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私の先祖探求

1 細川護貞著「細川幽斎」中公文庫 1994

・1568年 信長は、六角承禎を攻めた。「(細川)藤孝(のちの幽斎)は、その手に属していた19才の松井康之、志水新之充等と共に敵を討ち、首を取った。」「義昭は信長と対面しその功の速やかなることを誉めた。藤孝、松井、志水等を召して誉めた。」(35頁 )

・1569年「三好が将軍の陣に攻め寄せ松永もこれにくみして攻め寄せてきた。藤孝これを聞き、松井胃助康之、志水新之充清久、などをを引き連れて駆け上がった。」「志水悪兵衛は打ち取った首を献上し、(義昭から)腰の物を褒美として頂いた。」(41頁)

・「今度、桂川西地一職を限り、信長より仰せ付けられ候。志水儀、本地たる由に候間一円申し付け候。領地を全くし、忠節を抽んず可き事肝要に候。
依って状、 件の如し。
八月三日
志水雅楽助(清久)殿 長岡(細川)藤孝 判」

・「三好党に本願寺の一揆が馳せ加わって二万ばかり取り出してきた。」「明智と藤孝はあとを押していたのをつけてきた。志水清久が「半道程さきは節所になっていて、敵は案内をよく知っています。そうなれば味方はことごとく討たれるでしょう。ここで取って返し勝負を決しましょう。」(89頁)

・石山の本願寺を「信長は自らかけめぐって下知していて、薄手を負ったが、少しもひるまずに進んだ。藤孝も衆を励まして駆け巡り、松井康之、有吉立言は、敵を討ち取り、立行も首を取った。志水新之充は太刀傷四ヶ所を受けたが終に首を取った。」(99頁)

・「藤孝と忠興とは、泉州に攻め入った。信長は泉州に陣取りをした。紀伊国の徒党(根来寺)は、泉州に篭っていたが・・・」「忠興をはじめ、松井、有吉、米田、志水等はこれを聞いて追い詰め」。(102頁)

・1579年「藤孝は、光秀と共に丹後の国に攻め入った。松井、有吉、志水等が先に進んで砦を攻め破り、多くの敵を打ち取った。」(123頁)

・「光秀は丹後を攻めた。そこで加勢として藤孝、忠興も出陣した。光秀の先駆けが切り立てられたのを見て、志水新之充が進んで敵を討ち取り、首を提げて来たので、光秀は、「その方のこと、今に始めざる働きなり」といって感賞した。」志水清久、同悪兵衛秀清等が加わった。(135頁)

2 「三百藩家臣人名事典第7巻」 新人物往来社 1989

「志水伯耆(ほうき)」(生没年不詳) 熊本藩士。初代藩主細川忠利、二代光尚に仕える。始め草辺与助のち主水。名は元五。志水清久入道宗加の二男。父退身のとき加藤清正に預けられる。慶長八年帰参、豊後において別禄二千石を賜る。志水主水と称す。父宗加隠居のとき、あわせて四千石、伯耆(ほうき )と改称し備頭、のち加増されて五千石。慶安年間に六千石、人持衆となる。」(446頁)

 

3 春名徹 「細川三代 幽斎、三斎・忠利」 藤原書店 2010

  ・ 中津にかわって八代を隠居領として与えられた三斎は、忠利を祝福するため熊本城に赴いた。酒食に先立って「目出たふ候、謡候へ」と三斎は所望した。三斎は「伯耆、四海波を謡え」という。

    伯耆とは志水伯耆守元五清久、丹後時代から細川家に仕えたが、三斎忠興と喧嘩して退散、肥後の加藤家に仕えていた。石垣原の合戦では清正の命令で旧主を救うべく参陣、その後忠興は清正に頼んで帰参させた。豊前で五千石、現に熊本では六千石を与えられている。

    なお志水伯耆守の孫一学(一角)は熊本における喜多流の祖で、金春流とともに肥後能楽の源流となった。(396頁)

  ・ (島原の乱 1637年)ようやく11月26日、小倉に着いた板倉、石谷上使が細川家に天草派兵を求めた。12月1日、気負い立った細川勢の先鋒、備頭の長岡右馬助、志水伯耆の率いる二組が三角半島の郡浦へ向かった。

