は、総計36万エーカーに上った。それらの土地は、5エーカーを限度として小作人に再配分された。1952年の土地改革法案で実際に利益を得たのは、エジプトの農業人口のごく一部に当たる1万6000世帯で、総人口2150万人の一部に過ぎなかったが、エジプト市民の間に途方もなく大きな信頼感を生み出した。

    1953/6/18、エジプトは共和国宣言をし、ナギーブが最初の大統領に指名された。ファラオの時代以来初めて、エジプトは土着のエジプト人が支配することになった。(下20頁)

    1955/9、ナセルは、ソ連の衛星国チェコスロバキアから、近代的なT-34型戦車275輛、海軍艦隊用にミグ15、ミグ17戦闘機、イリューシン28爆撃機を含む200機の軍用機を獲得した。(38頁)

  ・ 1956/7/26、ナセルは革命4周年を記念する演説をした。「本日、スエズ運河会社はエジプトの会社になりました。」ナセルはスエズ運河の国有化を宣言したあと、運河からの3500万ポンドの歳入は、今後、アスワン・ハイ・ダム建設に充当されることになると誓った。国民は狂喜した。(42頁)

  ・ アルジェリアの独立戦争は、1954/11/1の最初の蜂起から、1962/9の「アルジェリア民主人民共和国」の樹立まで、ほぼ8年間、猛威を振るった。都市から農村まで100万人以上のアルジェリア人とフランス人が命を失った。(75頁)

    FLNは「アルジェの戦い」で社会のすべての階層を動員した。この運動における女性の役割は、ジッロ・ポンテコルヴォ監督の1965年の映画「アルジェの戦い」に活写されている。(80頁)

    1958年には、フランス自体がアルジェリア問題で分裂しつつあった。1954年のアルジェリアのフランス軍は6万人だったのに、1965年には50万人以上に膨れ上がっていた。(83頁)

    1958/6、ドゴール将軍が、大衆の歓呼の中、政権に復帰した。

    ドゴールは、FJNの頑強な抵抗に直面して、アルジェリア人の完全独立の要求に妥協せざるを得なくなった。1962/3/18、FLNとドゴール政権は、アルジェリアに完全独立を与える「エビアン協定」に署名した。アルジェリアで国民投票にかけられ、賛成590万票、反対1万6000票で独立に賛成した。アルジェリア人は132年ぶりにフランス軍を自分たちの国土から追い出した。

    アルジェリアのフランス人社会はテロを恐れて大挙してアルジェリアを去った。1962年だけで30万人が出国した。北アフリカに数世代にわたって住んでいた入植者家族はたくさんいたが、その年の終わりに残っていたのは約3万人のヨーロッパ人入植者だけだった。(87頁)

  ・ 神経を張り詰めた交渉の日々がエジプト大統領の命を奪った。1970/9/28、フセイン国王とアラファト議長を見送った後、帰宅したナセルは急激な心臓発作に襲われ、その日の夕方5時に死去した

    人々はエジプ全土からカイロへ殺到し始め、その数は1000万人に達した。人々を泊まる所もなくなり、食料も底をついた。当局は列車の運行を止めた。それでも人々は車やロバに乗って、あるいは徒歩でやってきた。悲しみはエジプトの国境を越えアラブ中に広がった。(126頁)

  ・ 儲けが出るほどの石油量がイラン(1908年)とイラク(1927年)で発見され、1930年代に入るとアラビア半島で次第に大当たりするようになった。1932年にバーレーン、1938年にはクウェートとサウジアラビア東部州で石油を掘り当てた。(128頁)

    1960/9/14、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビアとベネズエラは「石油輸出国機構(OPEK)」を創設した。(132頁)

    イスラエルの軍事活動に対するアメリカの露骨な支持はアラブ世界を激怒させた。アラブ産油国はアメリカに対し、次々と完全な禁輸措置を発動した。アラブ石油産出量は25%減少し、石油価格は急上昇した。1973/12には、1バレル11ドル65セントの最高値に達した。石油価格は6k月で4倍に跳ね上がり、西側経済を極端に不安定にし、消費者を痛めつけた。

    サダトは次第に、繁栄はアメリカの支持、引いてはイスラエルとの和平を通してのみ実現できると確信するようになった。

   ・1979/3/25、カーター、ベギン、サダトはホワイトハウスの芝生に戻り、エジプトとイスラエル間の最終的平和条約に調印した。アラブ諸国はエジプトとの国交を断絶した。その後エジプトがアラブ連盟に正式に復帰するまで20年以上を要した。エジピト国民は自分たちの孤立に愕然とした。(184頁)

  ・ 1979/1、アメリカの支持していたイランの国王(シャー)がイスラームの宗教指導者主導の民衆革命によって打倒された。革命の混乱により、世界第二の産油国であったイランの石油生産はほとんど停止してしまった。イラン国王の失脚に伴うパニックで、石油価格は1バレル13ドルから34ドルへとほぼ3倍に上昇した。(185頁)

 

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F. 朝鮮

1. 金成垣「韓国の過酷な若年雇用事情は変わるのか」中央公論 2013/1

・20代の就業者全体のうち、少なくとも3割、多くて5割超の人々が、月給88万ウォン(約6万8000円)の非正規労働者として働いている。
恋愛、結婚、出産を諦めざるを得ない若者たちを「三抛族」(サンポーゾク)という。

・人口10万人当たり 33.5人(2010年)というOECD最高の自殺率(日本は第2位で21.2人、OECD平均では11.3人)
とくに高齢者で65~74才が 81.8人(日本は17.9人)、75歳以上は 160.4人(日本は14.6人 )

・OECD最低の出生率1.08(2005年)、1.23(2010年)。日本は1.39

・15~24歳の若年就業率は、日本で38.8% それよりさらに低い23.1%は、OECDで最低水準。

・高齢者の相対的貧困率は、韓国で45.0%、アイルランドで30.6%、日本は22.0%、OECD平均で13.3%。
高齢者一人当たりの平均月収のうち年金部分は、8.7%と年金制度が機能していない。日本では7割以上が年金。

・韓国の財政は健全で、政府債務残高は対GDP比で33%、日本は21.0%。
韓国では国が国民に給付しない分、国民が自分で借金して生活する形になっている。

 

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