    熊本藩の軍制では、少数の大身の侍を除いて大部分の武士は12組に分けられ、それぞれ千ないし五千石の備頭が率いた。家老は藤孝以来の松井、米田、有吉の三家で、それぞれ家臣団を率いて非常時には軍を指揮した。三斎の支配下の八代組も加わり、二日間に計4組、約三分の一の兵力を動員したことになる。(414頁)

4 司馬遼太郎「宮本武蔵」(昭42)

「小次郎が初太刀をふりおろしたとき、武蔵のむこう鉢巻の結び目が切断された。武蔵の柿色鉢巻が飛び、このため遠くからこの情景をみていた細川家の検分のひとびとの目には、武蔵の身に異変があったと一瞬おもった。つぎの瞬間には小次郎が斃されていたが、とにかく武蔵もまた負傷したのではないかとひとびとはおもった。」
「武蔵から何人か置いたあたりに細川家の大組頭で志水伯耆という身分の重い者がすわっていた。
「古い話でありますが、貴殿が佐々木小次郎と長門巌流島において試合をなされしとき、佐々木の初太刀が貴殿の頭を傷つけたという伝聞あり、このことまことでありますや、否や」といった。
武蔵の顔色がかわった。
武蔵は腕をのばし、かたわらの燭台を鷲づかみにした。
「ご覧あれ、古傷があるかないか。小次郎の刃があたったとすれば当然傷があるはず。 その傷をおさがしあれ」
と右手の燭台をわざわざかかげた。
元来異様な精気をもった武蔵がすでに怒気をふくみ、すさまじい執心をもって伯耆にせまってくる。
「拝見つかまつった。お傷はござらぬ」
「わが兵法は」
と、武蔵はつねづね言う。
「間合の見切り、ということこそもっともかんじんである。極の極の極意といっていい 」
間合とは敵の太刀先と自分との距離をいう。
「その間合を見切ってしまえば敵に負けることはない」

 

5 「志水才助」(生年不詳 - 寛政五年 1793)

熊本藩士。六代藩主細川重賢、七代治年、八代斉茲に仕える。通称はのち治兵衛。名は清冬。先祖は志水伯耆(ほうき)の親族志水次兵衛、元和二年豊前小倉で召し出され、知行三百石を拝領。才助は第六代。宝暦六年十月に家督相続、ただちに奉行副役として宝暦の改革を推進。明和八年六月大奉行に進み、天明四年五百石加増、都合一千石で中老。寛政四年大奉行役を免ぜられ、勝手方郡方を担当、同五年家老に進み、五百石高都合三千五百石となる。寛政五年九月没す。長安寺に葬る。(446頁)

 

同事典尾張藩に志水忠宗以下いわゆる尾張志水の方々が掲げられている。しかし、細川家の志水と血縁があるのかどうか分からない。参考のため同氏の略歴を掲げる。

「志水忠宗(しみずただむね)」天正2年~寛永3年(1574~1626)
尾張藩城代。初名は小八郎、のち甲斐と称す。父は志水加賀守宗清、母は田中甲清の女である。山城国八幡に生まれ、妹に家康の室となった相応院がいる。家康に仕え、会津征伐および関が原合戦に供奉し、戦功ををあげ五百石を賜う。相応院との縁で推されて、尾張藩祖徳川義直に従属したことから、大高その他五千石の采地を賜う。清洲の小笠原和泉守の館を居所としたが、のち名古屋城内へ移す。慶長十六年藩政を執り行う加判に列せられ、藩政基盤の確立に尽くし、大阪両陣の際には城代として名古屋城を守る。その労が賞され、五千石の加増を受け一万石を領した上、騎士二十三人をも支配することとなった。寛永三年一月十二日名古屋城深井丸の居邸にて没する。享年五十三才。生まれ故郷の正法寺に葬られ、甲竜院円誉浄徹と諡する。忠宗には三男七女がおり、二子忠次に一千石を、三男忠知に二千石をそれぞれ分領し別家を起こさせ、長男忠政に七千石、二十三騎を継がせた。」

 

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